見出し画像

ニカラグアの代表的詩人「ルベン・ダリオ」生誕157周年を記念して、彼の作品「青い鳥」を翻訳してみた!


1.はじめに

生誕の地「シウダー・ダリオ」にあるルベン・ダリオ像

 1月18日は、ニカラグアの代表的詩人「ルベン・ダリオ(1867‐1916)」の誕生日。彼は、スペイン語文学において、ラテンアメリカのみならず、スペインでも大きな影響を与えた、ニカラグアの国民的英雄二人のうちの一人(もう一人は、反米抗戦の英雄アウグスト・セサル・サンディーノ将軍)。

ニカラグアの国民的英雄二人(左:サンディーノ将軍、右:ルベン・ダリオ)
(ニカラグア国軍の広報イベントにて)

 その誕生日前後は、この偉大な詩人の生誕を記念し、またその功績を讃えるため、生誕の地シウダー・ダリオ及び永眠の地レオンをはじめとして、ニカラグア全土で様々な記念行事が行われる。老若男女が彼の詩をそらんじているのを目の当たりにすると、否が応でもルベン・ダリオの存在を身近に感じてしまう
 というわけで、(正直なところ、顔くらいしか知らなかった(苦笑))ルベン・ダリオのことを少しでも知ってみようと、今般、彼の作品に触れてみることにした。  
 私が選んだのは、1888年に発表された、モデルニスモの出発点とされる記念碑的詩集『アスール(Azul)…』(「青」の意)の中に収録されている、「青い鳥」という作品
 この作品の翻訳作業を通して、偉大な詩人のほんの一端なりとも感じてみたい。

ルベン・ダリオ「アスール(Azul…)」初版本

 私が「青い鳥」を選んだのは、ネットで代表作を調べている中、たまたまある方が推薦しているのを見たからです。そして、斜め読みをしてみて、ナイーブな青年ガルシンに関するこの話がなんとなく心に響きました。
 本note記事が、スペイン語文学モデルニスモの最大の代表者ルベン・ダリオについて知っていただく契機となったら幸いです。
 なお、「青い鳥」翻訳の後に、ルベン・ダリオ自身と彼が主導した文学の刷新活動「モデルニスモ」についても簡単な説明を加えました。ご関心があれば、目をお通しください。
 最後になりますが、この記事は、スペイン語をかじっている素人の語学学習を兼ねた翻訳と説明であり、その程度のクオリティのものとご理解ください。さらに深く、正確に知りたい方は、プロの手による翻訳本も何冊か出版されていますので、そちらの方をご参照ください。
 では、始めていきます!

2.「青い鳥」(翻訳)~1888年発表『アスール(Azul)…』から~ 

注:スペイン語原文は、このウェブサイトから引用しました。原文と見比べてみたい方はご参照ください。

首都マナグアにあるルベン・ダリオ像

 パリは、楽しくて、そして恐ろしい劇場だ。プロンビエ・カフェに集まる者たちの中には、画家、彫刻家、詩人など、善良で決意のある若者たちがいたが、そう、みんな古い緑の月桂樹を探しているのだ! そして、そうした中にあって、あの哀れなガルシンほど愛されている者はいなかった。彼は、ほとんどいつも悲しんでいて、アブサン酒をよく飲み、決して酔わない夢想家であり、また非の打ちどころのないボヘミアンのように、見事な即興詩人であった。
 我々の陽気な会合が行われる粗末な部屋の壁の漆喰には、未来のクレイのスケッチや筆致の間に、我々の愛する青い鳥の太く殴り書きされた筆跡で書かれた詩や詩節があった。
 その青い鳥とは、哀れなガルシンだった。なぜそう呼ばれるようになったのか、君たちは知らないだろう? 我々がそのように命名したのだよ。
 それは単なる気まぐれではなかった。あの優秀な若者は悲しいワインを飲んでいた。どうしてだと我々が聞いたとき、また我々が馬鹿みたいに、あるいは子供のように笑ったとき、彼は眉をひそめて晴れ渡った空を見つめ、苦笑いを浮かべて答えた。
-同志たちよ、君たちは、私の脳裏には青い鳥がいることを知らなければならないのだ、それ故に...

 また、彼は春の訪れと共に、新しい田園地帯に行くのが好きだった。詩人が我々に言っていたように、森の空気は彼の肺を良くしたのだ。
 エクスカーションから戻ってくるとき、彼はスミレの花束と、雲一つない広い空の下、木の葉の音に合わせて書かれた詩歌の分厚い手帳を持って帰ってきたものだった。スミレの花は、彼の隣人で、深く青い瞳をした薔薇色の爽やかな少女、ニニに贈るためのものだった。
 詩は我々のためのものだった。我々はそれを読み、拍手を贈った。我々は皆、ガルシンを賞賛した。彼は輝きを放たなければならない純真な若者だった。やがてその時は来るだろう。ああ、青い鳥はもっと高く飛ぶだろう。ブラボー! いいぞ! おい、ウエイター、もっとアブサン酒を持ってこい!

 ガルシンの根源。
 それは、花であれば、美しいフウリンソウ。
 宝石であれば、サファイア。広大さの中であれば、空と愛、つまり、ニニの瞳。
 そして詩人はこう繰り返した。「私は、常に愚鈍よりも神経症の方が好ましいと信じている」、と。

 ガルシンは、時々いつもより悲しむことがあった。
 彼は大通りを歩きながら、豪華な馬車、エレガントな紳士、優雅で美しい女性たちが通り過ぎるのを無関心に見ていた。宝石店のショーウィンドウの前では微笑み、しかし本屋の近くを通りかかると、そのガラス窓に寄っていって嗅ぎ回り、豪華版の本を見ては、はっきりと羨望を露わにして、額に皺を寄せた。憂さ晴らしのために、空に顔を向けてため息をついたのだった。我々を探してカフェに駆け込み、感動し、高揚し、ほとんど泣きながらアブサン酒を注文し、我々にこう言うのだ。
 -そう、私の脳というカゴの中には、自由を欲する青い鳥が幽閉されている...と。

 理性の損壊を信じるに至った者もいた。
 事情を知ったある精神科医は、このケースを特殊な偏執狂と診断した。彼の病理学的研究は疑いの余地を残さなかった。
 間違いなく、不幸なガルシンは狂っていた。
 ある日、彼は、布を扱う商人で、ノルマンディー出身の老人たる父から一通の手紙を受け取った。それには、大体このようなことが書かれていた。
 「パリでのお前の乱行を知っているぞ。そんな風である限り、お前は私から一文も受け取ることはできない。私の倉庫から書物を運び出すために来なさい。この怠け者め、お前の馬鹿げた原稿を燃やしたら、私の金をやろう。」
 この手紙は、カフェ・プロンビエで披露された。
 -それで、君は行ってしまうの?
 -行かないのだろう?
 -受け入れるのかい?
 -断るのかい?
 ブラボー、ガルシン! 彼は手紙を破り捨て、急に笑い出して、即興でいくつかの詩節を作ったのだ。私の記憶に間違いがなければ、このようなものだった。
   そう、僕はいつだって怠け者でいよう、
   そのことに拍手を贈り、祝うのだ、
   僕の脳が
   青い鳥の鳥籠である限り!

 それ以来、ガルシンの性格は変わった。饒舌になり、喜びに満ちあふれ、新しいフロックコートを買い、そして三行詩を作り始めたのである。もちろん、タイトルは『青い鳥』である。
 毎晩、我々の集まりの中で、この作品の中から新しいものが読み上げられた。それは素晴らしく、崇高で、クレイジーだった。
 そこには、とても美しい空、とてもみずみずしい田園、コローの筆の魔法にかかったかのように湧き出た国々、花々の間からのぞく子どもたちの顔があった。また、潤んで大きなニニの瞳も。さらには、飛んで、飛んで、全てを超えて飛んでいる青い鳥を放った良き神もいた。その青い鳥は、どうやって、またいつだったかも知らずに、詩人の脳内に巣を作り、捕らわれたままとなっている。鳥が歌えば、幸せでバラ色の詩が生まれる。鳥が飛びたいと思うときは、翼を広げ、そして頭蓋骨の壁にぶつかる。目を空に向かって上げ、額にしわを寄せて、少量の水と一緒にアブサン酒を飲み、仕上げに紙巻きタバコを吸う。
 ほら、それが詩だ。
 ある夜、ガルシンがすごく笑いながらやってきた。しかし、悲しい顔をして。

 美しい隣人が、墓地に運ばれた。
 -ニュースだ、ニュースだ! 私の詩の最後の歌。ニニは死んでしまった。春が来て、ニニは行ってしまう。田園のために、スミレを残して。今や、詩のエピローグが欠けてしまっている。編集者たちは私の詩を読もうとすらしない。君たちはもうすぐ散っていかざるを得ない。時の法則。エピローグには、こうタイトルが付けられなければならない。「青い鳥はいかにして青空に飛び立つかについて」、と。

 春爛漫! 花咲き誇る木々、暁時に薔薇色に染まり、夕方には青白く染まる雲。柔らかな空気が葉を動かし、麦わら帽子のリボンを特別な音を立ててなびかせる! ガルシンは、田舎に行ってしまうことはなかった。
 ほら、ここ、新しいスーツに身を包み、青白い顔をして、悲しげな笑みを浮かべながら、我々の愛するカフェ・プロンビエにやってくる。
 -私の友よ、抱擁を! みんな僕を抱きしめてくれ、こんな風に強く。心から、そして全霊を込めて、さようならと僕に言ってくれ…青い鳥は飛んでいく。
 そして哀れなガルシンは泣き、我々を抱きしめ、我々の手を力の限り握って、そして去っていった。
 みんなが言った。放蕩息子のガルシンは、ノルマンディーの老人である父を求めにいく。ミューズたちよ、さようなら。さようなら、ありがとう。我々の詩人は、布の長さを測ることに決めたのだよ! へい、ガルシンに一杯!
 翌日、青ざめ、怯え、そして悲しみに暮れ、あのみすぼらしい小部屋で騒いでいたカフェ・プロンビエの常連客全員がガルシンの部屋にいた。彼は、血まみれのシーツの上で、銃弾で打ち砕かれた頭蓋骨と共に寝床にいた。枕の上には、脳みその一部があった。なんて恐ろしいことだ!
 最初の衝撃から立ち直り、友人の亡骸を前にして涙することができるようになったとき、彼が有名な詩を一緒に持っていたことに気づいた。最後のページにはこう書かれていた。「今日、春爛漫の中、哀れな青い鳥のためにカゴの扉を開けたままにしておくよ」、と。

 ああ、ガルシンよ、いったいどれくらいの人間が、お前と同じ病気を頭の中に抱えていることか!

3.詩人ルベン・ダリオについて


注:「Instituto Cervantes」という、スペイン公的機関のウェブサイトに記載されていたルベン・ダリオの略歴を翻訳してみました。原文と見比べてみたい方はこちらをご参照ください。
 
なお、こちらの方も、スペイン語学習を兼ねた素人の翻訳であることを事前にお断りしておきます。

ルベン・ダリオの生家(シウダー・ダリオにて)

ルベン・ダリオ(ニカラグア共和国メタパ(現シウダー・ダリオ)にて、1867年1月18日出生、同国レオンにて、1916年2月6日死去)。詩人、ジャーナリスト、外交官。スペイン語文学モデルニスモの最大の代表者とされる。

 フルネームは、フェリックス・ルベン・ガルシア・サルミエント。父方の家族が、ダリオ家(los Daríos)として知られていたため、ダリオ姓を名乗る。

 レオン(ニカラグア)の小学校に通う。ヒューマニズム的(humanística)な背景を持つ彼は、早熟な読書家であり作家でもある。地元の新聞に掲載された若き日の詩では、自由、正義、民主主義を擁護し、非常に独立的で進歩的であることを示していた。14歳のとき、ニカラグアの複数の新聞でジャーナリストとしての活動を始める。

 15歳の時にエルサルバドルに旅行し、グアテマラの詩人であり大統領秘書官でもあったホアキン・メンデス・ボネの紹介により、エルサルバドル大統領ラファエル・サルディバルの庇護を受ける。

 この時、ルベン・ダリオは、フランス詩の偉大な愛好家であるエルサルバドルの詩人フランシスコ・ガビディアと出会い、その助けを受けて、(後世の)同人の作品とモデルニスモ詩の特徴である、フランスのアレクサンドル詩をスペイン語の韻律(la métrica castellana)に合わせることを初めて試みた。

 1883年にニカラグアに戻ると、マナグアに居を構え、さまざまな新聞に寄稿した。1886年、19歳の時にチリに移住することを決意し、3年間ジャーナリストとして働き、『ラ・エポカ』や『ラ・リベルタ・エレクトラル』(サンティアゴ)、『エル・ヘラルド』(バルパライソ)などの新聞や雑誌に寄稿した。

 ここ(チリ)で、チリ大統領の息子で作家のペドロ・バルマセダ・トロと出会った。彼は、ルベン・ダリオを、チリの主要な文学界、政界、社交界サークルに紹介し、最初の詩集 "Abrojos"(1887年)の出版を支援し、文学コンクールへの応募を奨励した。チリでは、スペイン・ロマン派や19世紀のフランス詩人など、彼の詩作活動に大きな影響を与えた作品を読み、文学的知識を深めた。

首都マナグアにあるルベン・ダリオの名前を冠した
国立ルベン・ダリオ劇場

 1888年、モデルニスモの出発点とされる詩集『アスール(青、Azul)』をバルパライソにおいて出版。この名声により、ブエノスアイレスの新聞「ラ・ナシオン」の特派員の地位を得る。

 1889年から1893年にかけて、詩作を続けながらジャーナリストとして中米数カ国に滞在。1892年にはヨーロッパに渡り、マドリードではニカラグア外交団の一員としてアメリカ大陸発見記念式典に参加し、スペインの文壇や政界の多くの著名人と出会い、パリではボヘミアンな雰囲気に触れる。

 1893年から1896年の間、アルゼンチン・ブエノスアイレスに住み、スペイン文学のモデルニスモを決定づけた2冊である「Los raros」と「Prosas profanas y otros poas」を出版した。

 アルゼンチンの新聞「ラ・ナシオン」は、1896年に彼を特派員としてスペインに派遣した。ルベン・ダリオの記事は、1901年に出版された「España Contemporánea. Crónicas y retratos literarios 」と題された一冊の本にまとめられた。

 スペインでは、フアン・ラモン・ヒメネス、ラモン・マリア・デル・バジェ=インクラン、ハシント・ベナベンテら、モデルニスモを擁護する若い詩人たちの称賛を浴びた。1902年、パリで若きスペイン人詩人アントニオ・マチャドと出会う。

 1903年、パリのニカラグア領事に任命される。1905年、ホンジュラスとの領土問題を解決するためにニカラグア政府が任命した委員会のメンバーとしてスペインを訪れ、その年、フアン・ラモン・ヒメネス編による3冊目の詩集「Cantos de vida y esperanza, los cisnes y otros poemas」を出版

ルベン・ダリオの生家を利用した博物館にて

 1906年、ニカラグア代表団書記官として、リオデジャネイロで開催された第3回汎米会議に参加。その後まもなく、1909年2月までホセ・サントス・セラヤ政権のマドリード駐在公使に任命された。1910年から1913年にかけてラテンアメリカ諸国を旅行し、その間に自伝を書き、雑誌「Caras y caretas」に「La vida de Rubén Darío escrita por él mismo」というタイトルで掲載された。

 1914年、バルセロナに定住し、最後の詩集「Canto a la Argentina y otros poemas」を出版。第一次世界大戦が勃発するとアメリカに渡り、グアテマラに短期滞在した後、レオン(ニカラグア)に戻り、そこで死去した。

世界遺産レオン大聖堂内のルベン・ダリオの墓

4.「モデルニスモ」とは

 「モデルニスモ」の説明について、スペイン語文献を中心に探してみたのですが、結局、日本語文献「ラテン・アメリカを知る事典」が一番コンパクトにまとまっているように思いましたので、これを以下に引用させていただきました。
 今回、ルベン・ダリオやモデルニスモについて調べる中で、自分って本当に何も知らないんだなと思い知らされました(苦笑)
 今後、ライフワークである(!)ニカラグア情報発信をより正確かつ深く行うためにも、もう少し歴史的・文化的な方向にも関心を向けていきたいなと決意しました(笑)

モデルニスモ/Modernismo
1880年代から1920年代にかけて、スペイン系アメリカで展開された主として詩の分野における近代化運動。ラテン・アメリカは19世紀初頭にスペインから政治的に独立したものの、文化面ではその後も旧宗主国の影響を受けていた。しかし、独立後数十年たった1880年代になると、スペインの文化的影響から脱却するためのモデルニスモの運動がキューバのJ.マルティ、メキシコのM.グティエレス・ナへラらによって展開され、それがラテン・アメリカ全体に広がった。彼らはゲベード、ゴンゴラらのスペイン古典詩はもちろんのこと、フランスの象徴派・高踏派、さらには中国やインドの文化の影響を受け、斬新で華麗な文体と音楽的リズム感をもった言語とを詩の分野に導入して美的・芸術的世界を謳歌し、新古典主義の硬直性とロマン主義の感傷性を打破することに成功した。とりわけ、マルティを継承したニカラグアのルベン・ダリオによってモデルニスモは完成の域に達し、従来スペイン文学の模倣にすぎなかったラテン・アメリカ文学は自立した近代文学になるとともに、19世紀末にはスペインに逆輸出されて、のちにノーベル文学賞を受賞した詩人J.R.ヒメネスらに影響を与えた。
モデルニスモは詩の分野の刷新運動ではあったが、ルベン・ダリオの「青」の一部や、J.E.ロドの「アリエル」に示されるように、散文の領域でもすぐれた作品を生んでいる。ネルーダ、ギリェン、パスらの現代のラテン・アメリカの代表的詩人も、若いころモデルニスモの洗礼を受けたことはよく知られている。
神代修

ラテン・アメリカを知る事典
(平凡社:1999年12月10日新訂増補版第1刷発行)から抜粋

5.最後に

マナグア国際空港に飾られているルベン・ダリオの肖像画

 率直に言って、今回の「青い鳥」の翻訳作業は大変楽しかった
 当初は、note記事を執筆するための単なる旬なネタの一つとしてしか考えていなかった(苦笑)。しかし、スペイン語の原文を読み、その音感も楽しみながら、日本語に置き換えていく作業に想像以上にはまってしまった(なお、下訳には、Google翻訳を利用したことを告白しておきます(笑)。機械翻訳の登場は、翻訳作業を大きく変革しました)。

 その最大の要因は、やはり「青い鳥」の原文のすばらしさだと思っている。私は文化的な人間では全くなく、むしろ文学等からは縁遠い方だと思うが、本作は1888年に発表されたとは思えないほどの、なんと言うか「みずみずしさ」を感じた。今更ながら、歴史の波を乗り越え後世にまで伝えられた文学の価値を再認識させられた。今後も、中南米理解の促進のため、また語学学習の一環としても、評価の高い文学作品の(なんちゃって)翻訳にチャレンジしていきたいなと思う。

 その一方で、私が普段接している実用文書の翻訳とは大きく異なる、文学作品翻訳の難しさも実感した。
 第一に、全く当たり前のことだが、その文学作品が書かれた時代背景を知らずして、その作品は理解できないなということ。この「青い鳥」の翻訳作業を進める中で、やはり当時のニカラグアの社会情勢やパリのボヘミアン文化などを知らないと感覚的に理解できないと感じ、実際に調べたりもした。まともにやろうと思うと、かなりの時間を費やさざるを得ないだろうし、プロ通訳の方の苦労のほんの切れ端の部分を感じた(私は研究者ではないので、そこら辺はちゃっちゃっと流しましたが(笑))。
 第二に、言語体系が全く異なるスペイン語から日本語への言葉の置換って本当に難しいぞと、今回改めて実感した次第。特に、上述のとおり、モデルニスモの特徴して「斬新で華麗な文体」と「音楽的リズム感をもった言語」という点が挙げられているが、これを日本語の書き言葉だけで表現することは不可能だよなと! 結局、翻訳作業って、オリジナル作品の、ごく狭い範囲の言語的な意味を伝えることしかできないよな…とか思ったり(もちろん、全くゼロよりはいいので、翻訳作業に意味がないとは思いません!)。

 こう考えていて、ふと、私が常々、マンガ・アニメ『SPY×FAMILY』のアーニャのかわいさって、スペイン語翻訳だとあまり伝わっていないよなと感じていることを思い出した(全くレベルの異なる話で申し訳ないですが…)。
 どう工夫しても、日本語で読み、または聞いた感覚から感じるアーニャのかわいさって、スペイン語だと表現できないんじゃないかと思っていて(笑)
 作品が生み出された場所の空気感、時代、そしてそのオリジナル言語を知らずして理解できない一角はどうしても存在すると。
 ルベン・ダリオ作品においては、私に『SPY×FAMILY』とは逆のことが起こっているのだろうなと想像すると、本当にもどかしさを感じる。
 スペイン語話者は、我々日本人がアーニャのかわいさをより感じているのと同様に、ルベン・ダリオの詩を我々以上に豊かに感じ、楽しんでいるんじゃないかと!
 ま、そんなどうでもいいことを徒然と考えつつ、もっとスペイン語を勉強しないとな、したいなと、カスティージャ文学の王子(El Príncipe de las Letras Castellanas)の異名を持つ、ニカラグアの偉大な詩人の生誕記念日に、ゆる~く思った次第。

「文学作品をなんちゃって翻訳してみるのも結構楽しい!(笑)」

 アニメ繋がりで最後に一言、「青い鳥」のガルシンって、エヴァンゲリオンの碇シンジ系男子ですよね(笑)
 翻訳作業中、「残酷な天使のテーゼ」が頭の中で鳴り響いて、本当に邪魔になった…苦笑

【おまけ】ニカラグア国内のルベン・ダリオ・コレクション

 最後に、私がニカラグア国内で見かけたルベン・ダリオ像などをまとめて紹介します!
 ニカラグアにいると、国中の至るところで、ルベン・ダリオを感じることができる。

「アスール」出版記念フェスティバルにおけるプロジェクション・マッピング
(世界遺産レオン大聖堂にて)
国立文化宮殿のルベン・ダリオ
マタガルパ中央公園のルベン・ダリオ
レオン市内のルベン・ダリオ①
レオン市内のルベン・ダリオ②
マナグア市内革命広場のルベン・ダリオ
マナグア市内のルベン・ダリオ・ロータリー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?