08 ピストル

「環境は歴史だ」

これは西沢立衛がいった言葉らしい。小耳に挟んだだけなので、本当かどうかは分からない。でも、こんな事を言えるのは一人しかいない。

最初聞いたとき、正直よく分からないなあ。と思った。だって学校では、環境と歴史の授業は分かれているんだもの。同じ回路では考えられない。しかし、強烈に耳に残った。

限定しないこと
この言葉の意味不明さが僕をずっと悩ませることになる。前に紹介した青木淳のセリフ「人に伝えるとき、言葉は忘れた方がいい」を思い出した。まさにこの魔術に近い何かを感じる。西沢立衛の言葉は、常に私たちに開かれている。考えることを求めている。

あの言葉の輪郭に少しでも触れたい。

とにかく環境から因数分解していこう。ただ、あまり限定したくない。似たような話を直感的に並列することにした。

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"もしあなたが煉瓦に何を望んでいるかと問うなら、煉瓦はこう言うでしょう。「そうね。私はアーチが好きなんだ」と。そこであなたは言います。「だけど、アーチはつくるのが難しいし、それに金もかかるんだよ。開口の上にコンクリートのまぐさをかけてもうまくいくと思うんだが」と。が、煉瓦は言います。「ああ、知っているさ。きみの言うことは正しいよ。でも、何が好きかときかれたなら、私はアーチが好きなんだ」と。あなたは言います。「なるほど、しかしどうしてきみはそんなに頑固なんだい」。煉瓦は応じます。「ちょっと言わせてもらうよ。あなたは梁について話しているのであって、煉瓦の梁はアーチだと思いませんか」"

"コンクリートは本当は花尚岩になりたいのだが、その思いをとげられずにいます。補強鉄筋は不思議な神秘的役割を演じ、このいわば人造石を有能なものとして出現させます。つまり心の産物にするのです。スティールは力強さにおいて昆虫のようになることを告げんとし、石の橋は象のように建造されることを告げんとします。"
ルイス・カーン建築論集 鹿島出版会 p35

あまり環境には関係なかったかもしれない。笑
でも、なんとなく共通するものを感じたのだ。構造、工法、素材、地域、そして風土の関係が垣間見える。

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次は妹尾河童の『河童が覗いたヨーロッパ』の話。

日本からみるとヨーロッパというのは、1つの概念のようなもの。でも、どの国も地域もまるで違う。と河童さんはいうのだ。

そこで出てくるのが窓。ヨーロッパというのは地続きであるが、気候風土となると一口に表現できなくなる。北は北極に近く、南はアフリカに近い。当然、太陽の光の量に関係してくるのだが、それを各地の民家の窓が端的に物語っている。

アフリカに近い地域は、光の量が多いので窓は小さく、主に換気のため。光はもううんざりだそうだ。それに比べてオランダ、アムステルダムはバカでかい。光を欲しているのだ。でも、緯度があまり変わらないドイツ北部となぜか大きさは違う。窓だけでこんなにも変わるんだ。

窓は外と繋がるための装置であるし、同時に中にいる人の精神に大きな影響を及ぼす。それゆえ、気候によって人間性が変わるのも当然だ。マンション生活と縁側ライフでは、明らかに違う。

ここで、風土と人間性に関係が出てきた。

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さらに、河童さんはトカレフについて語る。

"ソ連にトカレフという軍用ピストルがある。いかにも不格好でグリップがアンバランスに細いのがまず目につく。ソ連人は体格が大きいのにこれは妙だが、実はスキーに使うような分厚い手袋をはめて握ってみると、ちょうどピッタリする太さになっているのがわかる。グリップに刻まれた滑り止めのための溝も、タテ線であるのも珍しい。これも手袋をして握ったときに滑らないための工夫である。トリガーガード(引金おおい)の穴が、他の国のよりも大きくなっているのも、手袋をして太くなる指に対応した結果である。寒いところでは、ハンマー(撃鉄)が折れたりする故障が多いが、トカレフはそのトラブルの処置として、ハンマーをボックス状の中にまとめて、それを簡単に取り出して交換できるようにしている。しかも一本のネジも使っていない。したがってドライバーも不要で、慣れると分厚い手袋をしたままでも、5秒で分解し、ハンマーを取り出せる。
というと、いいことづくめに聞こえるが、実は、世界中のピストルの中でのランクづけではBクラスだといわれている。まず、ピストルに当然あるべき安全装置がない。「引金に手をかけたら必ずタマが出ると思え!」と教えたらしい。部品の数も他の国のものと比べて驚くほど少なく、36コしかない。つまり実に簡単な仕掛けだということである。メカニズムが簡単なら教育レベルに関係なく、どんな人間でも扱えるし、コストも安上がりである。これを他の国で”無骨な安物”と評されようと、彼等は「実用的で安価ならハラショー(大変ケッコー)だよ」というだろう。”

ソ連のトカレフから、その国民性をみることができる。決して皆がそうという訳ではないけど。でも、その合理的な姿勢や知恵は、国を作り、歴史を作ってきたことに違いはない。

一旦、まとめよう。

この場合、環境は風土であり、風土は道具を作った。道具は国民性として現れ、国民性は国を作った。国は歴史を作ってきたとも言える。これはもっと小さい規模でも成り立つ。

ただ、この安易な等式はもちろん違う。何かが足りない。いや、多い。

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最後に、西沢立衛のインドの話を引用する。

"インドの通りでも、ある未来的なものを感じたな。あらゆる生き物が行き交う、ごった煮のような往来で、まさにカオスというか、濁流のような流れなんだけど、しかし道の真ん中に大きな菩提樹が立っていて、みなそれを避けていくの。あれはなにか、未来でもあり過去でもあり、、、まるでブッダが、弟子と動物たちを引き連れてブッダガヤを歩く、それとほぼ同じことを21世紀においてもそのままやっているかのような感じがした。あらゆる時空間が見えるというのかな。インドは本当にすごいと思った。"
http://unicorn-support.info/2018/06/17/4494/

歴史には、未来、過去、現在も含まれる。宗教も関係ある。そして、積み重なったり、同じ状態でずっと居続けたりする。歴史には時間軸が存在し、環境はそれを内包した空間である。これは結構重要かもしれない。

では、上の式に加えようか。うそ、そんなことはしない。もう答え合わせをする必要はないのだから。

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ここからは、現状の僕の感想である。

「環境は歴史だ」という言葉の真髄は、その言葉同士の飛躍ではないかと思う。パラレルに時空間を移動できる、この柔軟性とスピードが不可欠。さらに様々な要素が絡み合い、あらゆるものが普通に同居している…

なんて鮮やかなんだ。この言葉をみると改めて思う。

そして、ピストルのように鋭い。

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僕らは、挫折を迫られている。とどめを刺されているのに、まだ足掻こうとしている。彼の言葉には誰も敵わない。それでも僕らは建築をやめないのは不思議だ。

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