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ハルは早春の幻に泳ぐ~Hal swims in the illusion of early spring~②

ハルは工房から出ると家には戻らず、裏庭の柵に跨り退屈そうに頭をゆっくりと振っていた。
自分が出逢ったとても良いことが人に話したせいで消えてしまうかもしれないという推測が、思いのほか彼を不安にさせていたのだった。
ハルはさっきまでの嬉しい気持ちがしぼんでしまってぼんやりしていたが、ふと森から戻る時に声を掛けてきた友人たちとの約束を思い出すと慌てて裏庭の木戸から外へと出て行った。
 
街に戻っていた友人たちは口々に何かあったのかと訊ねてきたが、ハルは森での出来事を話す気になれなかったのですぐに話を切り上げると、その日は森へ行くのをやめにして街なかで遊ぶ提案をしたのだった。
 
夕方お腹を空かせて帰ると夕餉の支度を済ませた母親が笑顔で彼を出迎えて言った。
「おかえり、ハル。お父さんがね、あの後川へ行って魚を捕まえてきてくれたよ」
「え」
「お父さんもびっくりしていたよ。すごくたくさんいたって」
「父さん、行かないって言ったのに」
「そうなの?なら気が変わったのかもね。もしかして、ハルも一緒に行きたかったの?お父さんが魚を裏庭に置きに行っているからハルも見ておいでよ」

裏庭では父親が大きな桶に井戸から汲んだ水を入れて魚が逃げ出さないように網で蓋をし終え、そこに来たハルに気付いて声を掛けた。
「おお、おかえり。ほら、見てみるか?」
「・・・魚、捕まえに行ったの?」
「ああ、あの後、どれだけいるのか気になってな。時間も経ってたし、まだ同じところにいるかわからないから網は一応持って行ってみただけだったんだが、確かにすごい数だったな」
「いっぱい捕まえたの?」

何となく桶の方を見る気になれなかったハルは胸の中の良くわからないモヤモヤとした気持ちを父親に気付かれないよう穏やかに尋ねた。

「ん?お前がなんか嫌がってたから、俺たちで食べる分くらいだな。獲りすぎなきゃ構わないだろう?」
「・・・うん」
「ほら、こうやってきれいな水に泳がせておけば泥臭さもなくなって美味くなるんだ。前にもやって見せただろう?蓋さえ押さえておけば猫に取られる心配もないからな。よし、しばらく置いておこう。さあ、飯にするか」
家の中に戻って行く父親を見送ったハルは網越しに桶の中をそっと窺った。

あたりは夕日がすっかり落ちて薄暗くなり、桶の中は網の影になっているせいか魚の姿も水も暗くて良く見えなかった。
彼は顔を寄せて覗き込むわけでもなくじっと黙って桶の横に立っていたが、母親が呼ぶ声がすると我に返ったように大きく返事をして家へと入っていった。
 
***

ざあざあと水音がする。

時折空気の泡粒がぽこぽこと水に混じって漂い、弾ける音も聞こえる。
目を開けると周りは黒や茶色のごつごつした大きな石や森の木々のようにすっくと立っている緑や茶色の水草が見えた。明るい光に照らされて、足の下は白っぽく明るい色の砂がずっと続き、空の天井には雲ではなく、レースのように不規則に広がる光の模様が形を変えながら漂っている。

(今日はすごく明るいなぁ、冬が終わったのかな?)
(そうかも知れないね。でもまだちょっと寒いねぇ)
(あ、ハルだ。おーい、ハル!こっちこいよ)

どこからか聞こえる無数の話し声の中から彼を呼ぶ声がした。
陽だまりの中で光が当たった部分を青く光らせながら群れを成した黒い魚たちが彼を呼んでいる。
嬉しそうに仲間たちの方へと差し伸べた彼の両腕も今は彼らと同じように光を受けて青く閃く黒い小さな鰭に変わっていた。
(わあ、そっちはとっても明るいね!僕も今行くよ)

仲間たちの方へ向かったハルが射し込む光の眩しさに思わず目を閉じると全てが真っ暗になり、次に目を開けるとベッドの中だった。
眠気が吹っ飛んだハルが自分や周りの様子を横になったまま探ると、もちろんそこは自分の部屋だったのだが、心臓だけがまるで駆けている時のようにトントンと弾んでいる。
「僕は魚じゃなかったんだ」

頭に残った夢のせいか妙な言葉を発したハルはベッドから起き上がり、昨日の魚はどうしたろうと窓辺へ近づいた。
小さな部屋は裏庭に面していたが、窓からのぞいても庭の雑木に隠れてそこから魚の桶は見えなかった。

ハルはベッドに戻るとさっきまで見ていた光景をなぞるために目をつぶってみたが、思い出そうとすればするほど関係のないものが浮かんできて、そうしているうちにハルは再び寝入ってしまった。
夢の続きはなかった。

③へ続く

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