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9月のこと

眠くって仕方がない。
ロングスリーパーとショートスリーパーを繰り返すのが常だけれど、ロングスリーパーの期間がやってきた。とにかく一日中、微睡んでいる気がする。言葉を打とうとしても、iPhoneの画面がうまく見えない。眠り続けて、このまま死ぬように寝たい。

行きたい場所、住みたい場所、はたくさんあるが、また住みたい場所、もあたしにはある。そこにあたしの生まれた家や、育った学校はないが、なぜか「帰りたい」と思う場所。今もあたしの魂の一部はそこで、つつがなく生活をしているのかもしれない。

「感謝の気持ちを忘れない」とは、よく使う台詞だけれど、感謝の気持ちを忘れない、と心から言え実行できる人は、色んな人に応援されている人で、それを自覚している。何かを返さないといけないとわかっているのだ。
あたしもきちんと行動に移していきたい。当たり前、の上であぐらをかいていたくない。

一度座ってしまって、そこからやらないといけないこともあるのになかなか立てない時は抑鬱状態が強い時。歩いていて、疲れて休みたいと頭をよぎるのに足を停められないのは、なぜだろう。立ち止まって考えをまとめたいのに、立ち止まると余計に思考が散らかる。

何をしても何を言っても受け止めてくれると思ってもらえる、そういう人になりたい。
暴力や欺瞞を許せる人間になりたいわけでなく、相手があたしを信用しているからこそ、あたしの考えが伝播し、理解してくれるような、そういう意味で。承諾も稟議もそこに必要ない。

昨日の夜は悲しかった。今日の夜は悲しくない。3日後の夜は声を抑えられず号泣かもしれない。この波はなんなのだろう。

「普通の愛」って、なんでしょうね。
いろんな愛があっていいよ。あって、しかるべし。マゾへの愛、子どもへの愛、友人への愛、親への愛、夫婦愛、親愛、奴隷愛。

たまに見かける「主従を解消した理由」として、どちらかがSMの欲を失ったり性欲がそもそも低下してしまって相手を受け入れられなくなった、というのを見かける。相手に愛想を尽かしたとか、他の誰かを好きになったとか、何かトラブルが起きたとか、ではなくて。
いつか自分にも「SMをしたくない」とか「誰かとD/sの関係を持つのが億劫だ」とか「1人で静かに生きたい」とか、そんなふうにくる日があるのじゃないかと思って、懸念している。懸念は今は、更に強くなってしまった。そう思うということがそもそも、あたしはできる限り長い間、この世界にいたいという「希望」を持っているということなんだろう。

いろんな土地でいろんなSMプレイをして、いろんな人と関わってきたけれど、結局思い出すのは相手との関係性のことばかり。
どんなふうに過ごしたかとか、どんな話をしたかとか。あたしにとって、プレイは二の次でいいのだろうか。

幻滅させてめちゃくちゃに嫌われて、もう2度と顔も見たくない、おまえのことは許さないと言われたい。傷ついた瞬間の、あの、なんとも言えない衝撃を受けた顔を見たい。でもそんな顔をあたしの前でできるのはこの世で1人だけで、その人はどれだけあたしが傷つけても、わざと傷つけても、ぼろぼろになっても、あたしからは離れてくれはしない。

自分に対してもそうだが、どうしても人生を長く生きてると、決めつけてしまったり妙なアドバイスしたりしたくなる。だけど、それを飲み込んで見守っていく側になりたいと思っている。若いから仕方ないとか経験がないから仕方ないとかじゃない。いま現実に抗い、努力している過程に共感したい。何年か前のあたしがそこにいるんだから。
それで、今はこの固まってしまった固定観念みたいなものを、一言で壊してくれる人が周りに多くて、すごく嬉しい。

大きな鞄をもつと、要らない無駄なものを入れてしまう。シンプルに、必要最低限のものだけを持ちたい。平穏に生きる上でも。

7年前の今頃、北海道にいた。豪雪地帯に少しのあいだ住んでいた。京都で生まれ育ったあたしには理解し難いルールが北海道にはたくさんあって、それは全て「過酷な冬を」「生きていくための」ルールだった。北海道の秋は10日ほどで終わり、9月の終わりには、あたしの知る冬が来た。北海道の人たちはみな、あらまだ秋でしょ? のような顔をしていて、札幌ではオータムフェスト。日本は狭いようで広い。
そもそも、借りた家にはエアコンがなかった。エアコンを取り付けるという発想もなさそうだった。屈強なヒーターと簡単には開かない姿勢を見せる二重の窓。豪雪時でもドアが雪で塞がらないように、玄関は高いところにあった。扇風機だけで9月を越した。
10月になった頃には標高の高いところから順に雪が降り、住んでた街には雹や霙が降った。
初冠雪の羊蹄山の美しさは、今でも覚えていて、またあの場所に行きたい。時間も凍てつくのかもしれないとさえ思った、あの場所に。

誰かに愛されてきた実感を持って生きている人は、やがて他者を愛する。愛する喜びを知るとかでなく、自然と誰かを愛せる。
恋人への愛とか、親や子への愛とか、友人への愛とか、性欲としての愛とか、師弟の愛とか、物への愛とか、動物への愛とか、いろんなものの愛とか。

人生の節目で定期的に遺書を書く。全身麻酔の手術を控えている時に書くことが多い。現代医療を下に見ているつもりはないが、目覚めなかったらどうしようと思う。
しかし、死ぬつもりは毛頭ない。置いていったら深く傷つく人がいると知っている。遺された者の気持ちも知っている。あと10年くらいは這ってでも生きたい。
財産分与するものはほとんどないので、遺書というより引き継ぎ書だと思いながら。事務手続きの大半を。それからあなたには、16歳になった時にそこそこのお金を受け取れるような豪ドル建をしています。

相手に対して苛々したり感情的になった時に人間の本質は出ると思う。今まで下手に出ている人でも、苛立ちがそれを全部台無しにして突然暴言を吐くこともある。あれしないでこれしないでって言いたくなかったのに、欲求をぶつけてしまうこともある。あの夜に暴かれてしまった、醜い独占欲のように。

踊って夜を明かそう、などはもう無理です。年齢的に。23時には横になりたい。明日のことを考えて薄く目を閉じて微睡んでしまいたい。最近は眠るために毎日を頑張っているところがあって、睡眠がなによりも褒美。これを聞いたら、冗談だろと目を丸くする旧友もいるだろう。20代は睡眠時間15分だよと笑っていたし、会社の床で寝たりしていた。そんな旧友らは今も踊って飲んで夜を明かせる40代。羨ましさもあれど、あたしは惰眠を選択する。

管理されることが当たり前になった人が、管理を突然失ったらどうなるんだろうか。を考えている。管理の度合いによるのだろうか。今まであったものが突然なくなることは怖くもあって切なくもある。依存度を示したいのだろうか。

こんなに醜く汚い自分だから罰されることは当然、というトラディショナルなマゾの発想である、という考え方が好き。トラディショナルなマゾ! 最高じゃないか。

残暑の厳しい夏の終わりかけ。朝、書斎にこもって作業をする。汗がだくだく出て服の色も変わるが黙々と作業をする。その後にシャワーを浴びてすっきりするまでがセットだけど、「暑くてたまらないことを耐えて作業をした」という実感を汗が証明してくれて楽しい。マゾヒストってこういうことで興奮したり耐えたりできるのだろか。自分はマゾではないなと思いながらも、「この証明の有り難み」みたいなものは、ちょっとわかる気がする。頑張ったのだから誰か褒めて。

「何か嫌なことがあったら言ってね」って、難しいね。嫌なことだからこそ、言いたくないだろうし。

器が広い人間の、器ってなんだろうな。あたしは器が狭いと思うけれど何を根拠にそう思うのだろう。
明日がきたら全てわかるのだろうか。何もわからないままか。誰にもわからないことを知りたいなんて、子どもの駄々と同じかもしれない。

自分の中の燃えていた気持ちがなくなってしまうことが怖くて不安になったり、あんなに好きで最初で最後だくらいに思っていた感情が無になってしまって、どうしてそんなことになってしまったのかと嘆くことが増えた。嫌われるのが怖くて、見捨てられるのが嫌で、相手の気持ちが冷めているのをわかっていても食い下がっていたあの時のあたしとは別人だ。見捨てられ不安のようなものはいつか、見捨て不安に変わった。
感情に水をかけないでほしい。鎮火しないでほしい。まだ、好きでいたい。燻り続ける程度でもいいから、燃やし続けたいんだ。

終わらせるのは簡単。全ての繋がりを断ち切ればいいだけなので。続けるのは終わらせることよりずっと難しい。長く続けるのは、もっとずっと難しい。息継ぎを忘れないようにしなければならないから。

今日は野菜しか食べなかった。あたしは偉い。と自分を褒めながらたっぷりと甘い羊羹を食べる女なので、あんまり信頼しないでほしい。

夜になると不安は質量と密度を高める。押し潰されそうになる。何が不安か、考えても根っこの部分まで手が届かない。自分は何を恐れているのだろうかと思う。0からでもいい。1からでもいい。すぐに100に戻るかもしれない。そもそも100だったのだろうか。わかっていてもう一度スタートラインに立ったつもりをしていたのに。何度繰り返しても怖いものは怖い。いくつになっても、お化けよりもお金よりも地位や名誉がぼろぼろになることよりも、人との関わりが怖い。

誰と交際しても、なぜか早い段階でセックスレスになる。と言ったら、友人の回答はシンプルで「最初から刺激的なことをじゃぶじゃぶ与えすぎなんだよ。あなたはそういう女」。そうかもしれないと今となれば思います。反省はしていません。

道具そのものに感情や、ましてや愛が宿るわけでないが、できれば道具は「あなただけのもの」を渡して、それを使っていきたい。そう思う時点で、その相手と長く付き合っていたい、ということ。道具はあたしが用意するけれど、あなたが管理していてほしい。あなたが自分自身を苦しめるためのものを、あなたが育てるという理不尽な環境をご用意。

セックスレス、で思い出したこと。
レスになるたび感じることは、女として見てもらえなくなったのだ、という悲しさとか寂しさとか、己の欲求に対して寄り添ってもらえないという疎外感だったりするけど、もっと根底にあったのは「恥をかかされた」というプライドだったのかもしれない。今ではもう、セックスするだけのことには興味がないです。

関係や絆のようなものが切れてしまった、と思った瞬間に繋ぎ直すことが大事なんだなと40歳手前で知る。切れた音を聞いている場合でなかったのだ。鉄は熱いうちにって昔の人も言ってたろ。リカバリーができる距離感は本当に大切。

喫煙所でおじさんたちが(別におじさんじゃなくてもいいんだけど)煙草を吸っているのを見るのが好きだ。自分が喫煙者なのでよくわかるのだけれど、職業人は喫煙所でしか生まれない独特の絆みたいなものを持っている。仲間意識のような。そしてたまに、その社交場は社内のスパイ活動に使われている、と思っている。かつてはあたしもスパイでした、きっと。

明日が来るのが怖いんです。あたしの知らないあたしと、対面したくない。だけど逃げることが得策でないし、それをしないと決めたのもあたしです。たくさん眠りたい。泣かないように。それでこの手で、やれることをしたい。
どうやったって、終わりは来るのだから。

何があたしの誠意なのかと考える。天寿を全うすることだろうか。泣かない強さか。相手の気持ちに寄り添う事か。否、すぐに反応してやることなんじゃないか、とか。
気持ちが落ちている時は特に、反応が鈍くなる。

「好き」の最上級は「愛してる」なのだろうか。愛はきっと、別次元。
好きの最上級は「大好き」でいいんだよと教えたいが、教えたわけでもないのに大好きと言える尊さ。

全ての本音を吐き出して眠りたい。
秋の夜中はまだこないから。

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