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12月のこと。

人はいつまで経っても孤独で、どこまでいっても孤独な生き物なのだと思う。その孤独を感じないよう、何かを求め続けるんだろう。

ひとりで過ごして誰にも干渉されたくないあたし。触れられたくない、関わってほしくないあたし。他所に行って欲しい、あたしなんかのそばにいちゃ駄目だよと思うあたし。それでいて、少しでもいいからあなたと何かを共有し、できれば解像度をあげたいとわがままを思うあたし。

秋は何をしていたんですか。記憶があまりありません。夏が終わって冬が来た。あたしの体内から、何かが取り出されて。
外に出たら強烈な冬だけが存在していた。

しかし、ススキで一面の広大な自然を見つめながら飲んだ紅茶の熱さを覚えているので、秋もあたしはしっかりと踏んできたようです。

もう、えらく長い間、SMをしていない気もするのだけど、そもそも自分がしていたSMって SMだったのかしら。というところまで考えて、だめだめ定義のないものに自分を当てはめるなんて、と思う。年単位でおとなしくしていた(敢えてこの表現を使う。おとなしくしていた)時期もあったのに。ほんの数ヶ月も経過していないのにSMがしたいなと思うのは、中毒性のある何かにやられてしまっているのでしょうか。あの頃はなんでもできたね。

年末になると頭の中が勝手に「今年の集大成」を編纂し始める。自分はサディストじゃない、と言いながらマゾの乳首に14ゲージの針を刺して、ピアスの穴を作った時が一番興奮し、血圧もあがっていたかもしれない。嬉しいのはそのピアスの穴がきちんと育っていってるであろうこと。一瞬の痛みもいいけれど、そこに何かが残ったことが嬉しいのかもしれない。いつかその穴が塞がってしまっても、それはそれでよしとする。やっぱりサディストじゃない。

約半年ほどで10kg増えた体重が、11月下旬を境に10kg減って元通りとなり、それだけに限らず人体の凄さに驚くほかない。こうやって人類は増えてきたのか。効率が悪いようで、うまくできているところは神さまを評価したい。

過去のことを思い出すたびに、これから先のことばかり考えちゃうな。きちんと地に足をついて歩いていきたい。ゆっくりでもいい。走るくらいでも、ちょうどいい。

前のパートナーと別れる間際だった時に、ずっと思ってたことがあって「もうこれ以上、幻滅させないでほしい。あたしに、あなたを嫌いにさせないでほしい」だったんだけど、こんなことを願う時点でどうにかしてた。学んだことも多かったけれど、もうあんな思いをしたくないし、しないために生きてる。

なぜ自分ばかりこんな目に遭うのか、という気持ちになることは多々あれど、そのたびに「あたしでないとこの経験はできないし、この気持ちは知り得ない」と思うことでどうにかなっている。とはいえ、辛いものは辛いって声高に叫ぶ権利もあるし、叫ぶと気持ちいいし、ちょっとすっきりする。ちょっとだけ。

何度も言う。あたしはサディストじゃない。
いじめて楽しい、の「いじめる」の大半の部分は意地悪を意味するし、快楽で気持ち良くって自我を手放している男の子に向かって、それを追い詰めるさらに一手を加えたい。その程度の「いじめっ子」だと思う。男の子の性的な快楽は女のあたしから見れば単純で、射精とかいうあたしには理解も体感もできないその一瞬の快楽のために、彼らは頭を鈍らせる。鈍らせた時の目の前の信仰心。射精したいという、たったひとつの快楽。それに支配されちゃっている様を見るのが、ただ楽しい。
その程度をサディストというのは違う気がして、ゆえの、あたしはサディストじゃない。

顔も知らないあの人に、あたしの命を少し分けたい。周りのためにも長生きしてほしい。

与えると与えられたい、について考える。「恋が与えられたいものであるとすれば愛は与えたいもの」のような手垢のついた表現があるけれど、SMをしていて相手が欲しがるものを「与えたい」と思う境目はどこなのかと。自分のしたいことをするだけがSMではない気がして、しばし唸る。

アドベントカレンダーを毎日楽しみにめくり、中に入っているチョコレートを頬張る白い肌を見つめる。クリスマスが幸せの日だって、生まれた時から知ってるなんて羨ましくもあって、微笑ましくもある。

最近思うことは、みんな寂しいのかなと思うこと。寂しくなんてないとか寂しいとか感じなくなったとか考えたこともないとか寂しいわけがないとか寂しさに慣れたとか、いろんな人がいるとは思うけど、そこを取っ払ったらみんな結局は寂しいんじゃないかなって。一人では生きていけない。煩わしくても。

欲しいものは手に入らず、愛していても伝わらず、この世はなんと苦々しいのかと思いながら今まで生きてきました。振り返ればきっと、そんなことはないのだろうけれど。強欲なのかもしれない。

あたしじゃなくていいのだから、という言葉の中身には、自己を卑下する意味はひとつもなくて、いつでもどこでもきみは自由で、あたしに縛られることはない、という意図の方が強いのだと思う。この余り溢れる時間をどうか、待つだけに使わずに次の非日常に使って欲しいと思ってしまう。それでいて実は、あたしがいいというなら言葉通り、あたしのそばに座っていて、とも思う。

愛とかいう、衝動性のあるもの。それでいて、穏やかでもあるもの。
不思議なのはSMをやってる、SMを趣味としてると言えばものすごく激しくて刺激的に聞こえるのに、いたって穏やかに関係性を保っていること。ギャップであり、意外性であり、差異である。

年に一度、世界で一番有名なおじいさんの代理を勤める。きみは何も要らないと言ったけれど、あたしのエゴできみにプレゼントを贈る。あたしの幼い頃の記憶は、家族とクリスマスは相容れなかった。せっかく用意したケーキも踏みにじられて、怒声が行き交い、食器が投げつけられ、誰かが嗚咽を漏らした。楽しいはずの特別な一日は最低の特別な一日になった。毎日が最低の一日であったけれど、この日くらいは仲良くできると思っていた期待した一日が、最低の一日へと裏切られることで、特別に最低な一日が生まれることを知った。あたしは家庭機能不全の家庭で育った。アダルトチルドレンである自覚がはっきりとある。だから、その無念をエゴにして、きみにぶつけているだけだ。ケーキは食べたいものを作るし、いつも以上に夜更かしをして遊ぼうね。それでサンタの代理をするよ。ハッピーメリークリスマス。

ブラームスの交響曲、チタンのピアス。たくさんのスコーンを抱えて、新快速に乗ってもいいのに新幹線に乗った。あの日のことだけじゃないけれど、あの日のことは忘れたくないから、反芻しようと思う。窓に流れる、目で追いきれない街の光も、忘れないように反芻しよう。

この一年は途方もなく長かった。
あたしが、あたしを受け入れることができないまま過ごしたから、きっと苦しいことの方が多かったんだ。半分泣いて半分笑った。
もっと長い一年がやってくる。あたしは0歳なのだ。
本音に付き合ってくれてありがとう。

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