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あなたのエンドロールクレジットに私の名前が載ったらいいな

どことなく私の人生に付きまとう、人生の当事者意識の欠如。
言い換えるならばゲームのプレイヤーとしてメタ的に人生を見ているような、人生が終わってもまるで痛くないような感覚。
もしくは、もうすでにすべては終わっていて、今はただのエピローグ、消化試合の様なものという感覚。

私が過去に書いた小説でこんなシーンがある。
主人公の思い人の恋人はすでに死んでいて、その思い人は死んだ恋人を人生の伴侶と決めていて運命と信じていて、その墓参りに主人公が同行するシーン。墓に手を合わせながら主人公はその思い人に耽る。きっとこの人の人生はもはやエピローグを迎えているのだと。彼女にとって今までの恋人といた日々が人生のすべてで、これからはただ寿命を消化するために生きるのだろうと。そして自分はそのエピローグに少しだけ登場する名前のない端役である。そんなことを想う。

これは私の深層心理を表現していたのだろうか。
私は結局、彼らの様に華々しく世界を救って作り変えてしまうような学生生活を送ることはできなかった。若くして命を賭して少年少女や世界を助けることはできなかった。
そんな私の幼く純粋な願いは終ぞかなわないだろう。

私は世界を救いたかった。
自分の家と、学校と、友達たち。そんな狭い世界でもいいし、行ったことのない場所、知らない国、顔も見たことのない人たち。そんな世界を救いたかった。
お話をしたり、敵を倒したり、手を差し伸べたり、そんなことを通して人を助けたいと。

命を投げ出してみたかった。別に死にたいわけではない。むしろ生きれるならば私は300年ぐらい生きてみたい。
そんな尊き私の命を一つの目的や使命のためになげうってみたい。
命よりもはるかに大切ななにかのために、命を捨ててみたい。

自分には何か壮大な役目があると思っていた。今もまだ。
命をなげうつタイミングがいつかは来ると思っている。願っている。
若くして死にたいわけじゃない。ただ、ためらわず動けるような歳であってほしい。
飛び出したい。とっさの。時へ。

己、酔のまま、空へ

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