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ローマ字表記は失敗作なのか

以下の記事が目に止まり、コメントを残したが些か書きすぎたようで文字数制限と連投制限にかかってしまったから、記事としてコメントを残す。

確かに、子音を二つ続けることで促音便を示すのは、(特にローマ字に不慣れな方は)単語全体までを見渡してから読みが決定することが起こってしまうと思います。

それに引き換え、現行のひらがなカタカナは少なくとも日本語の音素(日本語話者、つまり我々が認識できる音の種類のことです)を表現するには一字で一音が決定するので、便利になっているように思われますね。

例外を言えば、古典的仮名遣いの場合は(当時の読み方がどうであれ)
「けふ(今日)」→「キョウ」
と読むわけですが、これは「け」の時点では「キョ」と読むことは決定できないわけで、「ふ」までを確認して「けふ」全体をひとつの単語として認識することによって読みを決定する形になりますね。

現代日本語にも特殊な例で似たようなものは「は」がありますね。主題提示の場合の「は」(今日は天気がいいですね)は、「ワ」と読みますが、これは日本語を学んでいる外国人の方などには読みで躓く部分だと思います。「sapporo」は単語全体を見渡せば済みますが、「は」を「ハ」と読むか「ワ」と読むかは、その文全体を読んでからでないと本当にそれが正しい読み方なのか確認できないからです。

少し話は変わりますが、漢字を全く知らない人で、文字を左から右に読むことだけを知っている人が「木」という漢字を覚えたとします。そうすると、「林」と書かれた文字を見たとき、それがマス目に区切られていたりしなければ、「木木」という二文字として認識してしまう可能性があります。しかし我々は漢字は部品の組み合わせであるということに慣れているのでそうは読みません。

これと同じことが、ローマ字に慣れている人や、あるいはアルファベットを母語の書記に使っている人は起こっているんじゃないかと思うのです。有り体に言えば、現在の英語はアルファベットが同じ並びだからと言って毎回必ず同じ読みになるわけではありませんが、それでも「-tion」を「ション」のような発音で読むこと、「-tic」を「ティック」のような発音で読むことは決まっていて、これは我々の漢字への認識にあたるようなひとまとまりの音の情報として理解されているのではないか、と思うのです。

つまり、「sapporo」の例で考えれば、「sa/ppo/ro」のように、自然と見えているとすれば、「ppo」は三文字に見えて、感覚的には漢字一文字くらいの労力で読んでいる印象になる可能性があるのではないでしょうか。「ppo」の組み合わせをひとかたまりと覚えるのと、「鬱」という漢字の正確な形と読みを覚えるのは、かなり前者の方が簡単なように思えます。

勿論後者は表意文字なので音の情報は文字自体にはないですが、いくつかのパーツをひとまとまりとして処理している、という仮説は妥当性がありそうです。

また、傍論に逸れますが、いくつかの漢字は音読みを「つくり」で示していたりしますね。必ずそうではありませんが、例えば「鮟鱇」は「アンコウ」ですが、「安」→「アン」、「康」→「コウ」というつくりの読みさえ分かっていればある程度読みが類推できるので、完全に漢字が表意文字の性質しか持っていないということは言いきれませんね。

そもそもローマ字とは、漢字ひらがなカタカナが音に変換できない外国人等に対して日本語の音を表記するための方法だとするならば、アルファベットの連なりが1つの漢字の如く塊として認識されている人達に届けるべきものであって、本来の役目は十分に果たせているのではないでしょうか。

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