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【奇譚】赤の連還 6 赤い謄本

 赤の連還 6 赤い謄本

 オレはさっそく、明くる日から、養子縁組の手続きを始めた。
 弁護士から、手続には一連の書類が必要になるときいていたが、それがこれほど手間のかかる仕事になるとは、思ってもいなかった。
 縁組は、最も肝心な戸籍謄本を揃えることから始まる。が、そこで先ずつまずいた。
 区役所に行きさえすれば、その種の書類は簡単に整う、そう高を括っていたオレは、謄本、出生証明書、住民票、記載事項証明書など、一連の必要書類を目録にし、事務所の現地補助員アライシア・アベスに取ってくるよう手渡した。弁護士に一任することも考えたが、経理上、支払いの名目が立たなかった。自由になるカネも、屠殺屋への支払いでストックがほそり、ままならない状態だったからだ。

 アライシア・アベスは、しかし、三日たっても四日たっても、なんの書類も持ってこなかった。
 それは彼らしいことではなかった。
 もともと商社の現地採用員だった彼を、社の事務所創設時に総務のエキスパートとして引き抜いたのは、その能力を高く買ってのことだった。だからオレは、できないのではなく、社用以外に自分が使われるのがいやで、やらないのだと、勘ぐった。
 だが、その日の夕方、彼の報告をきいて、実はそうではなかったことを知らされた。
 区役所の職員に書類の申請理由をきかれたアライシア・アベスは、

「養子縁組のためです」

と答え、自分の雇い主の日本人がその当事者だ、と説明した。
 職員は、申請書を持ったまま半時間以上も窓口からいなくなり、戻ってきたときには空手だった。

「検討するから明日くるように」

 さしたる疑問も持たなかった彼は、翌日、当然、返事がもらえるものと思って窓口に行った。だが職員は、同じように窓口からいなくなり、戻ってきたときには、同じように空手で、

「検討するから明日来るように」

と、また同じことをいった。
 手続きを明日へ、明日へと延ばすのはこの国の常套手段だが、検討する、というのが気になった。
 話をさえぎって、アライシア・アベスに聞いた。

「その、検討する、とはどういう意味なんだ?」

 オレの口調が威圧的だったのか、怪訝な顔つきだったのか、アライシア・アベスは、急に事務的な口調になった。

「ぼくも訊きました、でも、明日は必ず返事を出すから明日くるように、という答えだけでした」

そして、

「ぼくの責任ではありませんよ」

と、乾いた口ぶりでつけ加え、肩をしゃくった。

「だれもキミの責任だとはいっていない」
「でも、ぼくのせいじゃない」
「いいから、続きを、で、その明くる日に、行ったのか?」
「ええ、行きましたよ」

 いわれたとおり、翌日行ってみると、いつもの職員は休みで、ほかのだれも、レイラの書類のことは知らなかった。
 その翌日、つまりオレが報告をうけた日の午後、窓口に現れたアライシア・アベスのところに、戸籍課の課長がやってきた。

「当事者の養父になりたい日本人を連れてくるように」

という。

「なぜ?」
「キミね」

 呆れ顔で課長はいった。

「キミの娘を養女にくれと他人にいわれたら、キミはどうするかね? なにもきかずに、ホレ、とくれてやるのかね?」

 当然、アライシア・アベスには答えようがない。だからそのまま素手で帰ってきた、とのことだった。
 要するに、手続きに応じないのは当局だということが分かった。
 本人の出頭が必要なら最初からそういえばすむことだ。四日もひとを待たせることはなかっただろう。
 すぐに出頭しようと思ったが、その前に弁護士に相談しておいた方が得策だろうと考えた。

「決断したのかね」

 そう前置きした弁護士は、オレの質問に明快に答えてくれた。

「養子縁組は、革命前はたしかに頻繁だったが、独立後、とりわけこの国の女子と外国人との間では、ほとんどなくなった、国家存立の証としてイスラムを国教と定めてからは、婦女子はイスラムの教義で厚く守られるようになったんだ、つまり、部外者から隔離されるようになったわけだよ、先日も説明したがね、国の繁栄は子孫なしにはありえないんだ、子孫を産むのはだれか、女だよ、それもイスラム教徒を生めるのはイスラムの女だけだよね、単に養父が改宗すればいいという問題ではないさ、もちろん法律的には可能だが、法律はあくまでも決まりにすぎない、それ以外のなにものでもないんだ、その通りやれば実現する、というものでもないしね、肝心なのは、あくまで人の心、誠意なんだ」

 オレはムッとして反論した。

「キミたちはよく誠意だの、心だのというが、そういわれても、額に入れて飾っておけるものでもないじゃないか、第一、誠意があればこそ養女にしたい話にもなるし、心を動かされればこそ、こうして一人の人間の将来を引き受けてみようという気にもなるんだろ、それだけで十分すぎるくらい、説明がついているんじゃ、ないのか?」
「そうかもしれないが」

 弁護士も反論を試みた。

「あなたは、このアフリカの地が、四百年もの奴隷の歴史を歩んできた事実を、見逃しているね、この地も含めて、とくに西海岸や北アフリカの主要都市は、歴史的に奴隷市でも栄えてきたところなんだ、飢饉で食いつめたひと、さらわれ拉致され、略奪されたひと、多くのひとたちが、この地で金品と交換されて、世界中に売られていったんだ、ぼやぼやしていたら、いつ何時、同じ憂き目に遭うかもしれない、みな、戦々恐々として生きてきたんだ、一九世紀初めに奴隷制が廃止されたといっても、それに代わってやって来たのは」

 弁護士は、キッとなって、オレに訊いた。

「いったい、なんだったんだ?」
「さあ…」

 オレは、一瞬とまどったが、すぐに、こう答えた。

「ひょっとして、フランスか?」
「そうだ、ずばり、植民地主義者たち、だよ、ヤツらは、もっと頭のいいやり方を考えたのさ、より完璧な戸籍体系のもとに、奴隷制を実質的で効率的なからくりに再編成したんだ、奴隷市のかわりに役所を建て、金のかわりに紙きれ一枚で、一生、奴隷として使える人間の自動生産システムを編み出したというわけだよ、いくら革命だ、独立だといっても、その後遺症から立ち直るのは、並大抵のことじゃない、悲惨でみじめで、誇りを傷つけられた記憶はまだ生々しいし、ひとの心から、そう易々と消えることはないと思うね、外国人に敏感で、必要以上に神経質になって、強い猜疑の心を抱くのも、当然のことではないのか?」
「たしかにそのとおりだ」

 オレは同調して、いった。

「自分の知るかぎり、この国では、七年の革命戦争で百五十万人ものひとが、犠牲になったって、いうじゃないか、大変な数だよ、それほど高い対価を払って得た独立を、多くの命をかけて守った子孫を、おいそれと危険にさらしたくない気持ちは、よく分かるさ」
そして、言葉に力をこめた。
「だからといって、外国人みな下心ある悪人、ということにはならないんじゃないか、どうすればいいんだ? 教えてくれないか、具体的にどうすればいいのかね」
「とにかく、本人が直に説明するのが一番いいだろうな、それも、下っ端ではなくて、能力のある人物に会うべきだな、よければ、知人を紹介してもいいがね」
 紹介してくれと、二つ返事で頼みたかったが、その時点から手数料がカウントされる。オレは先の金策に頭をめぐらした。ほそったストックを太らせるには、当面、遺体搬出費の水増し以外にない。死人の背中で商いするのは後味わるいが、瀬に腹は代えられない。

「トビさん、悪いがもう一働き、してもらおうか」

 
 腹を決めたオレは、

「ぜひお願いする」

と念を押し、電話を切った。
 結局、こうして弁護士を介することになったのだが、それで万事片づいたわけではなかった。
 戸籍課の参事を紹介され、レイラを養女に迎えたい気持ちを、半日がかりで、誠意をこめて説明した甲斐あってか、一ヵ月後、たしかに戸籍関係の必要書類は、揃えることができた。
 だが、そこに大きな落とし穴があった。
 レイラの謄本は、粗悪な二枚の用紙に必要事項をびっしり書きこんだ、ガリ刷りのような書類だった。項目だけは活字印刷で問題はなかったが、ほかはすべて、役所の人間が悪質な赤のボールペンで書き入れた肉筆の赤い謄本で、とても読みづらかった。それを一つ一つ拾って解読するうちに、意外な事実を発見することになった。
 戸籍の筆頭者は、二年まえに死んだ祖母で、姓はメンナ、名はアイシャとある。ニジェール河流域に多く分布する姓で、祖母は、なんらかの理由で、モーリタニア以南からやってきた移民の一人だったと、推測できる。
 生年月日の頭には、推定との但し書きがあり、つれあいはなく、いきなりファトマという、娘の記載があった。娘の生まれた日付にも、やはり推定とある。このファトマは、長じてアブドラヒム・ハッキムという男と結婚し、二人の間に一女が誕生する。それがレイラだった。そこまではオレも知っている。問題はない。が、その前に知らないことが一つあった。
 レイラの上に男子が一人、生まれているのだ。名をホッシンといい、生年月日からすれば、レイラより三つ上の兄になる。死亡記録がないことから、その兄はまだ生きているはずだった。
 この事実が、オレを非常に驚かせたのだ。
 死んだ祖母からもレイラ本人の口からも、ホッシンという名の兄がいることは、聞いたことがない。
 もちろん赤の他人のオレに、いちいち報告する義理はないだろう。だが、なにかにつけ、親類や身内の話をもちだす彼らの性格からして、いままで一度も口に出なかったことが、いかにも不自然に思えた。
 とりあえず内密に調べてみようと考えた。
 また、そうしなければならない事情がオレにはあった。

 天涯孤独と思っていたレイラに、実在の身内が一人いる。とすれば、たとえそれが未成年者であっても、法廷代理人を立てて、養子縁組の合意を得なければならない。

「さて、このホッシンを、どう見つけ出せばよいものか」

 地方に住んでいるとはおもえない。都市以外では、仕事にありつく機会が少ないからだ。住むなら大都市、しかも、ここと同じ、カスバのような地区に、住んでいるはずだ。

「仮に、このカスバにいるとしよう」

 レイラの周囲を一見しただけで、該当するホッシンは、ざっと十数人はいる。どのホッシンも、みな、見ようによっては、レイラの親類に見えなくはない。姓であれ名であれ、ホッシンと呼ばれる男は、やたら多いのだ。
 いろいろ考えた末、こう推測した。

「祖母を女中に紹介した大家なら、なにか知っているにちがいない」

 狡猾で抜け目なく、機を見るに敏な男だけに、なにか掴んでいるはずだ。そういえば、老婆の死亡届けを出しにいったのも、なぜかあの大屋だった。
 さっそく、メッカ巡礼から帰ったばかりの大屋をつかまえ、賃貸契約の更新交渉を理由に事務所に呼び出し、レイラの家族について、それとなく探ってみた。

 はたして大屋は、奇妙なほど、レイラの家族の事情に詳しかった。

 彼によると、レイラの母ファトマは、もともとレイラの父ハッキムの唯一の身内である兄の嫁だった。ホッシンが生まれてすぐ、この兄は獄死した。兄が死ぬと弟がその家族を引き継ぐ慣わしに従い、父ハッキムは、子連れの兄嫁を妻にした。当然、ホッシンもついてきたが、代々、小作農で貧乏な上に不具の子どもまで養うのは、ハッキムにとって大きな負担だった。だからホッシンは、ほとんど捨て子同然に扱われた。三年後にレイラが生まれたが、直後にハッキムは暴動に巻き込まれて死亡、また母のファトマもその二年後、同じように暴動に巻き込まれて殺され、結局レイラは祖母一人で育てることになった、という。
 そこまで聞き、あらぬ予感に不安を感じたオレは、急き込んで質問した。

「捨て子同然になったそのホッシンは、いまどこで、どうしているんですかね?」

 メッカ帰りの白衣に身を固めた大家は、大仰に両手を広げ、こう答えた。

「あのホッシンかね、あいつはいま、カスバの一角に住むワシの母親の実家にあずけて、このワシがカネを出して、養っているがね」
「で、そのホッシンは不具ということですが、どこがわるいのかな?」

 大家は、すぐ、その場に立ち上がり、右足を引きずって、ヒョコヒョコと歩く真似をしてみせた。その間の抜けた醜悪な様は、ほかでもなく、オレがあれほど嫌うスークの、あのホッシンの歩き方そのものだった。
 まさかと思いつつ、気をとりなおしてオレは訊いた。

「レイラ本人は、自分に兄がいるって、ちゃんと、知っているのかね?」
「いや、女子供が知らなくても、よいことじゃよ、そんなこと、わざわざ知らせとらんがね」
「しかし、なぜ、あなたが?」

 大家は、鼻を膨らませていった。

「不具で働けないものを養うのは、イスラムの教えじゃよ」

 変動期に翻弄される家族の、赤裸々な肖像を容易に咀嚼できなかったオレは、大家に契約更新の意志を簡単に伝えるだけにし、早々に事務所からひきとってもらった。
 オレは考えこんでしまった。

「それにしても、ホッシンは伏兵だったな…」

 彼はレイラのことで、このオレを憎んでいる。そのホッシンに、これからオレは、頭を下げなければならない。レイラを養女に迎え、自分のものにしたい以上、あの醜悪な不具者の前にひれふし、嘆願のセリフを並べ立て、承諾書に署名してもらわなければならないのだ。

「なんとか避けて通る手立てはないものか…」

 だいたいホッシンは、本当にレイラの兄なのか。疑わしいものだ。手続き上の間違いかもしれない。

「だいいち、あの赤い謄本自体が、いかがわしい」

 出生の事由も書いてなければ、入籍の記録もない。おまけに生地も生年月日も推定だ。

「公の書類として有効といえるのか?」

 弁護士の意見をきいてみた。彼からは、変動期にありがちな、ずさんな戸籍管理の正当化に終始する弁解ばかり、期待した返事は一つも返ってこなかった。
 オレは、ホッシンの前にひざまずく自分を、想像した。そして、あの醜悪な少年に頭を下げるくらいなら、レイラのことはあきらてもいい、とさえおもった。だが、すぐに、それはとてもできないことだと、気がついた。
 レイラが自分のもとから去り、二度と戻ってこないことを想像しただけで、気持ちは灰色になり、鉛のように重くなった。反対に、自分を見上げるつぶらな瞳や、無邪気な笑顔を想うとき、気持ちは華やいで、世界は色彩に満ち、クミンとジャスミンが、軽やかににおった。

「これが他人への愛といえるなら、たしかにオレは、レイラという小女を、愛してしまったにちがいない…」

 日が暮れて真っ暗になった事務所の一室で、オレはそっとレイラの名を口にしながら、ひとり、いつまでも想いにふけった…。

 その週の金曜日、スークでいつもの買い物をする間、レイラのいないスキをみて少年に、あす事務所に来てくれと頼んだ。

「なんのために?」

 眉間に警戒のシワを寄せ、少年は問い返してきた。オレは単刀直入に、 
「レイラのことで頼みたいことがある」

とだけ伝え、時間を午後の三時に指定した。
 翌土曜日の午前中、サハラ殺人事件の事後報告に、大使館へ行った。加害者の職人の気がふれたので、なんの進捗もない、というだけの報告だった。        書記官は不機嫌で、絶えずそわそわしていた。

「邦人が引き起こした不祥事、それも殺人という大罪にどう対処したものか、まったく、実に、大使館も苦慮しておりまして…この事件の悪影響が、他方面に波及しないよう善処し、徹底した管理・監督を実行していただくよう、まったく、実に、お願するかぎりです…」

 彼は、何度も同じことをくりかえし、いった。
 その午後、指定した時間まえに少年はやってきた。警戒心を彫り込んだ顔は険しく、緊張していた。
 応接セットのソファーに少年を座らせ、まず質問した。

「オマエは、自分の戸籍を見たことがあるのか?」
「ない」

 少年は即座に否定した。

「なんで、そんなこと、きく?」

 オレは、机上の養子縁組ファイルから、赤い戸籍謄本を抜きとり、少年の前に置いた。

「ほら、オマエは、レイラの兄の、アブドラヒム・ホッシン、なんだ」
「!?…」

 少年は非常に驚き、何度も両手を振り上げ、信じられないと、くりかえしいった。

「ところで、オマエは、父親を知っているのか?」
「生まれてすぐ死んだ、だから、覚えてないよ」

 そこでオレは、レイラの父が、兄嫁とその子どもである少年を引きとった経緯を説明した。彼は頬を紅潮させ、虚空を見つめながら、

「レイラとオレが、兄妹?」

と何度もつぶやき、ダブダブの青い作業服の袖で、ズルズルと鼻をすすった。

「それ、レイラは、知っているのか?」
「知らない」

 少年は、目の前の謄本をとりあげ、しばらく怪訝な顔でながめていたが、やがて狡猾な目つきで、オレを一瞥した。

「でも、ダンナ、なんで、あんたが、こんなものを?」

 切り出すのはいまだと判断したオレは、レイラを養女にしたい強い要望が自分にあるからだ、と伝えた。

「その手続きをするのに、オマエの承諾が必要なんだ、だからわざわざここに来てもらった、というわけだ、ぜひ、協力してほしいんだが、どうだね」

 少年は、惚けた顔つきでしばらく考えていたが、やっと理解したのか、いきなりソファーから立ち上がると、はげしく首を横に振り、

「ノン、ノン、ノン!」

と、憎らし気に、拒否の意を露わにした。

 予測していたとはいえ、不快な相手に頭から断られたオレは、カッとなって真正面から少年を、にらみつけた。それが彼を一層いらだたせた。
 少年は怯むどころか、ますます拒否の姿勢を固めた。

「レイラは妹だ、大切な肉親だ、血を分け合った兄妹だ、ダンナはそれを引き離そうというのか、なんてひどいヤツだ、オマエは血も涙もない人間だよ!」

 少年はわめく。わめきながら、効かない足をひきずり、部屋じゅうを歩き回る。
 不用意に相手を刺激してしまった。それに気づいたオレは、極力語調を和らげ、笑顔をつくり、レイラには養女になった方が好都合でよい面がたくさんある、と説明した。だが、昂る少年に、耳を貸す余裕はなかった。分けの分からないアラブ語で、わめき続ける。オレは、怒りと不快感を抑え、さらに説得を試みようとしたが、とてもムリだと判断した。

「別の機会に、ゆっくり話し合おう」

 オレは、有無をいわさず、少年をドアの外に、追い出した。
 第一ラウンドは、みごとに失敗した。これは容易なことではない。どうしたものか。

「そうだ、彼女の力を借りよう」

 オレは、レイラに話してみよう、と思った。妹から実の兄を説得させればよい。自分のためなら、彼女もその気になるだろう。ましてや、ホッシンも血のつながった兄だ。妹が幸せになるのなら、いくらいやでも、我を通すようなことはしないにちがいない。
 ところが、現実は、そうはいかなかった。
 ホッシンとの最初の交渉が決裂した日の夜、食後に赤い謄本を見せながら、実の兄の存在についてレイラに説明したところ、彼女は、頭から否定した。
「そんなこと、ウソだよ、この書類、まちがっているよ、自分に兄なんかいるわけないよ、バアちゃんからもだれからも、そんなはなし、きいたことないよ、それに、あんな醜いひとが身内だなんて、あたい、いやだよ、だいいち、あのひとのトウさんは罪人で、監獄にいるよ、だから、まちがいにきまっている…」

 小女は口を尖らせ、顔を真っ赤にしていいはった。
 小女のてきびしいホッシン観に、まんざら悪い気はしなかったが、喜んでいるわけにもいかなかった。計画達成には、小女の助けがいる。それを引き出す努力を、しなければならない。
 次の日から夕食後、マグレブ寓話集そっちのけで、オレはレイラの説得を試みた。
 その甲斐あって、当初、まったく受けつけなかったレイラも、数日後には半信半疑になり、一週間後には、やっと首を縦に振るようになった。決め手になったのは、それまでくりかえし口にした兄でも妹でも、歯の浮くような身内の愛情でも、なかった。

「承諾書がカネで買えるものなら、いくら出してもいいのだがなぁ」

と、つい、ため息まじりに口を突いて出た、なげやりな言葉だった。
 レイラは即座に反応した。

「それ、ほんとなの?」 

 急に殊勝な面持ちになって、こちらをのぞき込む。

「もちろんだとも、で?」
「ホッシンのこと、兄ともなんとも、おもってないけど、そういうつもりなら、ダンナ様とあたいのために、やってみるよ」

 この小女にしてやはりカネか、と、ある種の義憤を感じないでもなかったが、肝心の書類が手に入るなら、なにもいうことはない。
 レイラを通してホッシンを説得する傍ら、自分の書類を準備することに専念した。
 本国から戸籍関係の書類をとりよせ、在勤証明や給与証明などは自ら作成し、それぞれ日本北アフリカ協会に提出して、翻訳証明を取った。
 また、便箋十枚分の申請理由をタイプアップし、心をこめて署名した。
あとは割礼の儀式と、ホッシンの承諾書が残るのみ、となった。
 ホッシンを事務所に呼んでから一ヵ月ちかくたったころ、弁護士を事務所に呼んだ。揃えた書類を確認するのが主目的だったが、例の割礼の儀式について、聞いておく必要もあった。
 書類の確認をすませた弁護士は、分厚い眼鏡の向こうの、いたずらっぽい大きな目をしばたかせた。

「割礼の儀式は、とりたててする必要はありませんよ、開業医のところへ行けば、どこだって、五分で切ってくれますよ、五分で、ただ、それだけのことです」

 前とはまるで違うことをいう。

「とやかくいうワリには、いいかげんだな、この国は」

 儀式もなければ作法もない。小外科手術で簡単に片づける。日ごろ吹聴する大義名分は、いったい、どこへ行ったんだ。

「いったい、だれのための割礼だね?」
「勿論、あなたのためですよ、あれは、宗教的にも衛生的にも、正しいことなのです」

 涼しい顔で開き直る。

「早くすませたいから、医者を紹介してくれないか」
「急ぐことはないでしょう、身内の承諾書が手に入ってからでも、遅くはないと思いませんか?」

 なるほど、そのとおりだ。せっかく切りとっても、承諾書がもらえなければ、痛い目をしただけ損になる。

「ばからしい」

 こうして養子縁組の手続きは、レイラの努力が実るのを待つばかり、となった。
 だが、結果はかんばしくなかった。ホッシンは、身内の愛と絆を強調するばかりで、一向にこちらの思惑に、乗ってこなかった。第二ラウンドに挑戦しなければならなかった。

 再び呼び出しに応じた少年は、先回にもまして警戒の色こい表情で、やってきた。そして、オレの懸命の説得にも、

「こればかりは、カネの問題じゃない、カネで肉親が、買えるもんか」

と、かたくなに拒否の姿勢を崩そうとしなかった。
 先日のレイラの反応から、最終的にはカネで解決するしかないと踏んでいたオレには、こうした駆引きは、時間の無駄でしかなかった。だから、ある程度の誠意を示したあとは、単刀直入に金額だけを伝え、検討してくれとゲタを預けて話を切った。
 それでも少年は、言い張った。

「カネの問題ではない」

 しかし、オレがテレックス室から出てこようとしないことを悟ると、こう馬頭した。

「アンタはとても冷たくて非人間的なヤツだ!」

 そして、そこらじゅうガタガタいわせてから、事務所を出ていった。
 神を崇め、徳を讃え、調和を説き、戒律を重んじてやまない心の裏で、物欲に身を任せ、ウソをつき、偽善におぼれ、人を辱める実体が息づいている。血のつながりや、兄弟愛を説く一方で、着々とその値踏みをするしたたかさの源流は、いったいどこにあるのか。
 結局、第二ラウンドでも、結論は出なかった。
 といっても、失敗したわけではなかった。少なくとも、こちらの誠意は、具体的な数字に換えて伝えた。あとは、相手の出方を待つだけだ。必ずなんらかの反応があるにちがいない。
 そろそろ第三ラウンドと思っていた矢先、突然、本社から緊急のテレックスが入った。

「とび技能士の親族を探したところ、長女が見つかった。事情を伝え渡航の意志を確認したところ承諾を得たので、部長と担当が同行する。現場と打ち合わせの上、受け入れ準備方よろしく頼む」

 寝耳に水だった。
 さっそくサハラの現場主任に連絡した。

「どうもどうも、緊急だったので、やむをえず事務所は通さなかったんだ、渡航者は娘、本部長、それに通訳の三名だな、明後日に到着する予定だ」
「頭越しにこういうことをやられては、困りますよ」

 オレは抗議した。

「事務所を通してくれないと、ホテルや国内便の予約なんかもできないし、その他にもいろいろ、段取りとらなければいけないこともあるし、こういうやり方だと、はっきりいって、あとの便宜は約束しかねますね」
「ン、キミのいうとおりだ、すまん、とにかく、心配は無用だ、ホテルも予約したし国内便も席をとってある、乗り継ぎでサハラ入りするんだ、事務所に迷惑はかけないよ」
「あとでなにがあっても、責任はとれませんが、それでいいですね」
「ああ、すべてはサイトマターということだな、キミは一行を国内便に乗せてから、車で移動してくれればいい、迷惑かけるが、よろしくたのむよ」

 オレはムッとして電話を切った。
 要は、プロジェクト外の出来事にはびた一文使いたくない、ということだ。一行を寄港地で宿泊させず、滞在は現場直近の簡易ホテル、移動は事務所の車を使う。

「完璧だな」

 結局、この父娘体面ミッションで、オレは運転手ということになる。進行管理に直接関係ない事件だから、端役に回れということか。遺体搬出ではさんざんこき使っておいて、いまさら事務所に迷惑はかけないもないものだ。
 これでまる一週間はつぶれる。残念だがレイラとの縁組手続きは、しばらくお預けにするしかない。
 さっそくレイラを呼んで事情を説明し、

「少年に出した条件は最初で最後、他になにを言っても受けつける必要はないぞ、いいな」

と、何度も念を押して伝えたのだった。
 
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「そのときだったね、ぼくとキミが、久しぶりに再開したのは」
「あの時は驚いたね」
「ブザンソン以来だったな」
「オマエが通訳とは、どこかで准教授にでもおさまってるものだとばかり、思ってたがね」
「向かなかったんだな」
「オマエらしくもない」
「キミが勤め人だった、というのも、想定外だったな」
「向いてなかったんだよ」
「キミらしくもない」
「オマエは、学者になる、といっていたがね」
「キミは、小説を書く、といっていたじゃないか」
「おたがい、見込みちがいの人生だったわけか」
「ところで、キミも少々、話しつかれたようだが」
「疲れたね」
「続きは、ぼくが話そうじゃないか、あの父娘対面ミッションは、いわば通訳だったぼくの仕事だからね、キミにはしばらく聞く側に回ってもらって、あのときの事実確認でもするか、という気持ちで、ゆっくりしてもらうことにしよう」

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赤の連還 5 赤い謄本 更新4 つづく


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