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【奇譚】赤の連還 8 赤いくさび

赤の連還 8 赤いくさび

 翌日の昼ちかく、疲れきって事務所にたどりついた。
 本社に短い報告のテレックスを打ち、仔羊の串焼サンドとビールで簡単に昼食をすませたあと、シャワーを浴び、夜まで死んだように眠った。
 食器の触れ合う音で、目が覚めた。遠くでライが流れている。時計を見ると、八時を回っていた。

 起き上がって窓の外を見た。
 無数の光を散りばめたカール状の斜面が、眼下に広がっている。下方に港が見えた。数隻の船が、黒い埠頭に接岸している。その灯が水に揺れ、闇ににじんだ。窓を開けて空を仰ぎみると、満天の星空だった。
 星を見るのも、ずいぶん久しぶりだった。
 十年まえ、初めてアフリカの土を踏んだとき、星の数や空の大きさに、肝をつぶしたものだった。
 その後、アトラス山中で、サハラの野営で、熱帯のココナツ林で、いろいろなところで星空を見た。
 雷鳴とどろく暗雲の空も、灼熱の赤い空も見た。町や村、部落、方々の集落にも行ったし、様々な人たちとも話をした。
 見るもの聞くものすべてが、新鮮で、驚きだった。未知の世界への興味と期待に、いつも心を震わせていたのだ。

「それがどうだ…」

 いまや、日常の忙しさや雑事にかまけ、星を見るどころか、空がどうなのかさえ、考える余裕もない。

「惰性に流され、無感覚になっているのだ」

 廊下に出て、厨房の明かりを見たとき、自分が出張から帰ったばかりだったことを、思い出した。
 厨房にはレイラが来ていた。

「どうして帰ったのが分かった?」
「ホッシンが車を見つけたよ、しらせてくれたよ」
「ホッシンが?…」

 そうか。邪魔者がひとりいたな。ヤツとはまだ話がついていない。

「条件はのんだのか?」

 レイラは無言で首を横にふった。
 早々にレイラを帰し、イカの照り焼きでビールをのんだ。テーブルの中央には、クースクースが山と盛ってある。レンジでは、スープが湯気を立てて煮えていた。小女は、オレの好みをすっかりつかんでいた。イカとスムールに目がないことを、よく知っているのだ。
 夢中で腹を満たし、一息ついたところで、にわかに養子縁組のことが、気になりだした。
 職人父娘の生々しさを思い出すにつけ、自分とレイラの関係が、偽善ともまやかしともつかないものに、思えた。彼らのように、止むに止まれぬ結果なら、いくら常軌を逸した結末でも、世間は認めるだろう。

「しかし、オレとレイラはどうか?」

 レイラはともかく、オレの場合、進むまえに退路を開く、逃げの策に終始してきたのではないのか。

「ずるい…」

 事ここに至れば、もはや養子縁組に、こだわることはないのだ。実際、彼女はもうオレの女だ。この国にいるかぎり、四人のうちの一人とおもえば、それですむことではないのか。
 それをまだ養子だ、縁組だとこだわるのは、無意識に、二段構えの策を講じようとしているからではないのか。女にするか娘にするか、どちらに転んでもいいということ、それは、とどのつまりは、

「どちらに転ばなくても、それで済む、ということではないのか…」

 書斎に行き、書棚の広辞苑と漢和辞典の間に挟んだ、養子縁組ファイルをとり出して、厨房にもどった。

 ファイルを開いて、何気なく目を通しているうち、ふと、妙なことに気がついた。書類の順序が、整理したときと違っているのだ。
 オレには、習慣として、書類を取得する順番に上から整理していくクセがあった。普通とは反対だが、こうしておくと、上から日付順にファイルをめくることができる。綴じるときに少し手間はかかるが、急ぎの書類を探すには、見当がつけやすい。
 ところが、日付順にそろえたはずの書類が、無秩序に綴じかえられていた。明らかに、オレのならべ方ではない。不在中に、だれかが触れたのだ。

「だれが?…」

 書斎に入るのはレイラしかいない。

「レイラが…」

と、オレは思案する。 

「あの小女が、鬼のいぬ間の洗濯など、するだろうか…」

 第一、彼女が書類を見てなにになる。他愛のない期待か、子どもっぽい好奇心を満足させるだけのことだ。そのために、人の信用をなくすような真似は、決してしないだろう。

「では、他にだれがいる?」

 そのとき、レモン事件の記憶が鮮烈によみがえった。

「あのホッシンか…」 

 ヤツの首筋をつかまえて、放り投げようとしたとき、レイラはオレに飛びついて、少年をかばった。まさかとはおもうが、まるで自分の大切な人かなにかでもあるように、いじらしいほど懸命だった。枝を揺すってレモンの樹から下りてくる醜い労務服が、脳裏をかすめる。

「あの、わがもの顔は、どうだ…」

 まるで、自分の庭で週末の余暇を楽しむ、ご主人サマそのものだった。実際、そのあつかましさが、あれほどオレを、いらだたせたのだ。

「ヤツなら、ありえないことではない」

 レイラをそそのかし、縁組手続の進み具合を、のぞき見しにきたのだ。身内が他人にとられる。それを食い止めようと、なにか画策したにちがいない。

「そういえば、もう一つ、変なことがあったな」

 あれはたしか、このまえの、遺体搬出の出張から帰った日のことだった。
門を開けて庭に入ると、夕闇をよぎって、隣の庭に逃げこむ人影が見えた。一日早く帰ったので、家にはだれもいないはずなのに、レイラがいた。しかも、オレの好物のクースクースまで、用意して待っていたのだ。
 気にも留めていなかったが、いまにして思えば妙だ。いくら大家が報せたとはいえ、あの夜のクースクースは、できすぎた話だ。ほんとうは、オレのためではなく、ホッシンが、オレの不在をいいことに、レイラに作らせたのではないのか。

「逃げ出した黒い影は、突然帰ってきたオレに驚いたホッシンの、闇に紛れて逃げる姿ではなかったのか…」

 邪推に際限はなかった。
 翌日レイラを問いつめた。小女は顔色を変えて否定した。

「あたいは、そんなこと、しないよ、するわけ、ないよ!」
「なら、ホッシンか」
「ホッシンじゃないよ、だって、ここのカギ、もってないよ」
「じゃあ、だれだ」
「きっと大家だよ、アイツなら、カギをもっているから、できるはずだよ」

 大家の線は、まずないだろう。一文の徳にもならないことをやるような、間抜けな男ではない。その点、ホッシンには理由がある。
 彼はいまや、レイラの実の兄だ。妹にとって兄のいうことは、親の言動より強制力を持つのが、この地のならわしだ。

「きっと、ヤツにちがいない」

 日が経つにつれ、オレの疑惑はますます大きくなり、やがて確信に近いまでに、肥大した。

「ホッシンは、養子縁組を潰そうと、画策している」

 心が乱れた。
 小女には、しばらく受難の日々が、続いた。
 自分の兄が怪しいと疑われ、時には共犯者まがいの扱いさえうける。そんな毎日に、レイラは疲れていった。顔色が悪く、沈みがちで、陰気だったころの不信の表情が、頻繁に顔に出るようになった。
 猜疑に心を奪われたオレに、そんなレイラの変化を気に留める余裕はなかった。そして二週間後、新たな事態の展開を目の当たりにしたオレは、ますます自分を見失う羽目に、陥っていったのだった。

 その日、ほとんど夕食に手を付けなかったレイラが、オレにマグレブ寓話集の朗読を断わられて帰ろうとしたとき、ドアノブに手をかけたまま、ヨロヨロと、その場に座り込んでしまった。

「また貧血の発作か」

 厨房にいたオレは、そう思ったが、どこか様子が違っていた。
 左手で口を押さえ、右手でドアノブにぶらさがり、肩で息をしながら、懸命になにかをこらえている。小刻みに体が震え、額ににじんだ汗が、廊下の灯の下で、鈍く光っていた。
 かけよって抱き起こそうとした時、レイラがこらえているのが吐き気であることに、気がついた。

「まさか、オマエ…」

 彼女は首を垂れ、無言のまま、否定も肯定もしなかった。だが、完全なつわりの症状であることは、だれの目にも明らかだった。

「たしかに防備はしなかった…」

 排卵機能にめざめたばかりの、新鮮な女体だ。老衰した一匹の精子だって、受精するにきまっている。妊娠は、当然といえば当然の結果なのだ。
 予期しなかったわけではない。うすうす承知の上で、むしろ期待半分に、避妊具を使わなかった面もある。

「なぜ…」

 三十五もすぎた男が、防備もせずに女を抱けば、妊娠もありうることくらい、分からないわけがない。それと知りつつ、あえて成り行きにまかせたのは、煮え切らない自分の生き方に罠を仕掛け、右往左往する自分を見てみたいという、自虐的な気持ちからだったのかもしれない。
 長年アフリカの、人の行かない僻地で過ごしてきた。未だに妻もなく子もなく、人並みの付き合いや友だちにさえ、恵まれていない。それもこれも、もとをただせば、誰のせいでもなく、自分の優柔不断が、招いたことなのだ。
 日本で食えないわけではなく、思い立った時に社をやめ、すぐにでも帰国すれば、よかったのだ。贅沢さえいわなければ、本国で職にこと欠くことはなく、人口の半分が女で、その一パーセントが適齢期としても、優に六十万分の一の確率で、自分に縁ある女をみつけだすことだって、できたかもしれないのだ。

「だが、しなかった。なぜだ?」

 生まれつきの用心深さが災いしたのか。

「そうもいえる」

 用心深さは変化をきらう。現状維持で冒険をさける。定石だ。

「器用に働きすぎたのか」

 それもいえる。若くて未熟な途上国では、器用に立ち回ることが、なによりの力だ。なまじその技量を、企業という、かりそめの組織から評価されたために、いつまでたっても、アフリカから足を抜くことができない。
 かといって、組織から特にと、切望されたわけでもない。居るもよし、去るもよし。連絡事務所長の機能は不可欠だが、それが必ずしもこのオレである必要は、どこにもないのだ。

「代替品はいつだって調達できる」

 だから、いる以上は精一杯働いて、十分に機能してもらわなければこまる、というわけだ。
 一方、オレはオレで、そうと知りながら、自分の怠慢や小心を、組織を楯に正当化してきた。
 もし社にさえいなければ、帰国でき、結婚もでき、人並みの家庭も築けたろうし、いまごろはセカンドハウスの一つでも建てて、意気揚々と暮らしていただろうに、というわけだ。しかし、現実はその正反対だった。
 そこにレイラが現れた。惰性と無感動の日々に、赤信号が灯った。小さな赤いくさびが、打ち込まれたのだ。
 流れが変化した。
 最初は居心地がわるかった。だが、いまは、欠かせない存在になった。それをとり除けば、また惰性に流される。ならば抜かずに放っておこう。成り行きにまかせるのだ。

「そうでもしないかぎり、オレはこのまま、なにもしないで、歳だけとっていくにちがいない」

 レイラを養女にするのは、手続きの問題だった。子どもを育てるのは、カネさえあればだれでもできる。
 しかし、レイラに子どもができたらどうするのか。それなりに覚悟を決め、彼女とその子を受け入れる努力をするだろうか。
 それとも、

「不測の事態にシッポを巻いて、コソコソ、逃げ出すだろうか…」

 オレは、自分の心のありていと、その行く末を思いえがいた。そして、そのこと自体、結局は、レイラの妊娠という新たな事態から逃げるための思案だということも、心のどこかで感じていたのだ。
 急に腕が重くなった。貧血の発作が出たのか、小女は完全に気を失っていた。
 オレは小女を抱えたまま、その場にひざまずいた。支えを失った頭が、熟したメロンのように後ろに垂れ、判眼に開いた瞼から、光の失せた白目がのぞく。だらしなくあいた口からよだれが流れ、大理石の床に落ち、そこからクミンに混じって、胃液や分泌物の甘酸っぱいにおいが、あたりに漂った。オレは思わずそれをすくうと、粘りのある液体を口に含み、胃の中に呑み込んだ。
 それからオレは、自分でも驚くほど淫らに、レイラと交わった。
 オレは小女を全裸にし、仰向けに寝かせ、口から溢れ出るよだれを、口で吸いとった。それから舌で顔面を拭い、ヒタイから足の指先までなめまわした。小女は時々、体をピクリと動かした。足の親指を奥歯でコリコリかむと、痙攣の回数がふえた。膝の間に頭を入れ、そのまま押し上げると、股が開いて目の前に股間が現れた。傷痕が赤くひきつれ、二つの果肉がはち切れそうに膨れている。甘酸っぱいにおいに誘われ、思わず舌をさし出した。すると小女は、

「ヒッ」

と、息をつまらせ、正気をとり戻した。
 犯す自分を、犯される相手が、見ている。オレは熱くなり、昂った。
 肛門からスジを経てヘソへ、そしてヘソからスジを経て肛門へ、舌で何度も往復した。こわばった筋肉が緩み、開いていく。果肉の間に舌を差し入れると、酸を含んだ体液が流れ出た。それを口に含み、伸びあがって小女の口に運ぶ。腰では下半身を捉え、同時に自分を挿入した。
 小女は苦し紛れに首を振り、腰をねじって抗った。だが、のしかかる男の重みで、身動きがとれない。全身で抗う小女の様が、さらに欲情をつのらせる。小女は硬く、局部がちぎれるほど、締められた。オレはゆっくりと、執拗に、その中を、突き進んだ。
 小女は顔をゆがめ、嘔吐をこらえてうめいた。そのうめきが瀬戸際までせり上がろうとしたとき、オレは自分を引き抜き、小女を裏返した。
 ヌルヌルの床に小女を押さえつけ、後ろから入った。

「イタイ…サムイ…」

 小女は訴える。オレはその髪をむしり、青い痣に歯を立て、腰をひねってねじ込んだ。犯され、辱められ、痛めつけられる小女が、無残で、哀れで、愛しかった。
 また寸前で引き抜くと、今度は股を交差させて交わった。股間同士がガッチリと噛み合い、つけ根までめり込んでゆく。小女の脚が目の前でひきつり、空を掻いた。その指をかじり、足の裏をなめ、ふくらはぎを締めあげると、小女は悲鳴をあげ、震える声ですすり泣いた。
 オレは、両のふくらはぎで小女の顔を挟み、

「肉をかじれ」

と命じた。小女はとまどった。いらだったオレは、両方の足の裏で小女の顔を挟み、

「いったとおりにしろ」

と、強要した。小女は、いわれるとおり、男の脚の肉をそっと噛んだ。小さな歯の立つ感触が、電気のように背筋を伝わる。その快感にオレは、

「もっと強くかめ」

とせめ立てた。
 続いてオレは、レイラのアキレス腱に歯を立て、同じことをしろと命じた。それから踵をくわえ、それも同じことを要求した。
 そのように、口や指や舌や、使えるものすべてを使って小女を刺激し、彼女にもそのとおりに刺激させた。
 また極みが近づいた。オレは密着した局部を引き離し、床から小女を抱き上げると、こんどは壁に押しつけ、前から自分を突き立てた。
 小女はもう苦痛を訴えなかった。
 快感が痛みを消すのか、股に挟んだ男の局部を、自ら腰をねじってのみ込んでいく。膣は狭く、自分が押しのけるすべての肉の厚みを、その先端に感じた。
 その時、サッと、あらぬ考えが脳裏をよぎった。

「つわりは、ちょうど三ヶ月くらいから始まる、レイラの受精卵はまだ胎盤に定着せず、不安定で流産しやすい時期にある、ひょっとして、このまま自分の先端で、潰してしまうことができるのではないか…」

 この奇妙な短絡は、しかし、当のオレには、とても説得力があるように思えた。
 物理的な衝撃を間断なく加えれば、下腹部になんらかの影響が、出ないはずはない。
 オレは、猛然と小女に襲いかかった。
 腰をふり、腹部をねらって突き上げた。乳房が寒天みたいに揺れる。衝撃は大きいはずだが、はずむ肉が、柔軟に吸収してしまう。これでもか、これでもかと、攻め立てた。たちまち腹筋がちぎれそうになり、カチカチに硬直した。
 壁から小女を離し、腿を逆さに抱いて床にねじ伏せると、体全部で股間に乗り上げ、揺すった。
 小女は、両の手の平で口をふさぎ、つきあげる吐き気をこらえながら、骨盤の上の男を股の間から見つめた。雌羊を思わせる潤んだ目が、廊下の灯りを映して鈍く光る。そこに歓喜の輝きはなく、かつての猜疑の翳りもなかった。冷たい無機質の視線が、無表情にこちらに注がれているだけだった。
 それにオレはいらだち、昂った。
 ひとしきり恥骨を擦り合わせたあと、床に正座し、小女を後ろ向きに座らせた。十分に濡れた二人は、どんな角度でも、容易に交わることができた。そしていったん交わると、一匹の動物のようにからまり、動き、あえいだ。
 うしろから抱く小女の体は、特にオレを刺激した。はちきれそうな尻がふたつ、腿の上ではずむ。胴を締め上げると、両手に収まるほどほそかった。その上で小ぶりの乳房が敏捷に揺れる。はがいじめにすると、脇の下が開き、クミンや分泌物や、汗の混じりあったにおいが鼻を突いた。うなじに歯を立て、腰をふり、乳房を揉んだ。
 過酷な交わりの中で、小女の感覚は開発されていった。苦痛と快感のせめぎ合う新鮮な肉が、感覚の渦に巻かれて翻弄される。未熟で硬い動きは、わずかの間に大きく大胆になった。
 狭い膣は、執拗で間断なくくりかえされる摩擦で、ほどよい具合に広がった。
 十分に開かれた小女は、もう犯されるあわれな被害者ではなく、自ら快楽を共有する、ひとりの共犯者になった。
 事実、オレに馬乗りになった小女は、男をもっと自分の中に引き入れようと、体を海老形に曲げて揺すった。緻密な肉の壁が緩み、より緻密な奥部へと、先端を呑み込んでいく。その抗いようのない吸引力に、オレは、ただ床を掻き、脚を突っ張って、快感の渦に巻かれ解体していく自分を、懸命にこらえつづけた…。

 物理的に受精卵をつぶす…この奇妙な短絡の結論をはやく引き出そうと、その後もなんどか、小女を犯した。
 だが、結局、オレの思惑どおりにはいかなかった。血を流して子宮の異常を訴えるどころか、小女は日に日につわりの症状を強め、下腹部と腰まわりには、目に見えて肉がついていくように思われた。
 手遅れになるまえに、決断しなければならない時期に、きていたのだ。
 そんなある日、サハラの現場から電話が入った。例の職人の処遇に対する地主の要求を、報せてきたのだ。
 要求は、極めて具体的なものだった。
 建設現場の西方、ちょうど町とは反対の方角十数キロのところに、人工の井戸がある。砂漠化防止対策の一貫でグリーンベルト計画が設けた井戸だが、汲み上げポンプが壊れ、放置されたままになっている。発電機かモーターの故障か、どちらかわからないが、部品交換で再使用が可能になるはずだ。それを修理してほしい、というものだった。
 地図を見るまでもなく、その場所はグリーンベルトからかなり南に外れていた。
 主任に質すと、

「そこがミソなのだ」

と、得意気な返事が返ってきた。
 つまり、計画作成段階で地主が財務省に圧力をかけ、無関係な自分の私有地を強引に計画対象地域に組み入れ、工事させた井戸だというのだ。 
 なるほど、民族開放戦線の要人の希望は、あだや疎かにはできない。財務省から要請をうけた計画省は、事後の保守管理はしないという条件で掘削を承諾し、水森林資源省が汲み上げポンプの設置工事をしたという。
 ところが、ポンプは一年で故障してしまった。無理もない。過酷な気候に加え、保守整備をしなければ、どんな機械でもだめになる。せっかく地主が自前で整備した数百ヘクタールの灌漑設備も、砂に埋もれて元の木阿弥になった。

「そこでポンプを修理して整備し直せば、地域の緑化にも貢献できる」

というのが、地主の言い分だった。

「地域への貢献とはよくいったものだ」

 どうせトウガラシの種でも横流しさせて、一儲けしようと企んでいるのだろう。水さえあればなんでもできる。ナツメヤシや唐辛子の栽培はおろか、ラクダの放牧だって、やろうと思えば可能だ。労働力に事欠かない。職にありつけない連中はウヨウヨいるからだ。
 この地主の気まぐれが、はたしてどれくらいのコストにつくか、故障の程度にかかっている。掘削自体をやり直さなければならないほどひどければ、ポンプをとり替えるだけではすまなくなる。それこそ一大プロジェクトになりかねない。冷静に考えれば、安易に呑めない交換条件でもあった。
 だが、オレは技術屋ではない。いいたいことはいくらでもあったが、どうせプロジェクト外の裏取引だ。本社と現場で決めればよい。金は現場が出す。余計なことで、こちらの仕事を増やす結果にでもなれば、それこそ、無駄というものだ。

「ところで、肝心の職人は、どうしたんですか? 娘にあって正気をとり戻したからには、供述書も取れたはずでしょう、地主も条件を出してきたし、即決裁判で有罪、一年の服役の後、国外追放という線で、話がまとまるはずでは」
「それがだね、残念なことに…」

 失望の色濃い声色で、主任は意外な報告をしてよこした。

「娘が帰った翌日から、職人はまた惚けだしてね」
「えっ!」
「なにを聞いても、なにを話しても、ハナをたらして、涙を流しっぱなし、ただ鬱々と、あらぬ一点を見つめてる、て具合なんだよ」

 オマエからきいた、無惨な父娘対面の生々しさを思い起こしながら、オレは聞きかえした。

「で、見通しは?」
「裁判になるか施設送りになるか、余談を許さない現状だがね、しかし、楽観していいとおもうんだよ、とくに、所長の手配が功を奏したってことも、あるしね、あの話さえまとまれば、だね、どちらに転んでも半年か一年後には、送り出せるとおもうんだ、まあ、なにも、気をもむことはないよ、とにかく、ご苦労だった」
 本当にこのまま楽観していいものか、と一抹の不安は残ったが、どうせ裏取引だからと、自分に言いきかせた。

「では、事務所の助けが必要なときは、事前に連絡してください、事前に」

 オレは念を押し、乾いた対応で電話を切った。

 振り向くと、レイラがそこに立っていた。オレの腕をつかまえると、真顔でこう訴える。

「大切な話があるよ、だから、聞いてほしいよ」

 その語調には、安易に拒否できない威圧感が、こめられていた。

「なんだ?」
「おカネがいるよ、だから、貸してほしいよ」

 このオレに慰謝料でも請求してもよさそうな立場なのに、小女には考えも及ばないことらしい。こまりきった表情が、愚鈍にさえみえた。

 オレは当然のことように、小女を問いつめた。

「オマエには、もう大金を注ぎ込んだんだ、この上、なにに使うんだ?」

 小女は、卑屈な視線でオレの反応をうかがうと、下腹をさすって、こういった。

「ここにいる子を、なくすためだよ」

 急に肩の荷がおりた気がした。と同時に、そんな酷な目にあわせてなるものかと、本気で思った。
 そこで小女をその場に座らせ、堕胎の怖さやその非人間性を説こうとした。
 だが小女は小女で、相手を説得するための努力を、懸命に試みた。

「カスバの奥に、婆さんがいて、こまった女たちを、助けているよ、子どもがほしい貧乏人に、用はないけれど、金持ちでも、外に出られない女が、手術にやってくるよ、マチの病院でできない、特別な手術だから、とても高いよ、でも、あたいみたいな貧乏人だって、ひとに話せない事情があるなら、みな、そこへいくよ、他に方法、ないもんね、でも、貧乏人でも、安くしてはくれないよ、みんなから、つまはじきにされて、カスバをおいだされて、生きていけなくなるよりは、ましだから、みんな、なんとかカネをつくって、やってくるよ、高いけれど、とてもいい腕だから、心配いらないって、みんないっているよ…」

 小女は同じ説明をくりかえし、カネをくれと、しつこくせがんだ。

「その汚れた手術で、婆さんは、一回いくら儲けるんだ?」

 返事をきいてオレは仰天した。あの行商の屠殺人ではないが、小さな家が一軒買えるほどの値段だったからだ。
 不法侵入者を追い出すために、レイラにはもう大枚注ぎ込んでいる。以来、裏金は底をついたままだ。残念だが、それほどの高額を、右から左に動かす余裕は、今のオレにはない。使途不明金の捻出に、どれだけ苦労しなければならないか、小女には分かっていないのだ。いくら大雑把な土地柄とはいえ、収支のつじつまを合わせるのは、それほど簡単なことではない。

「だが、もし、カネを出さなければどうなる?」

 当然、レイラに払う能力はない。胎児は腹の中でどんどん大きくなる。もしオレが引きとらなければ、小女はこの歳で私生児を産み、カスバを追われ、路頭に迷うことになる。最悪、港の終着駅をみおろす陸橋の欄干から、身投げする事態にもなりかねない。事実、新聞では報道されていないが、年間かなりの数の女たちが、あの欄干から飛び下り自殺を図っているのだ。

「では、彼女を引きとるのか…」

 そうするはずだった。だから苦労して書類も整え、大金を払い、あの醜悪なホッシンにも、頭を下げる気になったのだ。
 いまでも、レイラを自分のものにしたい気持ちに、変わりはない。小女のいない生活など、孤独で惨めで、とても考えられないほどなのだ。

「だが…」

と、そこでオレはいきづまる。
 この変調はなんなのか。レイラのことを考えるとき、なぜか気持ちが重くなる。彼女を抱きよせ、懐にしまい込んでしまいたい気持ちにかられながら、一方で、はやる心が抑制され、急激に減速してしまうのだ。

「あの無残な父娘が、原因か…」

 思い返せば、彼らはなにかの符合のように、オレの前に現れた。職人は、オレとレイラの出会いを待っていたかのように事件を起こし、気を狂わせ、まるで二人の未来を暗示するかのように、かつて自分が犯した娘を、自分のもとに呼び寄せた。

「なにかが、オレとレイラの出会いを、拒んでいる、だれかが、オレたちの行く末を、呪っている…」

 子どもだましの妄想だった。オレはあきれ、それを一笑に付そうとした。だが、不吉な事態がふたりを待ち受けている予感を、ぬぐいさることはできなかった。
 それから毎晩、レイラはオレを捕まえては、

「カネをくれ」

と訴えた。
 こちらに責任があることはたしかだった。それを無視するほど理不尽なオレではない。ただ、それが必ずしも即、カネに結びつくとは考えなかった。
実際、堕胎期間が切れるまでにはまだ間がある。不誠実かもしれないが、ギリギリまで自分を追い詰めたらどうなるか。そこを見てみたい気持ちもあった。また、金策に要する時間も、必要だったのだ。
 十分に活用してない当てが一つあった。
 秘書アライシア・アベスの昇給、運転手の転職と、その代わりの新規採用だった。これなら労働者の保護を重視する国の政策にも合致する。本社や財務当局の不信をかうことも、ないだろう。
 もちろん、実際には昇給も採用もしない。現に、いま雇っている運転手は一人、あとの二人は幽霊だ。その一人を兵役にやる。兵役終了後、復職する場合は必要ないが、転職の場合は国の指導で、相応の退職金を払わなければならない。
 当然、彼は転職を希望する。つぎに、事務所は欠員を補うため、新たに運転手を雇う。これで二重の経費が浮く。これに架空の昇給分を足せば、年間でどうにかレイラの言い値の半額にはなるだろう。堕胎料は三分の一にねぎればよい。国外で無価値の現地通貨はだぶつきぎみだ。口実さえ見つかれば、使えるカネはけっこうあるのだ。
 ほぼ金策のメドはついた。

「値段も高いし、信用できない面もあるから、その婆さんに会わせてくれないか」

 オレはレイラに頼んだ。直接会って人物評価し、できれば値段の交渉もしたいと考えたからだ。
 レイラは、しかし、それはムリだと、頭から否定した。

「あそこにオトコのひとは、入れないよ、もし入ったら、二度と出てこられないよ、いままで何人も、あそこで消えてなくなったよ、それに」
「それに?」
「だれにもいわない約束でバアちゃんの友だちが教えてくれたところだから、もしウソをついたことが分かったら、それだけであたいはカスバに住めなくなるよ…」

 なるほど、どこまでも分けの分からない土地だ。オレはあっさりあきらめ、レイラに命令した。

「オレの代わりに、婆さんと値段の交渉をしてこい」 

 翌朝、レイラはさっそく返事を持ってきた。

「いくらたのんでもウンとはいわなかったよ、でもバアちゃんの話をすると、昔よくしっているからって、すぐ半額にしてくれた。もっと安くしてとたのんだけど、ぜったいだめだとことわったよ」

そして、

「もう自分のお腹はこんなにふくれて、ほっておけなくなるよ、あした行ってすぐしたいよ、たりない分は一生かかっても返すから、どうか、カネかしてくれよ」

と、つけ加えた。
 たしかに小女のいうとおりだった。ここ数日をのがすと、手術は不可能な時期にきていた。切羽詰まったレイラの表情が、なによりも雄弁にそれを物語っていた。ここにきてまた堕胎の恐ろしさを説く気になれなかったオレは、夕方までにカネを用意すると小女に告げて家を出た。

「いきなり半額とは、気前のいいまけ方だ」

 子どもの背中で汚いカネを稼ぐのに、良心の呵責でも覚えたか。
 結局、また金を払うことになってしまったが、スッキリ料と思えば安いものだ。いずれにしろ現地通貨だ。わずらわしい兌換手続きもなければ稟議もいらない。一週間もすればレイラは元気になる。サハラの現場も、予定どおりの進み具合だ。愚劣な事件は起こったが、それも事務所の手を離れ、あとは本社と現場任せにおさまった。

「これでしばらく安心して仕事に専念できるというものだ…」

 オレはいつになく落ちついた気分でハンドルを握ると、わざわざ海がみおろせる海岸通りを選び、銀行へと車を走らせた。

赤の連還 8 赤いくさび 完 9 貫頭衣 につづく


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