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【奇譚】白の連還 第四章 白い氷

白の連還 第四章 白い氷

 翌日も雪は一日じゅう降り続いた。みなよく眠れるのか、避難者のだれひとり、これといったストレス症状をみせるものはいなかった。各班それぞれ所定の仕事を問題なく遂行している。消灯まぎわにカメラマンが、その夜の語り手として女監督を指名した。女監督はいくぶん予期していたようだったが、あら、と意外なふりをして座り直し、長い指で髪をすいた。

第四章 白い氷 

 まず、どうなんでしょう、ハナシをしなければいけない本人が、いきなり質問することからはじめたりしたら、みなさんにムッとされてしまって、あとが続かなくなってしまうかもしれませんけれど、でも、正直、わたしには、機会さえあれば、いつか、だれかに、話そうと思っていた隠し事が一つあって、それが、いまだにチャンスがなくて、だれにも打ち明けることができなくて、今の今までやり過ごしてきてしまいました。そのせいか、いつも喉のおくに、なにかグリグリしたものが詰まっていて、あの出来事があってからここ十数年、いえ、もっとかな、朝にすっきり眼覚めたこともないし、夜中に悪夢まがいの恐怖で、目が覚めなかったことなんて、一度もなかったのです。

 ですから、この突然の雪崩って、みなさんには、とてもわるいんですけれど、わたしには、不幸中の幸いとでもいうのでしょうか、そのおかげで、やっと秘密の暴露ができてしまう、ていう、沙汰やみのありがたいオミクジにでも当たったような気分になってしまって、もうホッとして、なんとも、嬉しくてしかたがない、といった気持ちで、いっぱいなんです。

 で、最初にもどりますけれど、まずみなさんに、ぶしつけになにを質問したいのかといいますと、罪とはなにか、ということなんです。別な風な聞き方をすれば、みなさんがなにを罪と考えてらっしゃるか、ということなんです。 

 いきなりなんだ、禅問答でもふっかけるつもりか、なんて、怒ってらっしゃる方、いらっしゃるかもしれません。だって、そんなこと、強盗や殺人や、親殺しや子殺しや、いろんな犯罪や事件が、身のまわりで、日常茶飯事におこっているのに、ふしぎと、普段の生活のなかでは、罪だの倫理だのと、まともに考えたりすることなんて、そうしょっちゅうあるものではありませんでしょう? ましてや、犯罪にまつわる悪や罪について、腕組みしてじっくり考察してみよう、なんていう時間も動機も、どこにもありませんものね。ほんとに、凶悪で、狂気としかいいようない事件が、あまりに多いので、罪や悪のエキスそのものが、極端に薄められてしまって、わたしたちみたいな、平凡な暮らしに慣れきっている生活者の舌には、苦くも甘くも辛くも、なにも感じられなくなってしまっているのかも、しれませんね。

 前置きはともかく、失礼とはおもいますが、みなさんが、罪などについて、日ごろ考えたこともないし、周りのだれと話していても、そんなこと、いままでハナシのハの字にもならなかったし、平和で安全で、ほとんど疑似的だけれど、すこやかで安心のある毎日を送っておられる、という、あくまで、わたしが独断と偏見でみたてた仮説のもとに、今夜は、自分が自ら犯した罪と、その災厄が、いつ何時、みなさんの身にふりかかっても不思議ではないし、またなぜか、気まぐれな神様の気分次第で、突然、悪が善にさまがわりしたり、災厄が褒章と化してしまうようなことだってあるんだよ、ていう、前代未聞のおハナシを、お話しして聞かせようとおもいます。

 むかしむかし、あるところに…なんて、冗談ですが、いまからずいぶん前のことですけれども、わたしがまだ若くて、シワもシミもこんなに出ていなくて、自分でいうのもナンですけれど、もっとマジに初々しくて綺麗だったころのことでした。わたし、映画が大好きで、とりわけ、新鮮で繊細で、それでいて鋭く大胆な、鋭利な刃物で知性の端部から切り裂いてくるような、そんなヌーベルバーグの映像表現に、大変興味をもっていたものですから、そんな映画でもつくりたいな、ておもって、都内のある映画制作会社に就職しようと、何度か、試みたことがありました。

 ちょうど東京五輪のテレビ世界同時放映があって、それを契機に、映像の国際化が目に見えて推し進められていたころのことです。映像が映画館の枠組から解放されて、というより、特別な暗い空間が不必要になって、街中に、それこそ、お茶の間にまで飛びこんでいった当時、文芸娯楽を支えにうんと稼いできた映画業界なんか、斜陽産業への転落まじか、っていう悲惨な状況になりつつあったんです。なのに、学生運動には、あれだけ過敏に反応していたくせに、わたしって、時代の一方では、時流に無頓着かつ無関心だったらしくて、文字通り初々しくも幼稚で、まるっきり情報リテラシー欠如の、さしずめ、ご時世にうといズブの田舎者だった、ということなのかもしれませんね。将来性のない業界に自分の生涯をかけて飛びこんでいこうなんて、なんの疑問もなく、勝手に意気ごんでいたわけですから、おめでたいもいいとこですよね。 

 けれども、世の中って、よくしたもので、幸か不幸か、制作会社の方から、ことわられました。それもそのはず。先の見えないマイナーな事業に、新規採用枠をもうけるなんて、どう考えても財政的余裕など、あるはずもないでしょう。行く先々で、こう言われたものです。いまどき新規採用ですって? なに考えてらっしゃるの? 世の中よくごらんなさい、映画つくってまだ食べていける時代とでもお考え? あまいな、あまいな。そんなに映画がおすきなら、どこかの独立プロにでももぐりこんで、バイトしながら、それこそアナタ自身がしっかり貢いであげて、なんとか観れるモノにしてあげるッキャないわよね、現に、そうやって撮ってるひとたち、わんさといらっしゃるわよ、その辺に…とね。

 それにしても、自分で貢いでなにかをつくるなんて発想、ヘンだとおもいません? 西表山猫の生態にほれ込んだ篤志家が、私財を投げ売って、絶滅危惧種の保護に身を投じる、とでもいうのなら、なるほどと、うなずけないこともありませんけれども、内容はともかく、映画一本完成させるっていったって、だれかの創作欲とか事業欲の発露の結果でしょうし、自分でシナリオ書いて、演出して、独自の美意識を徹頭徹尾すりこんだ映像表現ができる、なんていうのでしたら、貢いで、貢いで、貢ぎこんでも、足りるということはないでしょうけれど。

 そういうふうに振返ったとき、ふと、思ったんです。じゃあ自分が、貢いで、貢いで、貢ぎ込んでも、まだ貢ぎたいものって、なんだろうな、て。そしたら、わたし、すぐに、答えをみつけることができました。ほかでもありません。それは、好きで好きでたまらない、この、山に生きる、ということだったんです。

 山に生きる…わたしなんかにいわれるまでもなく、みなさんは、とっくの昔から、生きてらっしゃいますよね、山に。でも、それぞれが、どんな生き方をしてらっしゃるかなんて、そう簡単にはわかりませんよね。ひとによって、まるっきり違いますもの。

 マッキンリー、あのデナリ山に、単独登頂するプロ冒険家の生き方もあれば、ヒマラヤ山系のエベレスト、チョモランマ、サガルマータや、カラコルム系のK2、チョゴリなど、標高八千六百メートル級の山々はたくさんありますけれど、それらに挑戦しなければ生きた心地もしない登山家の生き方もあるでしょうし、わたしみたいに、若干、自虐的な考察ですけれど、何とかひねり出した年末年始の時間帯を、酷寒といってもせいぜい零下十数度、標高といっても高々二、三千メートルに届けば御の字、といった条件下で、チマチマと山時間を賞味する生き方もあれば、山岳救助隊のように、危機に瀕した遭難者を、命がけで救助する、超ダイナミックでスリリングな、うらやましい限りの山を生きてるひとたちもいらっしゃるでしょう。ホント、わたし、十年若かったら、あの山岳パトロールの世界に、飛びこんでいたかもしれませんわ。

 いえ、実は、わたし、飛びこんだんです、飛びこもうとしたんです、あの山岳救助隊の世界に。

 あれは、ちょうど十年前のことでした。さきほども触れましたけれど、行くところ行くところで断られた大好きな映画製作へのミチがみつからず、挫折して振返ったときに、自分の究極の目標としてとらえなおした、大好きな山を生きるミチ、この二つのミチを融合して、組み合わせたら、どうなるだろう、うまいぐあいに合わせられないだろうか、といろいろ考え、悩みました。そして、思いきり悩んだ末に引き出した結論は、山岳メディアに活路をみいだす、ということだったんです。山に生きることが、そのまま、映画製作につながる方策はないだろうか。たとえば、山に生きるところを映像化すればどうなるだろうか。たとえば、山岳救助隊の生活を、記録映画に撮るとしたらどうだろう、救助隊もわたしも、山に生きる日常を、そのまま一挙に、実録で映像化できるっていうことに、なるのではないだろうか…。

 白馬村の青鬼集落で生まれて、朝焼けの五竜や鹿島槍、ピーカンの白馬、杓子、厳しい雪肌の不帰のギレットや、いつも尖がり帽の唐松など、後ろ立山連峰の壮大な山々を眺めながら、安曇野の大地で育ったわたしには、北アルプスの懐で、春夏秋冬、山野中をかけまわるテンやオコジョと似たようなところがあって、ある種、天然の嗅覚が備わっているのでは、とおもうくらい、雪山や萌える山野の空気が、手にとるように、わかるのです。におうのです。ですから、まずは、安曇野で救助隊を目指そうとおもいました。遭難救助活動といえば、緊急事態なので、安曇野のほぼ隅から隅まで頭にはいっているわたしなどには最適な仕事、と考えたわけです。

 でも、たしかに地元の山岳会で遭難救助の実施訓練はやっていましたけれど、実際の活動となると、まず社会の仕組みや枠組があって、山岳救助は消防、山岳警備は警察、とはっきりわかれていて、いくら天然の空気が分かるんだ、嗅ぎ分けられるんだ、っていっても、まずどちらかの組織に属さなければ、救助活動に携わることなんかできない、というきびしい現実に直面させられました。

 つまり、どちらかに与するということは、映像表現とはかけはなれた縁遠い生活が自分をまちうけているということになる、はたして、そんな選択肢って、今の自分にあるのだろうか…悩ましいジレンマがありました。

 いくら悩んでも答えはでてきそうにありませんでした。そこで、わたし、なにも安曇野にこだわることはない、こことはぜんぜん無関係な、自然条件も社会的枠組もちがう、まったく別のところでもいいじゃないか。たとえばシャモニックス・モン・ブランなんて、どうなんだ。どうせやるんなら、あそこの山岳救助隊に、スッピンのままで、いきなり挑戦してみるテもあるんじゃないか、いや、ある、絶対ある、と決心したんです。

 シャモニックス、て、みなさん、もう、よくご存じだと思うのですが、通常、シャモニーといわれているリゾート地の名前なんですよね。でも、昔から住んでるひとたちは、わざわざ標準語読みしないで、自分たちの土地のことを、昔からそう呼んでいるように呼んでるんですよ。しごく、あたりまえのことだとおもうのですけれど。あそこは、モン・ブランの山麓に広がる山岳都市で、標高は、たしか、公称千三十五メートルだったと記憶しています。

 で、実はその年、八十一年のことでしたけれど、この山岳都市に、シャモニックス国立スキー山岳学校傘下で、土地の山岳スキー監視員救助隊連盟が主催する救助隊訓練講座ができる、というので、わたし、わくわくしながら、方々の筋をたよって、情報を集めていたんです。けれども、最終的にはっきりしたことは、なんのことはない、まず土地のひとが優先で、つぎにフランス国籍を所有すひとで国内居住者が対象、ということだったんです。わたしは、ホント、がっかりしてしまいました。

  でも、一度抱いた、シャモニックス・モン・ブラン山岳スキーの夢、なかなか覚めやらず、で、エイッ、とにかく行って、登って、滑って、本場のアルプス一万尺を満喫してみようよ、行くぞーッ、と決めたんす。そう決めたからには、まず、エギーユ・ドュ・ミディ、ミディ針峰ですよね、まず目指すのは。

 あれは明くる年の3月の初めでした。

 なにしろ海外旅行そのものが初めてだったし、大げさないいかたをすれば、未知への不安もありましたけれど、とにかく初心貫徹の意気込みで、わずかな貯金をはたいて買ったドルとフランを握りしめて、パンパンに胸ふくらませて、あこがれの新天地に向かいました。

 ところが、どうでしょう、到着したわたしを迎えてくれたのは、山手線のラッシュアワーそこのけの混雑した山頂駅や展望台でした。せっかく氷河群の収斂するシャモニックス渓谷や、これから下ろうと楽しみにしていたヴァレ=ブランシュ、それにグランド=ジュラスの巨峰群を一望しようと心待ちにしていたのに、どこを見てもひと、ひと、ひと。これじゃあ、待ってる間に日が暮れちゃうよ、よし、ひとなんか、いないとおもえばいい、ラッシュなんか、なかったことにすればいい、とにかく滑ろう!と腹を決めました。眺望は滑降しながらでも十二分にたのしめるのだ、とにかく滑れ! だって、わたしはいま、モン=ブランにいる、モン=ブランにいるのだ! ピーカンの空を仰ぎみると、モン=ブランは、まるい頭の上に、ほんのり真綿で編んだような帽子をかぶって、文字通りの白山でいらっしゃいました。

 昨日まで吹雪いていたなんてウソみたいに晴れわたった空、クーンと透きとおった空気、-15度のミディ針峰を後に、ガイドロープつきの山道をしばらく伝っていくと、バレ=ブランシュ滑降取っつきの台地にでました。眼下にひろがる氷河、たくさんのシュプールが、思いのままに弧を描いて、白色の氷面を削っていました。思いのままといっても、結構、みんな、難度を意識しているらしくて、自薦で大別すれば、超上級、上級、中級程度の3コースくらいに分かれていました。とにかく生まれて初めての氷河滑降なので、わたしは安全パイをえらび、大カーブで削りのうすい、一番クラシックな自薦中級コースをいくことにしました。ケガして山岳パトロール隊に救助される、なんてことになるの、いやですものね。それこそミイラとりがミイラになってしまいますもの。

 ダウンヒルのとき、みなさんはBGM派ですか、それともNSM派ですか?わたしは、どちらかといえば、あとの自然音派で、エッジが雪面を削る音や、遠くできこえる鳥のさえずり、雪庇を撫でる風の息吹や、耳の風を切る音…偶然のさまざまなミックス=サウンドを楽しみながら滑るのがすきなんです。でも、まえに一度、上越のゲレンデで滑っているとき、やたらチャラチャラと聞こえてくる増幅音が不愉快でしかたなかったので、同行の友人からヘッドホンを借り、ゴーグルで耳の上からガチガチに締め上げて、完全無音で滑ろうとしたことがあったんです。そしたら、そのヘッドホン、プレーヤー内蔵のハイスペックもので、頭につけた瞬間から、結果的に、友人が日ごろ好んで流しているBGMで滑ることになってしまったんです。これが、意に反して、なんとも、気に入ってしまって、それ以降、BGM派に転向してしまいましたの。

 なぜかといいますと、そのとき、静かで、囁くような、どちらかといえば消え入りそうな女性の声が、死や悲恋や孤独や、生の不条理や、ひとの暗い部分をしきりに増幅して、切々と訴えかけてきたのです。歌い手自身の雰囲気としては、簡素で素朴なフォーク調の弾き語りなのですが、実は、バックには、フルート、バイオリン、チェロ、ピアノ、アコースティックギター、さまざまな楽器音の巧みな重なりあいがリリックに演出されていて、マイナス思考のメッセージを、多彩な楽譜に奏でだそうとする抒情の世界と、そこへは決して浮き上がろうとしない深層の心の動きが、妙につりあっていて、パラレルにシンクロしていて、とても研究された音楽空間が広がっていたのです。滑走後、貸してくれた友人に、だれのうたなのかときくと、森田童子の市販のアルバムから自分が編集したカスタム版なのよ、て、教えてくれました。

 あんなウタのどこがいいんだ、なんてカオしてらっしるかた、けっこういらっしゃるようですけれど、あの感じ、とてもいいんですよ、わたしには。一度試してみられたらお分かりになるとおもいますけれど、とくに滑っているときにあれをかけると、きっと、ヤミツキになってしまうのではないかしら。

 というのも、雪上を滑るって、はっきりいって、奈落の底におちていくようなものでしょう? 急斜面で直下りすれば、一発でわかりますよね、そのまま突っ込めば、あっという間にバラバラになって、運が良くても悪くても、確実に自壊してしまいますよね。でも、実際は、そうはならない。何故でしょうか? それは、大げさに聞こえるかもしれませんけれど、死にむかう宿命や危険と懸命にたたかっているから、なんじゃないでしょうか。反射神経を極限まで研ぎ澄まして、刻々と変化していく雪面の状態を察知し、巧みにエッジを切り分け、限界速度をマネイジしながら、シビアな生死の境をシャープなスピードで滑りぬけているわけです。物好きもいいところですけれどね、みなさんだって。

 その日も、ヴァレ=ブランシュの取っ付き台でヘッドフォンをつけ、童子のカスタム版をセットしました。滑るときはいつも、春の木漏れ日のなかで、から始まるのです。たとえ、真冬の吹雪く五竜でも、アルプスのピーカンの空の下でも、なぜかナレーションは、春の木漏れ日の三拍子からスタートするんです。それがいいんです。過ぎさりし時へのノスタルジーと、なしえなかったことへの後悔、ひとり残された悲しみと孤独、そのまま奈落の底におちていきたい甘美な誘惑、そして、いなくなったキミへの限りない思慕と同じ分だけ深い自虐への沈黙…これがいいんですの、これが。自虐への沈黙と奈落への甘美な誘惑、取っ付きから落ちるときのこのナレが、実際の厭世的でリリックな、自滅的でヒロイックな高速滑降へと、自然に導いてくれるのです。

 氷河は超アイスバーンでした。バーンの深いところは知りません。でも、少なくとも表面は、レインクラストでした。常識では、外側はカリカリ、中はフワフワのはずなんですけれど、昨夜の大雨のせいか、中はもうカリカリ、外はカキリ、カキリ、とでもいうのかしら、形容できないくらい堅くて、氷の棘山をヤスリで削っていくような気分でしたわ。

 転倒したらウエアがボロキレになってしまう恐怖のなかで、容赦なく、滑降がはじまります。ナレは、春の木漏れ日からチャーリーパーカーへの思いをあとに、蒼き夜にさまよってキミと落ちてしまおうかと囁き、日本一切ない麗子像でどこまで落ちていくのだろうとおもったら、いきなり観光バスにのってみませんかと救いの手を差しのべ、そして、玉川上水のまぶしい夏にカットバック、やがてG線上でひとり6月の飛行機雲の下で死への誘惑を賞味したあと、季節の終わりのセミが鳴き、キミはカタミを残して逝ってしまう。でも、またたゆまず、蒸留反応で雪を降らせたナレは、しばらく、思いきり切なくて軽やかな麗子像の三拍子にのって雄弁に、不条理と孤独と哀切や悔いを語りつづけます。そして、やがて輝かしかった青春の黄昏を悼むように、ナレはラストワルツを奏で、アン、ドゥー、トゥロワ、アン、ドゥー、トゥロワ、アン、ドゥー、トゥロワ…と、とおく、しずかに、フェイドアウトしていく……普通なら、これで終わってしまうはずなのですが、友人のカスタマイズ版はそうではありませんでした。アン、ドゥー、トゥロワの直後、蒸留反応の最終楽章で急激なブレーキがかかるのです。ギューンという鋭い金属的で多重の不協和音といっしょに全音が急停止し、聴き手は慣性反動で音なし空間に完全に放り出されるのです。この抒情に浸りきったひとを無慈悲に見放し放り出すところで、カスタム版は終わるのですが、もちろん、リピートにセットしてありますので、すぐまた、適度な無音の間合いを経て、春の木漏れ日のなかに戻っていくのです。  

 みなさんご存じのように、ミディからシャモニックス・モン・ブランへの下り経路は、ヴァレ=ブランシュの西側斜面がベースになっていて、滑降中、どうしても、谷足の右足一本で全荷重を支えてしまう斜滑降の頻度が多くなりますので、とても疲れます。なので、右足の大腿筋がパンパンになって、もうどうにもこうにもならないな、とおもったら、ギュンとピンカーブターンを入れて山足に体重移動し、谷、山、谷、山と高速ターンしてからもとの右足荷重の斜滑降に戻ります。こうすることで、片足にかたよったストレスを両足に均等分散させることができるし、単調な滑りに変化が出て、これぞ滑る醍醐味、と、かえって、気分も昂ってきますのよ。

 あの日も、きままなスピードで、けっこう複雑なスラロームを楽しんでいたのですが、何度目かのピンカーブターンのあと谷、山、谷、山と数回高速回転しようとしたとき、いきなり目前に、クレバス・危険!の標識が現れたんです。しかもそのとき、絶妙のタイミングで、ギューンと鋭い金属的が内耳に響いたかと思うと、多重の不協和音といっしょに全音が急停止し、もろに慣性反動をくらったわたしは、そのまま音なし空間に完全に放り出されてしまったのです。キーンとつまりきった絶対無音のなかで、わたしは、おもわずエッジを立て、カッカッカッと氷面を削って急停止しようとしました。でも、止まってくれません! クレバス・危険!の標識が目の前を通り過ぎて、どんどん遠ざかっていきます。ヤダッ!こんなところで死んでたまるか!わたしは、反射的に両手でストック二本にぎりしめるや、大上段から氷面に突きたて、エッジとストックのたすけをかりて氷層をガリガリ削りながら、やっとのおもいで滑落を制止することができたのでした。 

 正真正銘の命拾いでしたわ、本当に怖かった。

 見ると、優に十数メートルはある一本の深い亀裂が、人ひとり簡単に転がり込めるほどの巾で、二、三十メートルにわたって氷面を引き裂いていました。その深みからは、凍てついたダークブルーの恐怖心が、開かれた白日のスカイブルーに向かって、徐々に白濁しながら、シャープな亀裂面をジワジワとせり上があがってきます。自分は、いま、生と死の間でぶら下がっているんだ!…心臓がドッキンと音をたて、胸やお腹全体が、一度にドーンと、奈落の底に落ちていくのを感じました。

 あれは、いま思い出しても、とても不思議な体験でしたの。どうしてかっていいますと、ヴァレ=ブランシュにあんな大きなクレバスが出現するなんて、考えてもみませんでしたから。だって、そうでしょう、あんな、一度に何人もの人をゴソッとのみ込んでしまうような大きなクレバスがあるようなところなら、駅や宿泊所や入山管理所や、そこここで、それなりの注意の喚起がなされていたはずなのに、そんなの、どこにもありませんでしたし、事前に調べたどんなガイドブックにも、そんな注意書きや記述は、どこにもありませんでしたからね。一般的に、危険度の低い滑降コースとしてよく知られた山岳観光のメッカで、死を賭して挑戦をこころみるような難所ではなかったはずなんですよ、あそこは。

 ただ、その後、わたし、何年にもわたって、実は頻繁に、ヴァレ=ブランシュを滑降する機会にめぐまれたんですが、幸か不幸か、もう一度、同じような危険な事態に、遭遇することがありました。それが、いま、みなさんにお話しようとしている出来事なんです。幸か不幸か、て、いいましたけれど、実際、あのとき知り合った相手の男性にとっては、とても不幸でアンラッキーな出来事だったんでしょうね。でも、当のわたしにとっては、この上もなく好都合でハッピーな、千載一遇のチャンスにめぐり合わせた、といってもいいすぎにはならないんじゃないかしら。

 あのひと、フランス人の男性、というより、バスクのオトコ、といった方が、ピンとくるかもしれませんわ。

 身の丈はそれほどではなかったけれど、みるからに屈強な体躯で、胸板は厚く、ウェアからのび出た手首や拳は、骨格標本の肢体を連想させるほど立派で逞しく、どちらかといえば、アジアの華奢な体形を見なれたわたしなどには、目を見張るような頑丈なアスリート、って感じがしたのでしたが、ロビーを行き来する現地の行楽客やスタッフの眼には、どちらかといえばずんぐりむっくりの冴えないタイプだったのでしょうか、これといってとりたてて人目を惹きつける特徴ある存在ではなかったのかもしれませんわ。粗忽な風体ではなく、むしろ尋常な気配りを身につけた教養人らしい物腰には好感すらもてたけれど、通りすがりにかれのことを振り返ってみるひとはだれもいなかったし、とくに接客担当の女たちはまるっきり無関心で、かわいそうなくらい素っ気ない扱いをうけていました。要するに、そこらにいる、ごくごく普通の白人男で、頭髪の後退でオデコは禿げ上がっているのに、襟のファスナーからは茶髪系のフサフサした体毛がのぞいてみえる、そう、一見して、豊かで充実した壮年期を謳歌している陽気でマッチョな楽天家、て感じのオトコでした。

 その日、わたしは、まさに、そのようなひとを探していたのです。べつに、オトコに餓えていたわけではありませんのよ。当時、わたしは、とても野心的でスリリングな企画を担当させてもらっていて、なんとしてもそれを実現させようと、奮闘努力の毎日で、それこそ充実した日々を送っていたんですの。

 ごめんなさいね、ハナシが前後して。実は、さきほどお話した、あのヴァレ=ブランシの恐怖のクレバスを味わって帰国したわたしは、すぐ、青山にある、小さいながら、山岳関係のプロたちが集まって立ち上げたばかりの、「山岳メディアプロダクション」という小さな事務所に就職することができたんです。

 野心的でスリリングな企画、そう、まさに、むかし、悩みに悩んだ挙句に山に生きようと決めたあのころの夢を、具体的に、着実に、実行にうつすことができる、絶好のチャンスにめぐり合うことができた、ということなんですのよ。

 その小さな事務所というのは、みなさんも覚えてらっしゃるとおもうのですが、ほら、もうかなりまえのことになりますけれど、日本の登山隊がアイガー北壁の登頂に成功した、ていうニュースが、一時、岳界を大きく騒がしたことがありましたでしょう。実は、あの登頂グループの一人と懇意な山岳プロスキーヤーがいて、そのひとが、北壁攻略の快挙にとても触発されたのか、はたまた、とてもビッグなビジネスチャンスになると、野心と商才をはたらかせることになったのか、どちらかよくわかりませんけれど、早々と、山岳映像制作配給事務所をつくってしまったんです。そのニュースを耳にしたわたしは、安曇野の幼なじみの友人、かれも同じプロのスキーヤーのひとりだったんですが、その事務所のこと、紹介してくれない、て頼んだんです。そしたら、いいよ、ということになって、わたしは運よくタイミングよく、その事務所に就職することになったんです。

 で、そこはなにを仕事にしている事務所なの、てことになりますけれど、やっていることは、仕事というよりはむしろ、自分のやりたいことやアイデアをみんなで出し合って、みんなで議論して検討して、そして、みんなが気に入れば全員参加でやっちまおう、ていう、いと民主的なやり方で決める贅沢な遊びみたいなもので、中身といえば、文字通り山岳映像を制作し配給する、という、趣味と実益、野心と目論みを兼ね備えた、いと採算無視の、冒険的な活動にみちていました。実際の業務内容といえば、聞くにせよ見るにせよやるにせよ、ホントに面白くて興味深くて、山に生きると決めたわたしのような人間にはもってこいの、ホクホクと熱くて、気持ちをわくわくさせずにはおかない、アメイジングな仕事でした。

 たとえば、こんな企画もありましたのよ。立山の山開きの当日、剣御前で一人の男性山岳スキーヤーが右足首を複雑骨折したらどうなるか、という想定のもとに、実在の山岳人にきてもらって、前日の室堂ホテル到着から宿泊、翌滑降当日の室堂出発、シール山行、ツボ足登頂、御前谷滑降、そして転倒骨折、もちヤラセですよ、そして救出、ポッカの活躍、救急搬送、大町病院診察、タクシーでの東京帰還と入院手術までの顛末と経費の試算、これらをまとめて実録風に再現した一時間ものの映画を製作する。これなんか、わたしが就職して初めて取り組ませてもらった企画で、いまと違って、室堂ホテルができて間もない頃のことでしたから、おおかたの板にはバインディングの安全装置なんか着いていない時代でしたし、大半のスキーヤーには、いつ骨折してもオレはかまわない、なんていう覚悟はあったのかもしれませんね。みな、山岳事故にありうる最悪の危険や恐怖と闘いながら、登ったり降りたり滑ったり、雪洞を掘ったりしていたのではないでしょうか。オレの両足にはボルトが何本入っているんだ、なんて、いまからおもえば、歴戦の戦士みたいなセリフを吐いては鼻を膨らませていた、銀の額縁に入れて壁にでも飾っておきたくなるような、セピア色のベルエポックだったのかもしれませんわね。

 あの子供っぽくて、岳人だけじゃなくて、どんなひとにだって、まだ気骨みたいなものが備わっていて、美意識や自尊心みたいなものが、まだまだ失われていなかった時代、そんな時の流れには、ある種の匂いと音がついてまわっていて、わたし、あのバスクのオトコにそれを感じとったんです。かれとロビーですれ違ったとき、プーンと伝わってきたどこかキナ臭い匂い、風も吹いていないのにどこかで空を切るサワサワした音……わたし、背筋にゾクゾクって、悪寒がはしるのを感じました。

 あれは、三度目のアルプスでした。一度目はユングフラウヨッホで、山岳鉄道と欧州最高地点の展望台からアイガーを眺望する観光ツアーの取材、二度目はマッターホルンで、スイスのツエルマットからテオドールパスを抜けてイタリアのブレイユ=チェルヴィニアまでいたる山行の取材、そして、この三度目が、なんと、わたしにとっても懐かしのモンブラン、しかも対象地をシャモニックス=モンブランに限定し、遭難者の救出活動の一部始終を、山岳パトロール隊に貼りついて取材するという、むかし夢にみた山岳人生と映像制作をドッキングさせる絶好のチャンスが、めぐってきてくれたんですよ。日本はちょうどバブル全盛期、国内外の金融市場では円が席巻し、有望企業への投資ラッシュが過熱する一方で、企業買収はもうマネーゲームの域、絵画美術骨董品のオークションやその舞台裏では羽毛よりも軽い円札がヒューヒュー飛び交うなか、とうとうロワール河流域のお城まで買い取ってしまう大金持ちもいたりして、黄色いサルはイヤ、働くアリはキライ、エコノミックアニマルは養鶏場から出てこないで、なんて、沸騰する日本経済が世界中で物議を醸していたころのこと。山岳ファーストの岳人好み企画がどれだけ採算無視かにもびっくりするけれど、それにもまして、スポンサーの財布の紐も緩かったんでしょうね、企画選定会議にかけてわずか三日でオーケーのゴーサイン。実際、いくらでも手に入る円をどこに使うか、みんな鵜の目鷹の目で探していたくらいだから、いまからみても、この世の出来事とはおもえないくらいアバウトで野放図なビジネス感覚に、とりつかれていたんですね、世の中全体が。そんな風でしたから、だれも手をつけたことのない山岳遭難事故救出活動のナマの記録だよ、なんて聞けば、ファイナンスする側にとっては新鮮そのもの、興味津々で、怖いもの見たさの心理もおもいきりくすぐってくれる、画期的な掘り出し物にみえたのかもしれませんわね。

 きっかけを作ったのは、かれの方でした。

 現地パトロールとの段取りは十分にできていたので、取材期間として最低の二週間をみていました。信じられないでしょう? いまじゃ、一週間だって、贅沢な!って、ネグられちゃいますものね。最初の一週間は順調でしたのよ。スキーヤーやクライマーには気の毒でしたけれど、ミディ南璧やコスミック岩稜で骨折、滑落、捻挫、高山病などなど、パトロール隊の大小いろんな救助作戦を密着取材し、フィルムにおさめることができました。かれらの組織力と機動力って、それはそれは見事なもので、日本じゃ、とても助からないな、ておもうような被災状況でも、いとも簡単に救助してしまうのです。圧巻だったのは南璧でクライマーが遭難した、というか、ロッククライミングの途中で、登るに登れず降りるに降りられず、体力知力尽きて、進退窮まって、とうとう遭難信号を出した、というときだったんですけれど、救難ヘリが現場上空に飛来したのが信号を受け取ってからわずか十五分後、ただちに隊員二人がロープで降下、岸壁にへばりついた遭難者を命綱で確保し、わずか30分後にはヘリに収容してしまうという手際の良さ。手慣れているというか、実地訓練が行き届いているというか、おかげさまで、そこそこ実のある取材はできましたわ。けれど、救難映像としては、いまいち、物足りなくて、もっと衝撃的でグッとくる画像が欲しいな、と、残りの一週間に賭けていたんですの。でも、一日、二日と、平凡で、赤チンでも振りかけておけばいいくらいの、並みの事故しか発生しない日々がつづきます。ああ、期限はこくこくと迫ってくるのに、あの肝心の、憧れれのヴァレ=ブランシでさえ、まだ一つも事故が発生していない、だれも遭難していない、そんなことって、おかしいじゃないか、異常じゃないか、あそこに一歩も踏み込まないで帰るなんて、わたしにはとてもできない、なんとかしなくちゃ……ホントに焦っていたんですね、わたしって。

 とうとう、これといった映像の収録もできず、あと三日しか残っていないという日の夕刻、わたしは、どうしたものかと、いらいらしながら、ロビーのソファーに頬杖をついて、組んだ脚をブラブラさせながら、座っていました。すると目の前に、ひと一人、のそっと現れた気配がしたので、ふと見あげると、あのバスクのオトコが、そこに立っていたんです。

 「ボ、ボ、ボ、ボンソワール」

 かれは、どもり、でした。いかにも容量のおおきそうな肺から、太い声帯をとおって出てくるバリトンには、よくお寺で耳にする読経みたいな響きがあって、体躯からくる威圧感はやわらげてくれましたけれど、抑揚にどこか歪なところがあって、語学にうといわたしの耳にも、とても流暢とはいえない、もちろん、あとでわかったことですけれど、バスク訛りというか、スペインなまりというか、聞きなれないフランス語にきこえました。そんな感じでかれは、野球のグローブみたいな右手をさしだしてわたしに握手を求め、こんなことをいったんですの。

「きょう、みかけました、ミディ南璧で。アナタ、大活躍でしたね」

 わたしは一瞬、ギクリ、としました。なぜかって、みるからに圧倒的な体格、万力でひと一人身動きできなくさせるほどの腕力、そんなひとに片腕締め上げられたら、だれだって恐ろしくなるとおもいません? しかも、いつのまにか本人がしらないときに、見られていたっていうんですよ。わたし、半身で腕を引き戻しながら、座りなおしてこういいましたの。

「南璧クリアしたのに、こんなロビーなんかで、ケガしたくないわ」

 すると、かれは、

「おっと、これは失礼!」

といって、手をはなしぎわにサッと隣にすわり、

「ワッハッハッ!」

てわらうんです。わたし、ムッとしました。本当は、

「だれも隣に座って、なんていってないわよ!」

て、いいたかったんですけれど、どこか、屈託のない笑いでしたので、あまり素っ気ない態度もナンだとおもって、つい気を許してしまったんでしょうね、そのまま相手のさそいに、乗っかってしまったんです。

「なにか、ご用?」
「いや、べつに用はないんですが、とてもイライラしてるな、って感じだったので、つい」
「あら、見られちゃったのかな」
「そ、そう、見えてましたよ。ミディ南璧では、あんなにすごいパフォーマンスだったのに、なにをそんなに?」
「頑張りすぎたのかも」
「す、すこし、つ、疲れたね」
「そうかもね。で、アナタは?」
「ぼ、ぼくは、疲れてません」
「じゃなくって、どこからいらしたの?」
「バ、バスクです。知ってます、よね、バスクって?」
「ええ、バスクって、日本とは、とても縁の深い国ですのよ」
「へー、どんな縁ですか?」
「むかし日本にキリスト教を伝えたお坊さん、フランシスコ・ザビエルというひと、あのひと、バスクの人でしょう?」
「さ、さすが、アルプスのパトロール女子だな。よく知ってますね、欧州のことを。そうです、当時のバスクは、ポルトガルや周辺諸国と協調関係にあって、ザビエルはイエズス会の僧侶でもあったんですよ」
「で、アナタは?」
「わ、わたしは、僧侶ではありません」
「じゃなくって、お名前は?」
「あっ、わ、わたし、ヒ、ヒ、ヒロシマです」
「ヒロシマ?」
「そ、そうです」
「ヒロシマって、日本の広島のヒロシマ?」
「ち、ちがいます。バスクの、ヒロシマです」
「バスクのヒロシマ? そんなの、ありましたっけ?」
「そ、そんなの、あります。バスクのゲルニカ、知ってるでしょう?」
「はい、でも、あれって、スペインでしょう?」
「おっと、国境は時間軸でかわってくるので、そう簡単にわけられないんですけど」
「じゃあ、地理的には? ちゃんと分かれているじゃない?」
「時間軸、つまり、歴史に頓着しないという前提でいえば、バスクは、ピレネー山脈の両麓に広がる領域、とでもいうか」
「つまり、スペインとフランスにまたがる?」
「あ、あなたには、どうしても、国境にこだわる習性がありますね。バスクは、たしかに、フランスとスペインにまたがっていますけど、グーンとローマ時代にさかのぼってみてくださいよ。ピレネー山脈はあったけど、フランスもスペインもなかったでしょう、あのころは」
「あのころはって、わたし、まだ生まれてなかったから、分からないわ」「ぼ、ぼくだって、生まれてないですよ!」
「それで、ローマ時代がどうしたんでしょう?」
「ローマ時代、ピレネー山麓に分布する漁労山岳のひとたちを、ローマ人が、ヴァスコニア、と呼んでいたんです。ヴァスコニアはバスク人のことで、バスク人が分布する領域をバスクといようになった、というわけなんですよ」
「それが、ゲルニカとヒロシマに、どう関係するんでしょうか?」
「こ、ここで、ちょっと、時間軸がはいってくるんだけど、いい?」
「簡単にね」
「オーケー。ときは中世、サラセンがイベリア半島まで勢力をのばしてきたころのこと、アラブ人やその他の民族との戦いで、ピレネー山麓民族ヴァスコニアに統一意識が高揚しました。バスクはヴァスコニアのもの、バスクを守れ、ヤレーッてことで、ついにバスコニアに公が認める領域が誕生した、というわけなんです。そしてそれが、やがて王国へと発展していくんですよ」
「すごいじゃない!」
「す、すごいでしょう! こ、この統一意識を再び高揚させて、真のバスコニアに回帰しようという意識や活動のシンボルが、ナチの爆撃で壊滅的打撃をうけたゲルニカなんです。そして、おなじように史上空前の戦禍にみまわれた広島と連帯して、連体してですね、世界平和を推進しようと結成されたのが、世界平和推進ゲルニカ・ヒロシマ友の会で、ぼくはその広報担当員、コード名がヒロシマ、というわけなんです」
「ホー、それでヒロシマと名のってるわけね」
「そうです。で、あなたは」
「わたしには、コード名、ありません」
「じゃあ、ハンドルネームは?」
「ありません」
「でも、よかったら、せめて、ニックネームだけでも、教えていただけませんか」
「そうね、じゃあ、わたし、ナガサキ、ともうします」
「ナガサキ!?」

 それ以降、わたしとそのバスク人は、コード名で、ヒロシマとナガサキ、と呼びあう仲になりました。

 はっきりいって、このヒロシマって名のるバスクのオトコ、とっても変なヤツでしたわ。なにがヘンて、一言でいうのは、むつかしいですけれど、とにかく、世界平和推進ケルニカ・ヒロシマ友の会の広報担当員というくらいだから、ボランティア精神にあふれた根っからの平和主義者で、柔和で思慮深くて、控えめで、礼儀やマナーをわきまえた、ちゃんとした市民活動家のひとりかと、ついおもってしまうでしょう? わたしも、最初、そうおもっていましたの。ですから、こちらも意識改革しなくちゃ、とおもって、世界で唯一被爆した国民のひとりとして、広島やゲルニカと、被災体験や反戦意識を共有させていただきますわ、みたいな気持ちで、わざわざ、おなじ被爆地の長崎から、ナガサキってコード名もらって、わたしなりに、誠実に、対応したつもりなんですのよ。でも、あのあと、アペリティフにさそわれて、ロビー裏のカフェテリアでシェリー酒をなめながら、被爆をテーマにした邦画や外国映画をいくつかとりあげて、ピントのはずれたコメントまじりの、とりとめもないおしゃべりを始めたんですけれど、シェリーの酸味や温もりが、頬や指先に、ほんのりつたわってきたなって感じたころ、急にヒロシマが、こんなことをいいだしたんです。

「ず、ずいぶんムカシのことになりますが、ア、ア、ア、アナタの国のレ、レッド・アーミーが、パリ発トウキョウ行きのジャルをハイジャックした事件があったの、覚えてますか?」
「なんなの、急に、ハイジャックのハナシなんか」
「知ってますか?」
「レッド・アーミーって、アルメ・ルージュ、赤軍のこと?」
「そ、そうです、し、知ってるでしょう?」
「エエ、知ってることは知ってますけど、わたし、まだ生まれていなかったわ」
「ぼ、ぼくは、パリで、学生やってました」
「パリって、あの五月の?」
「あ、あれは、その十年前の出来事です。ダッカのハイジャック事件は、ずっとあとの、七十七年です」
「あ、そうでしたね」
「そ、そうです。あのころ、パリ=トウキョウ間には北と南回りがあって、南回りは、アジアの五つか六つの空港を経由してたんですよ。で、あの事件では、インドのムンバイを離陸したところでハイジャックされたんです……」

 みなさんも、多分、よく、ご存じの事件だとおもうんですけれど、わたしの場合は、両親がその話をしてくれたとき、まだ小学校の低学年でしたので、一つ間違えば大惨事、なんて意識はまるでなかったし、かえって、ハイジャックっていう言葉の響きがとても気に入っていて、ピストルの弾や手榴弾がピュンピュン飛びかう、超おもしろアニメ、みたいな感覚で、ウキウキ、ワクワクしながら、聞き入っていたものでしたわ。でも、このヒロシマの場合、学生やってた、ていうくらいですから、ちょうど犯人たちと同じ世代でしょう、アニメどころか、リアルタイムで進行する、現実の、スリル満点の、場合によっては、自分の生き方を根底から変えてしまうような、生々しくも衝撃的な事件だったのかもしれませんわね。実際、バスクのヒロシマは、ダッカのジア国際空港での人質解放交渉の段になると、異様すぎるくらい詳しくて、事件発生から終結するまでの年月日や身代金の金額、ハイジャッカーの名前まで、空でいっちゃうくらい、ちゃんと覚えてたんですよ

「どうしてそんなにくわしいの?」
「わ、忘れるわけ、な、ないんですよ」

 一瞬、わたし、からかわれているのかも、とおもいましたわ。だって、反戦市民活動家と日本赤軍のハイジャッカーと、どこでどうつながるのか、しかも自分から、忘れられないほどリンクしてる、ていうくらいだから、まったく想像もできないことだったんです、わたしには。多分、わたし、きょとんとしていたんでしょうね、そのとき。ヒロシマは、あわてて座りなおすと、万力みたいな手でわたしの肩をつかんで、こういったんです、

「きいてください、説明しますから」

 そこで、みなさんに、ちょっとお伺いしますけど、このヒロシマとダッカ・ハイジャック事件のハナシのつづき、聞いてみたいとおもわれますすでしょうか? もし、聞きたくないって方がいらっしゃらなければ、このまま、つづけたいとおもうんですけれど…… いらっしゃらないみたいですね。よかった、ありがとうございます。これを話しておかないと、わたしの懺悔話も、最後までいきつかない、てことになっちゃうかもしれませんのでね。では、聞いてみてもいいよ、と、みなさん、おもってらっしゃると判断して、かいつまんで、要約してみますね。

 さて、このバスクのヒロシマは、二年まえから、パリに建築の勉強で来ていた学生、だったらしいんですの。そのころ、ちょうどポルトガルに政変がおこって、実権をにぎった国軍の指導のもと、国をあげて近代化への一歩を踏み出そうとしていた、という時期で、ヒロシマは、都市建築の歴史をたどりがてら、変革期のポルトガルの空気をおもいきり吸ってみようとおもって、商業都市で名高いオポルトへの研修旅行を計画し、七十七年十月五日、ポルトガルエアでオポルトに飛ぶため、パリのオルリー空港で出国手続をすませ、イミグレの待合室で待機していた、というのが、こハナシのはじまりなんです。

 しばらくして、館内放送から、搭乗機に技術的問題が発生したのでオポルト行はおくれます、とのアナウンスがながれてきました。当時はよくあることで、とくに南欧や北アフリカ方面に飛ぶ便では、しょっちゅうだったらしいんですの。で、ヒロシマは、べつにイラつくわけでもなく、愛読書のヘンリー・ライフロクトの手記、なんかとりだして、のんびり読書しながらまっていたそうです。そうしたところ、しばらくして、あまり聞きなれない案内がくりかえしアナウンスされていることに気づきました。なにかな、とおもって耳をかたむけると、アルジェ空港が閉鎖になった、アルジェ往復全便中止、とのアナウンスだったというんです。閉鎖? あまりないことだな、とおもって搭乗口の柱にかかった時刻表をみると、アルジェ関係には全部中止の表示がでていました。ヘェー、と半分、びっくりしながら、肝心のオポルト便はどうだろう、と目をやると、いつのまにか五時間遅れになっていました。ギャハー、とおもって立ち上がったちょうどそのとき、二人のアジア人が、大きな声で、アルジェ、タマンラセット、チュニス、アンナバ、オランなどと口にしながら、足早にオポルト行の待合室に入ってきて、ヒロシマの隣の席に座ったんですって。身振りや手振り、喋り方、それに服装なんかから、きっと日本人だとおもったヒロシマは、アルジェ空港閉鎖のことでなにか知ってるんじゃないかとおもい、若い方の男性に声をかけましたの。天然ガスや石油関係の資源が豊富な国でしょう。だから、日本企業がたくさん進出してるって、ヒロシマはよく知ってたんですね。それに、相手が同世代のひとという親近感もあって、バリアーをはる必要がなかったんでしょう。案の定、若い男性は、訛りのない、きれいなフランス語で、とっても気さくに、自分たちがアルジェリアの炭化水素公団と技術援助契約をしている日本企業の技師であることを紹介してから、茶目っ気まじりにこういったんですって。

「アルジェ空港が閉鎖ですよ! どうしてくれるんです! ぼくたち、もう帰れないかもしれませんよ!」

 ヒロシマもそれに対応しました。

「閉鎖! どうして? やっぱり、ヒツジに占拠されたんだ」
「イヤイヤ、いくらなんでも、そこまで天然じゃないですよ。ご存知かとおもいますけど、先月の二十八日にジャルがハイジャックされたんですが、その犯人が、投降したらしいんですよ」
「投降!?」
「そうです、アルジェ空港に、です」
「そうですか。で、人質は?」
「のこり全員、空港で解放されたそうです」
「それはよかった! それで、あなたたちも、解放されたと」
「じゃないです。ぼくたちはちょうど三時間まえに、アルジェ空港を発ったんです。どうもその直後のことだったようですね、アルジェリア政府が投降受け入れに合意したのは。あぶないトコでしたよ。一時間、いや、三十分でも遅かったら、ぼくたち、アルジェを出られなかったかもしれませんからね」
「出る? すると、トランジットで日本へ?」
「いえ、オポルトに出張なんです。工場検収の仕事で」
「オポルトに工場検収?」
「ええ、正確には、オポルト近郊のオリベイラとう街です。ドウロ河ぞいにプラスチック成型の金型工場があるんですよ」
「そうですか、ポルトガルには徒弟制度の伝統が、まだ根強くのこっていますからね」
「そうです。日本と似たところがあって、手のひらでミクロン単位の研磨ができるそうですよ」
「すごいですね」
「楽しみにしてます」
「でも、オポルト行き、すごく遅れてるみたいですよ」
「え、どれくらいですか?」
「いま現在で、六時間ほど、ですね」
「ゲーッ!」

 当時のルールでは、遅延時間が六時間をこえると食事をだす、ということになっていたそうなんですが、やはりルールどおり、お昼ちかくになって、乗客全員にランチサービスがでることになりました。係員の案内で、イミグレ手前にあるレストランまでもどり、食券もらって三々五々、食卓を好きに選んで食べることになったんですが、見ると、奥の方で、先ほどの若い方の技師が、こっち、こっち、と手招きしているのが目にはいりました。年配の技師も、どーぞ、どーぞ、と手をさしだして誘ってくれています。ヒロシマは、赤軍のハイジャック事件について、もうすこし知りたいとおもっていたので、よろこんで日本人技師二人との同席を選び、さっそく若もの技師にたずねました。

「さっきのハイジャックの件ですけど」
「知りたいでしょう、めったにない事件ですからね」
「まさに。それにぼくらには、ラジオで聞くくらいのことしか、わかりませんし。みなさんは、どこから情報をえてるんですか?」
「空港の閉鎖は、さっき、エアフラの職員からききました。ハイジャックの件は、もちろん、本社から直接です」
「電話で、ですか?」
「ええ、国際電話と、それに詳細については、テレックスですね」
「犯人はダレなんです? ラジオでは反体制組織とかって、報道してましたけど」
「日本赤軍です。反体制のなかでも、跳ね上がりの武闘派組織です」
「アルメ・ルージュ・ジャポネーズ!やっぱり、あのテルアビブの」
「そうです。よくご存じですね」
「もちろんです。コーゾー・オカモト、有名ですよ、カレは!」

 そのとき年配の技師が、二人の会話に、こう割って入ってきたらしいんです。

「あまり、アリガタクは、ありませんな、赤軍とかいう連中は」

 ヒロシマは、その言葉に、つよい違和感をおぼえたといってましたわ。なんていうか、とても感情的なリアクションだとおもうんですけれど、人の会話に割って入るやり方とか、おおげさにいえば、年配者のもつ頑強で許容しがたい威圧感とか、白髪頭とか、とにかく、気にくわなくて、まだ青二才だったんでしょうね、ヒロシマは、ムッとして、でも、それを年配技師にぶつけるわけにもいかず、若い技師に向かって、こういってしまったそうなんです。

「しかし、パレスチナでは、コーゾー・オカモトは、ヒーローなんですよ!」

 ね、おわかりでしょ、ヒロシマって、ヘンなヤツなんですよ。たしかに、あのころって、わたしの両親みてても、わかるんですけれど、造反有理っていう、わけの分からない言葉が、まだまだ生き延びていたらしくて、日本や、とくに欧州西側の若い世代にも、永久革命とかという、知識人好みのイデオロギーみたいなものと一緒に、個人的なひとの心理や感情に取り入って、とても新しくてよりよい生き方なんだよ、ってアッピールするための、便利で有効な印象ツールとして、精彩を放っていたらしいんですの。いってみれば、ものの見方や考え方、それに生き方さえも、いまとちがって、単純にパターン化されていたんでしょうね。ですから、ヒロシマにしたって、条件反射的に、反応してしまったんでしょう。年配技師の、何気なくいった言葉のなかに、保守反動のニオイを、かぎとってしまったんでしょうね。このことは、ヒロシマも、反省したといってましたわ、ワルイことしちゃったな、って。あとで思い出して、相当バツのわるいおもいをしたんでしょう。でも、若い技師の方は、そんな空気にはぜんぜん頓着しないで、ハイジャックの経路や犯人の策略、バングラディシュ政府軍の対応やクーデタの顛末、日本政府の思惑や作戦、それに人質の人数と身代金、寄港地ごとに開放された人数などなど、一気に説明してくれたそうなんです。ヒロシマは、まるで世紀の大事件に立ちあってるみたいに、一言一句、書き漏らさないようノートしていったんですが、一段落すると、若い技師がこういったんですって。

「正直いって、憂うべきは、犯人のなかに、ぼくの高校時代の後輩がひとり、いたことです」

 聞いてみると、その後輩のひとって、ヒロシマより十歳わかいので、同じ時期に在学はしていなかったんですって。でも、自分が高校にかよっていた時代、つまり十年前に、となりの府立校にいた剣道部の生徒が、ちょうど五年前の七十二年に赤軍がおこした浅間山荘事件の犯人のひとりだった、というんです。

「自分の身近にいる人間が、十年越しに、二人も、いわゆる武闘に身を投じるということは、時代の流れそのものが、そういう思想的空間に、支配されていたんでしょうね。ぼく自身も、当時、なんの疑問ももたなかったんですよ、そんな環境に。それが憂うべきこだと、おもうんですよ」
「つまり、左翼思想、のことですか?」
「思想のハナシではなくて、いまそこにある事実、です。ぼくは毎日、それを目撃しています。百五十万人もの犠牲を払って獲得したアルジェリアの独立戦争の現状、これが証拠です。食べ物がない、塩も砂糖も野菜もない、家族全員が寝る住宅もない、順番にねるもんだから、起きてる連中は真夜中に外でさわぐ、仕事もなければ遊び場もない、だから犯罪も増える、それも多すぎて警察も手が出ない、なにもない、欲求不満でひとびとは、まるでこれから、果し合いにでもでかけるみたいな目つきで、街中をあるきまわる、こんなみじめで、悲惨な人々の上に、億万長者があぐらをかいている現実、これが革命の結論だとしたら…」

 ヒロシマは、すこし腑に落ちないな、って気がしましたけれど、個人のデリケートな思想体験をいくら詳しく聞いても、第三者が腑に落ちることはないだろうとおもって、たまたまアルジェ空港が閉鎖になったことや、自分のオポルト行が大遅延したこと、そこに日本人技師がやってきたこと、かれらが自分と同じ目的地を持ち、アルジェに在住し、ハイジャックの経緯を詳しく教えてくれたこと、しかも、その日本人のひとりが、ハイジャック犯人と同じ高校の出身者だったこと、などなど、ここまで偶然が重なるのは並大抵のことじゃないな、これは何かの掲示じゃないか、詳細はしっかりとノートした、だから、大切に、脳みそのヒダに織りこんでおこう、きっといつか、役に立ってくれるだろう、と自分にいいきかせて、喉から出そうになっていた聞きたいことをひっこめて、若い技師との対話をおわらせようとおもったそうですの。

ヒロシマがそのとき、なにを聞きたかったのか、ハナシがおもしろくなってきたので、わたしも知りたかったんですのよ。でもそのとき、いきなりヒロシマが、いっしょにディナーでもいかがですか、って誘ってくれたんです。 

 おもいもつかないことだったので、ついわたし、のっかっちゃおうかな、とおもったんですけれど、いつのまにかシェリー酒を三グラスも空けちゃっていて、体中がほてって、ふんわかといい気持がして、でも実は、思いきり、お腹がへっていることに、気がついたんです。なので、誘ってくれたヒロシマにはわるかったけれど、これからあすの打合せがあるってウソついて、部屋にもどりましたの。打ち合わせはとっくにおわっていたんですよ。

 取材班のメンバーって、みなエゴイストで個人主義者で、仕事のあと、いっしょに食事をするという習慣も、気持ちも、なにももたないひとたちでしたから、逆に、とっても気が楽で、わたしも、ミーティングがおわって一日がはねると、好き勝手なこと、してましたのよ。

 その日も、TV5にかじりついて、バゲットにチーズと納豆をはさんでかぶりついて、デザートにカップラーメンとイタチョコをいただきましたわ。これって、最高のくみあわせなんですのよ、みなさんも、経験、おありでしょ? ひとり、さみしく、モンモンと、自薦のグルメを賞味する……ひとって、それぞれに、マイTVディナーみたいなのがあって、今日の終わりが明日の始まりにつながるように、自虐的に心理調節するための、独自のカウンセリングツールとして開発し、活用しているんですよね。

 おかげさまで翌朝は、すっきりと目が覚めましたわ。そして、新鮮なアタマにいきなり浮かんできたことは、あのヴァレ=ブランシユの白い氷だったんです。わたし、おもわず、いけない!て叫んでしまいましたわ。だって今回、あのミディ針峰下の取っ付きにさえ、まだ一歩も足を踏み入れていなかったんですもの。これではいけない、このままでは帰れない、っておもいました。さっそく朝のミーティングで、ヴァレ=ブランシユの取材にも即応できるようチームの分散を提案し、山岳パトロール隊との連絡をより緊密・機敏にとりあうことで、機動力ある救難救助と報道活動をよりスムースに実施することに眼目をおいた、全方位的な出動態勢をイメージして、それをみんなでしっかりと共有するや一致団結! オーッと、胸ふくらませて、残り二日のミッションに、出発しましたの。

 ホテルをとびだす間際、ロビーの方から、ナガサキ!って、わたしを呼ぶ声が聞こえてきましたが、この新鮮で高揚した気分を、あのバスクのヒロシマに乱されたくない、という思いがつよくて、完璧に無視してやりましたのよ。おわかりでしょう? ヒロシマのいうことって、ひとを楽しませるとか、みなを笑わせるとか、気もちを解き放って気分を軽くしてくれるとか、そんな気の利いたモノじゃなくて、逆に、どこか見えないところから、透明の分厚いバリアーみたいなものが、ちょっとずつ、ちょっとずつ、こちらに迫ってきて、気がついたら、いつのまにか身動きできないところまで囲まれてしまっていた、みたいな、威圧的で、ひとを息苦しくさせないではおかない、どこか重い雰囲気がただよっていた、という風に感じていたからなんですのよ。

 ホテルを出てからロープウェイの駅までは晴天でしたけれど、ゴンドラで登り始めるころからだんだんガスりだして、ミディ針峰の麓に到着したときには、ホワイトアウトまではいかなくても、視界十数メートルの悪条件、事前に現地パトロール隊の高層天気図を検討していなければ、滑降はほぼムリだろうとおもって、あきらめていたかもしれませんわ。

 あらかじめ下れば視界は改善するとわかっていたので、取っ付きからしばらく下方をたしかめてみると、厚薄くりかえすガス層のすきまから、ときおり白氷に覆われた氷河の一部がのぞいてみえるんです。これを下からみると、氷雲の裂け目からミディ針峰の尖がりあたりが、チラッとみえるんだろうな、なんて想像しながら、ザックからとりだしたヘッドホンを両耳にかぶせ、ゴーグルでしっかりと締めつけてから、BGMをオンにしました。

 視界十数メートルの恐怖のなかで、容赦なく、滑降がはじまりました。滑りだしは、やっぱり、春の木漏れ日の中で、からでした。忘れていたわけではないのに、ここ二週間近く、雪上で、すっかり疎遠になっていただけに、ナレはすぐさま体中にしみとおり、いつものようにわたしは、潤う抒情と心地よい重力とともに、とっぷりと音響空間に身を任せていったんです……春の木漏れ日からチャーリーパーカーへの思いをあとに、蒼き夜にさまよってキミと落ちてしまおうかと囁き、切ない麗子像の旋律にのって、どこまでも、どこまでも、すきなだけ落ちていくけれど、とたんに観光バスにのってみませんかと誘われて、玉川上水のまぶしい夏に逆もどり、やがてG線上でひとりぼっち、6月の飛行機雲の下で死への誘惑を賞味したあと、季節の終わりを惜しむセミの鳴き声とともに、キミはカタミを残して逝ってしまう、でもすぐに、蒸留反応で雪を降らせたナレは、思いきり切なくて軽やかな麗子像の三拍子にのって雄弁に、不条理と孤独と哀切や悔いを語りつづけ、やがて輝かしかった青春の黄昏を悼むように、ラストワルツを奏で、アン、ドゥー、トゥロワ、アン、ドゥー、トゥロワ、アン、ドゥー、トゥロワ……と、かすんだガスの間から、だんだん見え始めた白い氷の谷に向かって、とおく、しずかに、フェイドアウトしていこうとしたその瞬間、ギューンと、いきなり鋭い多重の金属的な不協和音が全身を震わせたかとおもうと、全音が急停止し、わたしは、そのまま、音響空間から音なし空間へ完全に放り出されてしまいましたの。 

 ちょうどそのときでした。不思議なことに、さっきおはなしした、あの、クレバス・危険!の標識が、目のまえに現れたんです。何年もまえに、シャモニックス国立スキー山岳学校への留学をあきらめ、がっかりして、でも居直って、体当たりでヴァレ=ブランシを滑ったあのときの安全標識が、そのまんまの姿で、白い氷の上に、凛として立ちはだかっていたんです。おもわずわたしは、あのときと同じように、反射的に両手でストック二本にぎりしめて氷面に突きたて、エッジとストックのたすけをかりて氷層をガリガリ削りながら、やっとのおもいで滑落を制止することができたのです。

 みると、やっぱり、あのときのクレバスが、白い氷をするどく引き裂いて、ぱっくりと口を開けているではありませんか。あと数十センチ、もしちょっとでもブレーキがおそかったら、青ずんだ喉の奥深くまで、まるごとのみ込まれていたかもしれません。わたしは、恐ろしさのあまり、無我夢中で斜面を這いあがると、ウェストバッグのトランシーバーをとりだし、山岳パトロール隊長のミッシェルに連絡しました。

「緊急連絡! ユルジャン! こちらエキップ・ジャポン! どうぞ」
「こちらミッシェル、山岳パトロール隊長、どうぞ」
「コマンダン・ミッシェル、確認したいことがあるの!」
「なんだ?」
「たったいま、ヴァレ=ブランシの巨人の氷河からタキュルに入るところで、いきなりクレバスにでくわしたのよ。けっこう大きくて深そうな裂け目よ。ちゃんと回避標識も立ってるわ。これって、みなに認知されてるのかしら? どうぞ」
「回避標識だって? なんの回避だ? どうぞ」
「クレバスよ、クレバス・危険、て標識よ、どうぞ」
「そんな標識、見たことないなぁ、いや、聞いたこともないぞ。ケガ人はいるのか? どうぞ」
「わたし一人で、まわりに、だれもいないから、ケガ人はいなそうよ。どうぞ」
「なら、あとにしてくれないか。こっちは、また南璧の滑落事故者で手が一杯だ、どうぞ」
「忙しいのはわかるけど、パトロールが知らない、見たこともない危険回避標識って、一体なんなの? シャモニックス=モン=ブランで遭難回避活動してる団体って、あなたがた以外にあるの?どうぞ」
「有志団体があるとはきいていないから、われわれだけだよ」
「じゃ、だれがこれを立てたのよ」
「知らないな。だいたい、タキュルの裾にクレバスなんて、聞いたこともないぞ。とにかく、緊急事態でもないと判断するから、あとで調べてみる。それより、そのクレバス、もう一度、のぞいてみたらどうだ、夢でもみてるんじゃないのか、しっかりしてくれよーッ。どうぞ」
「こ、これがユメなら、あなたはナニよ! まるでエンマさまじゃない!」「エンマさま? なんだ、それは? どうぞー!」

 なんて失礼で勝手なヤツだ、とおもったときに、むかし祖母がよく話してくれた、お寺の地獄絵図のことを急におもいだして、ついエンマさまって、口にしてしまったんですけれど、コマンダン・ミッシェルって、デッカい金髪の白人男で、寒い国で育ったひとらしく、頑丈な首のあたりから覗いて見える白い肌は、いつもピンク色に染まっていましたわ。でも頬は、寒冷地のせいでしょうね、ピンクを通りこしていつもまっ赤に火照ったようになっていて、そんな丸顔の真ん中に、ラージヒルのジャンプ台みたいな鼻が反りかえっていましたの。目は、とてもかわいらしいアーモンドみたいで、それもブルーのきれいな透きとおった瞳が二つ、いつもパチクリとこちらを見ているわけですから、なんていうのかしら、縮れ毛の金髪の頭にツノでも生やせば、そのまんま異国の冥途のエンマさま、って感じだったんですのよ。そんなこと、本人に、いえませんでしょう。ですから、わたし、応答なしで、トランシーバーのスイッチをきってやりました。そしてすぐ、証拠現場の撮影をしてもらおうと、カメラと交信しようとしたのですが、考えなおしましたの。なぜって、コマンダンが遭難救助で塞がっているときに、カメラが別行動するわけにいかないでしょう。じゃあどうしよう。どうやれば、このクレバスの存在を、みなに証明できるのか? 

 そのとき、ふと、おもいだしたんです、たしかザックのポケットに、スイスアーミーのナイフがしまってあったことを。標識の一部を削ってもってかえって、みなにそれをみせれば、確かな証拠になるんじゃないか。自信をえたわたしは、匍匐前進で斜面をはいあがり、標識にたどりつくや、すぐさま支柱にくらいついて、軍用ナイフで削りはじめました。刃は鋭く、サクサクと気もちよく削れていきます。そして、切りくずがそろそろ手のひら一杯分くらいになったとき、はて、とおもったんです。こんな切りくずが証拠になるのかしら、って。なんだ、麓で拾った丸太の削りかすじゃないか、なんていわれたら、なんの反論もできないでしょう? 半分自信を失いかけたんですけれど、クレバス・危険と書いた文字を削ればいいじゃないの、塗料のまじったくずならだれも疑わないにちがいないわ、と自分にいいきかせたんです。で、即決してわたし、せっせと文字を削りはじめました。そして、黒っぽい削りくずが、そろそろ手のひら一杯分くらいになろうとしたころ、ナイフを握る手がひとりでに止まったんです。ひとりでに、です。いや、意に反して、といった方がいいのかもしれませんわ。どうしてかって? そうなんです、そのとき脳裏をかすめた一つのアイデアが、とても突飛で、恐くて、刺激的だったものですから、身がすくんでしまたんですね。まるで、魔界から伸びてきた薄気味悪い両手で、総身をユラリと、まるごと絡めとられたみたいに。背筋がぞくぞくして、冷や汗がでて、どこか暗いところに、引きずり込まれていくみたいで、ホントに恐ろしい体験でしたわ。

 でも、そのままじっと我慢していたら、すこし楽になって、背中も温まってきて、すると、さっきまで恐ろしかったアイデアが、だんだん、理に適った名案というか妙案におもえてきたんです。そして、軍用ナイフをポケットにしまったときには、ほとんど確信にちかいといってもいいほど、やらなければいけないミッションの一つ、になっていましたの。わたしは、満身の力をこめて危険標識を引っこ抜くと、クレバスへの傾斜軸にそってそれをひと蹴り、標識は、ズルズルと、鈍い音をたてながら、氷面を鋭く切り裂さいた魔界の淵へと、落ちていったんです。さあ、これで、だれも、ここにクレバスがあるなんて、おもわない、だれも、ここが、危険なところだなんて、おもわない……すっかり自信をとりもどしたわたしは、ストック一本を自分のためだけの目印として氷面に突きたて、この、にわか生まれのミッション・インポッシブルの、超ドラマティックな成果に胸ふくらませながら、ヴァレ=ブランシを一気に滑りおりていったんです。 

「残るはあと一日です、明日は勝負の一日になるはずです、最高にアメイジングな現場が撮れるように、頑張りたいとおもいまーす!」

 その日のミーティングで、未熟な経験しかもたない新米のわたしが、なんて生意気な檄を飛ばしてたんでしょうね。いま思い出しても、恥ずかしくて、冷や汗がでてきますわ。けれど、そのときは、自分こそ明日のヒロインだって、信じて疑いませんでしたのよ。ですから、最終日のメインイベントとして、自分で勝手に決めた、ヴァレ=ブランシュ遭難救助活動の顛末を、しっかりと頭にたたき込んでおこうと、ひとりロビー裏のカフェテリアにいきましたの。きのう口にしたチェリー酒の味をおもいだして、あのふんわか気分にひたってイメージすれば、とてもいいシミュレーションになるじゃないか、っておもったんです。

 ところが、期待はものの見事に、裏切られましたわ。ゆったりとした雰囲気のカフェテリアは、楽し気に談笑する宿泊客でほとんど満席、空きはないかなって探してみたら、きのう気づかなかった奥の方に、ちょうど暖炉が一つ、あったかそうな炎をユラユラさせていて、みるからに居心地のいい空間を提供してくれいていましたの。おもわず、ラッキーッ、とおもって、つい前のめりになってしまったのが運の尽き、みると、赤い暖炉を背景に、クマみたいなオトコがひとり立ちはだかっていて、こっちに向かって手招きしているではありあせんか。ヤバイ! ひきかえそ! すぐに目線をはずして、何歩か後ずさりしたんですが、時すでに遅しで、バリトンのよく通る声が、そこら中に響き渡ったのです。

「ナ、ナ、ナガサキー!」

 フーッ、またあの、バスクの、ヘンなヤツだよ! あーぁ、これで、せっかくの予習時間も、おわりってことか。もったいないこと、してしまったな。それにしても、なんでわたし、ここに来ちゃったんだろう。きのうのかれとのやりとりからして、今夜もディナーに誘おうと、わたしのことを待ちかまえているんじゃないかな、って、うすうす感じてはいたんだけれど、そのとおりだったみたいね。なんとなく、なるべくしてなっちゃった、みたいな気もしないではないわ。ということは、わたしの中に、そうなってくれないかな、って、期待していた部分があったのかもしれないわね。多分そうよ、そうに違いないわ。よし、それなら潔く、乗っかっちゃいましょうよ、このなりゆきに。

「あら、ヒロシマじゃない、お久しぶりね」
「お久しぶり?」
「じゃなかったか。きのうですものね、お会いしたのは。お元気?」
「ゲ、ゲンキですよ、とってもゲンキ。アナタも、ゲンキそうですね、ドーゾ、ドーゾ」

 ヒロシマは、満面の笑みをうかべて、自分のとなりに座るよう促してくれたのですが、わたしは気が付かないふりをして、かれの向かいに置いてあった、ロココ調の肘掛け椅子を選びましたの。隣り合わせに座るなんて、まだ、そんな親しい間柄に、なっていたわけでもありませんでしたし。

「きょうは、どこへ、いらしてたの?」
「世界平和推進ゲルニカ・ヒロシマ友の会から緊急の連絡がはいるということで、ずっとホテルで待機してましたよ。とてもつまらない一日でした」「せっかくの休暇なのに、ホント、もったいないわね。で、緊急の連絡って?」
「ほら、そろそろ八月六日でしょ」
「!?」
「アナタの国の、原爆の日、ですよ」
「アッ……」
「やだなあ。ナガサキがヒロシマのことをわすれて、どうするんです?」「ごめん、ごめん」
「どーいたしまして」
「わたし、ダメねぇ、すっかり忘れてたわ。日本人のくせして、ホント、バカねぇ」
「そんなものですよ。ボクも、このあいだ、バスク憲章が何年に承認されたか、つい忘れちゃってね。みなに笑われてしまいましたよ」
「バスク憲章? へー、そんな憲章、あったんですか。知らなくて、ごめんなさいね。はじめて耳にしましたわ」
「そんな憲章、あったんですよ。せっかくですから、七十九年のスペイン国民投票で承認、と覚えておいてください」
「七十九年のスペイン国民投票ね、わかりました、ありがとう、ヒロシマのために、覚えておくわ。それで、原爆の日についてなんだけど、どんな連絡があるっていうの?」
「ボクたちの会では、毎年八月六日の原爆の日に、大々的に被災者追悼会を組織することにしてるんです。ところが、今年は準備がおくれていて、おそくとも今週末までに会合を開いておかないと、間に合わなくなってしまうかもしれないんですよ。それで、会員みなに、非常招集がかかった、というわけなんです」
「ヘー、ひとの国の被災者のために、わざわざ追悼会を催したりするんですか」
「それが連体というものではないでしょうか」
「はぁ、すみません。納得しました。でも…」
「でも?」
「日本から、何人くらい、出席するんですか、代表のかたって?」
「ゼロです」
「ゼロ!? 日本から、だれも出席しないの?」
「つ、つまり、ク、ク、クニを代表するひとはだれもいない、ということなんですよ。ボ、ボクたちの組織は、草の根の有志をベースにしているものですから。日本には、まだ、コ、コ、志を一つにする草の根がいない、というか、育たない、というか、そもそも育つ土壌がない、っていうか」「志を一つに? 土壌がない? ココロザシといっても、いろいろ、あるでしょう? ヒロシマのゲルニカの場合は、どういう土壌で、どんなココロザシのひいとたちが集まっているの?」
「ルーツです」
「ルーツ?」
「個々の民族の歴史と文化のルーツです。それを尊重することをココロザシとする有志の集まりです」
「個々の? ということは、ヒロシマはヒロシマの民族の歴史と文化があるわけね」
「も、も、もちろんです」
「それはなに?」
「フランスでないことは確かですよ」
「もちろん、スペインでもないわけね」
「な、な、ないです」
「じゃあ、なんでしょう?」
「そのまえに、なにか、飲みませんか? よろしかったら、アペリティフにチェリー酒でも、一杯、いかがでしょう」

 いうが早いかヒロシマは、カウンターに飛んでいきましたわ。大柄の体躯のわりには、びっくりするくらい敏捷な動きで、あっけにとられてみている間にカレは、両手にチェリー酒二グラスを掲げた格好で戻ってくると、うれしそうにハナシを続けてくれましたの。

「そ、そうなんですよ。ボクのルーツは、フランスでもスペインでもなく、バスク、なんです。バスクで生まれ、バスクの血を受けつぎ、バスクの歴史と文化に育まれ、バスク語をはなし、気質も習慣もバスク、バスクの歴史的人格で形成された、生粋のバスクのオトコなんですよ」

 なるほど、バスクとなると、吃音も消えちゃうってわけね。そう、あなたのいうとおりよ。ヒロシマは、赤毛の後退しかけたアタマの先から、小さなお舟みたいな足の先まで、まがいもなく、生粋のバスク人にちがいないし、それを疑うひとは、だれもないわ。でも、そこまで自分のルーツに愛着をもち、誇りにおもい、大切にしていきたいという気持になれるほど、心の拠りどころにしているなんて、どうしてかわからないけれど、わたしには、むしろ羨ましくおもえましたの。

「あなたは、しあわせなひとね、自分のルーツを、そんなにまで誇りにおもえるなんて」
「ほら、あなたも、やっぱり、おなじ日本人ですね」
「え!? どういうこと?」
「マドリでも、バルセロナでも、モンペリエでも、マルセイユでも、ずっと登ってパリでも、日本人にあうたびに、このハナシをしました。ひとりでもいいから、日本のだれかに会員になってほしかったからです。でも、不思議なことに、誘ったひとからは、みな、判で押したみたいに、たったいまナガサキがくれたのと、まったくおなじリアクションが返ってきたんです」
「わたしとおなじ?」
「そうです。あなたはいま、こういいました。あなたは、しあわせなひとね、自分のルーツを、そんなにまで誇りにおもえるなんて…と」
「それが?」
「い、い、いいですか、じ、じ、じ、自分のルーツを誇りにおもうのは、自分のルーツを奪われた悲惨な歴史が、あ、あ、あるかるからなんですよ。何世代にもわたって、自分のルーツと切り離されたまま、生きてこざるをえなかったんです。あなたがいうように、決してしあわせなひとたち、ではないんですよ」
「でも、あなたはバスク人で、ちゃんとバスクに住んでるし、バスク人としてのルーツを奪われた経験は、ないんじゃないの?」
「千六百五十九年のピレネー条約で、バスクは南と北に分断されたんです。フランスとスペインが、勝手に国境線を引いたんです」
「それって、十七世紀のハナシじゃない。アナタが生まれたのは、三百年後の二十世紀でしょう? だったら、あなたには、もともとルーツというものが、なかったんじゃないの?」
「な、な、なんて、乱暴な論理なんだろう! まるで時間軸への配慮がない! それこそ、歴史的人格に無関心な、というか、わざとネグレクトするというか、典型的な日本人好みの、認識のあり方じゃないでしょうか」

 あ、バカにされてる、っておもいましたわ。ナチの爆撃で壊滅的打撃をうけたゲルニカとか、史上空前の戦禍にみまわれた広島との連帯とか、世界平和推進友の会の運動とか、ひとの平和への希求を巧みに誘導して、自分のやりたいことに取り込もうとする。それがうまくいかないと、認識が足りないとか、無関心だとか、意識が高いとか低いとか、ひとのプライドに付け込んで、上から目線で迫ってくる。きのう初めて会ったときから、ヘンなヤツだとおもっていたけれど、ここまでくれば有害だわ。毒されないうちに、うまく逃げちゃわなければね。でも、どうやって…。

 気がつくと、シェリー酒のグラスが、空になっていましたの。

「もうちょっと、お飲みになる?」
「い、い、いいですね。頼んできましょう」

 ヒロシマが、シェリー酒を注文しにカウンターにいく間、そのいかつい後姿を、何気なく目で追っていたのですが、ふと、カウンターの、ボトルが並ぶ壁面いっぱいに、見覚えのある絵を刷り込んだ壁紙が、ビッシリと敷きつめられていることに、気がついたんですの。鋭利な刃物をまたいだ二つの巨大な串刺しの耳、黒い油鍋から逃れ出ようともがく裸の群衆、天空の瓦礫から零れ落ちる無数の裸体、奇々怪々な珍獣に蹂躙される煉獄の囚人たち、火を噴く闇の迷宮、業火に慄く烏合の兵士の群れ……ここまでお聞きになれば、もうおわかりでしょう? あの有名なボッスの絵、快楽の園が、壁の端から端まで、はめ込まれていたんですの。しかも、そこに暖炉のかまどの火が反射して、メラメラと、煉獄の炎を揺らせているではありませんか。

 ゾッとして、阿鼻地獄でのたうちまわる亡者の叫喚地獄に、悪徳と退廃に澱んだソドムの淵に、まるごと飲み込まれてしまうんじゃないかって、脇の下からタラタラ冷や汗が流れるくらい、おもいきり怖かったんですけれど、でも、もっと覗いていたい怖いもの見たさの気持ちがつよくて、それに逆らえないまま、巨大な深海魚の白骨の残骸にすみついた亡者どもを、じっくりみてやろうと、身を乗り出したんですが、そとき、あのヒロシマが、グラス二つを両手に掲げて、いそいそと、戻ってきたんてす。

 カレにはわるいけれど、行くときは、体躯のわりに敏捷そうで好感がもてたのに、戻ってくるときは、使い道のない粗大ごみみたいに感じられましたの。なぜって、せっかくのボッスの絵が、カレに遮られて、ほとんど見えなくなってしまったんですもの。おもわず、わたし、呟いていましたわ。やだな、よく見えなくなっちゃったじゃないの! おねがい、はやく、わたしの視界から、消えてくれない、って……。

 それは、とっても小さなものだったけれど、ここ何日かの間に、救助隊員服の懐のなかで、着実に醸成されつづけてきた、ゆるぎない殺意のような、意志的なものでした。

 とにかく、肝心なことは、あしたが最終日で、ミッション完結のときであること。そしてそれは、絶対に完璧で、みるひとを圧倒する、劇的で、アメイジングな、唯一無比の、遭難事故に、遭遇しなければならないこと。いや、かならず、そうなる、なるはずの出来事、だったんです。そのために、ほら、どこかの知らないだれかが、さまざまな偶然を演出して、わたしの目の前に、お膳立てをしてくれたんですもの。アルプスのモンブランもそうだし、山岳都市シャモニックスもそう、氷河バレ=ブランシュもそうだし、幻のクレパスやヒロシマとの出会いも、アルジェ空港閉鎖やダッカ=ハイジャッカーも、若い技師と同じ高校卒業生の日本赤軍兵士や、英雄コーゾー・オカモトも、オリベイラの金型工場も、たったいま目の前にあるボッスの快楽の園も、そこからまさにヌーッと抜け出してきたエンマさまみたいなヒロシマも、両手にかかげた二つのシェリーグラスも、なにもかも、あすの最終日の劇的な結末を迎えるために、念入りにだれかが用意してくれた、おあつらえ向きの、ドラマと舞台装置なんですもの。だから、わたし、シェリー酒もって、うれしそうに、目の前にすわったヒロシマに、こう告げたんですのよ。

「エッ、さ、さ、最後の夜?」

 ヒロシマは驚いた様子でしたわ。

「し、し、し、知らなかったな」
「あしたが取材の最終日なのよ。あさって帰国する予定よ」
「じゃあ、ボ、ボ、ボクと、いっしょですね」
「あ、そうでしたわね。非常招集がかかったって、いってらしたわね。ヒロシマの行く集会って、どこで、あるの?」
「マヨルカ島です。首都のパルマ・デ・マヨルカで、みなと会うんですよ」「そうなの。美しいい観光地、って、聞いてますけど」
「美しいだけじゃなくて、歴史的にも、興味深いところです。カルタゴの時代に、領土を守る唯一の防衛手段として、イ、イ、石を投げて、タ、タ、タ、戦ったんですよ。マヨルカって、ギリシャ語で石を投げるひと、という意味だそうですよ」

 このとき、わたし、なぜか、ピンときたんです。このひと、さっきからルーツ、ルーツっていってるけれど、それって、いろんな民族の系譜のことなんじゃないかしら、ご先祖さまのミナモトを指してるんじゃないかしら、って。だから、おうむ返しに、聞いてやりましたわ。

「ギリシャ人が名前をつけた、ということは、マヨルカ人はギリシャ人じゃない、ということでしょう」
「そうです」
「じゃあ、マヨルカ人て、どこのひとなの?」
「マヨルカ人のルーツですか?」
「そうよ」
「フェニキア人です」
「マヨルカ人のルーツはフェニキア人なのね」
「そうです」
「じゃあ、バスク人のルーツは?」
「ボクたちバスク人のルーツはイベリア人です」
「イベリア人?」
「いってみれば、イベリア半島の原住民ですね。その証拠に、バスク語は、欧州のどこの言語とも交雑していないんですよ。イベリア人は、バスクの歴史と文化の礎となる民族です」

 ほら、やっぱりそうだわ。ヒロシマって、はやいはなし、自分のルーツを奪われた苦悩とか、そこから切り離されたまま生きざるをえない悲惨な歴史とか、だからこそ自分のルーツを誇りにおもうとか、いろいろいってたけれど、なんのことはない、要は、自分のご先祖さま探しをやってる、ってことじゃない。そうよ、ダッカ=ハイジャック事件で、アルジェ空港が閉鎖された日に、パリのオルリー空港で若い日本人技師と偶然あった、ってヒロシマはいっていたけれど、そうよ、ちょうどあの年よ、ルーツという、アメリカのテレビドラマが、世界中で有名になって、たしか日本でも、自分のルーツ探しが、とても流行ったって、両親がはなしていたことを、よく覚えてるわ。

「なんだ、ヒロシマがいいたいのは、自分がバスク人で、ご先祖様はイベリア民族だ、ってことでしょう。それって、とってもクリヤーで、説得力ある系譜じゃない。なにが悲惨なの? どこに、自分のルーツと、切り離された苦悩があるのかしら?」
「それは、歴史的人格の問題なんです」
「ちょっと理解できないんですけれど。歴史に、人格が、あるの?」
「もちろん、あります。認識と想像力の問題です」
「認識と想像力?」
「そうです。ナガサキも、生まれてからいままで、生きてきたわけでしょう?」
「ええ、生きてきました」
「おなじように、ニッポンの国だって、生まれてからいままで、生きてきましたよね?」
「ええ、そういうことになりますね」
「あなたの、つまりナガサキの人格は、ナガサキの生きてきた歴史が育んだ心の総体だとおもうのですが、いかがでしょう?」
「人格イコール歴史が育む心の総体、というわけですね」
「そうです」 
「納得しましたわ」
「では、その認識のもとに、想像力を働かせてみましょう」
「はぁ」
「ニッポンの人格って、なんでしょう?」
「ヒロシマ流にいえば、ニッポンの人格は、ニッポンの生きてきた歴史が育んだ心の総体、っていうことに、なりますよね」
「まさに。それが、歴史の人格、というヤツなんです」
「人格イコール歴所が育む心の総体、という方程式に従えば、のハナシですね」
「そうです。人格イコール歴史が育む心の総体、という認識からみると、ひとの場合、人格の形成過程では、0歳から3才までに、心の根底部が形成される、とされています。この最も重要な時期に、周りのひとみなからの愛情をうけて、ゆったりと、安定した環境におかれた心のなかで、自分はこのまま生きていていいんだ、みながそれを必要としているんだ、という、自分のことを自分で認める感覚や、自分を認めてくれる周りの世界のことを、自分に受け入れていいものなんだ、というものの見方が、しっかりと育まれていくわけですね。もしその過程が欠落していると、それ以降の心の成長期において、自分についても、周りの共同体についても、安定した肯定感をバックボーンにした、まともな意志疎通や対応能力を、発揮していくことができなくなって、心の総体がとてもいびつな姿になり、全体として殺伐とした風景のなかで、いつも悩まされ続けなければならなくなってしまうのではないか、とおもうのですが、そうおもわれませんか?」

 不思議なことに、ヒロシマの吃音は、いつのまにか消えていましたの。

「そういうふうにいわれると、そうおもいますけれど。でも、ひとの人格と歴史の人格を、おなじようには…」
「それが、おなじなんです。ひとは生まれ、そして死にますが、また生まれます。歴史的人格は、その新しい生命にうけつがれ、民族が滅びない限り、ずーっと、形成されつづけるんですよ」
「ホー…、すると、バスクの場合は、どうなるんでしょう?」
「バスク地方は、西北部を海に接していますが、実質、大陸国がたどる戦いの歴史を生きてきました」
「というと?」
「大陸国には、常に敵対者との相克を生きなければならない、という宿命があります」
「敵対者?」
「さっきいいましたよね、ボクたちの祖先はイベリア人なんです。イベリア半島の原住民なんですよ。むかしむかし、イベリア人は、イベリア半島に広く分布していたんですが、ケルト、ゲルマン、カルタゴ、ローマそれぞれの民族との相克をくりかえすなか、半島の大部分から追われ、前方にピレネー、後方に大西洋と、山麓一帯の地域に背水の陣をしく布陣で、現在まで生き延びているんです。つまり、ボクらバスク人の歴史は、敵対する諸民族との衝突、領土争奪、征服と屈服の戦いからはじまるんです」
「すると、バスク人て、心の根底部が形成される、いちばん大切な時期に、征服と屈服の洗礼を受けている、ということになりますけれど」
「そのとおりです」
「じゃあ、ヒロシマの歴史が育む心の総体論、からすると、バスクの歴史的人格とは、相手を征服し屈服させるための闘争心、ということに、ならない?」
「そのとおりです」
「そんなの、つまらないわ」
「いや、つまるつまらないの問題じゃなくて、多かれ少なかれ、大陸国の歴史なんて、そんなものなんですよ。現にいま、世界中で、戦争やテロがおきていますが、大半は、国境を接している大陸国同士の争いでしょ」「それはそうですけれど…」

 いったいヒロシマは、なにをいいたいんだろう。

「でも、敵対や対立だけしてたわけではないでしょう? 交流や協調や、協力、協同だって、あったはずでしょう?」
「そ、そ、そこがミソ。大陸は陸続き、どこまでも続く陸の連続が、目のまえにひろがっている。そこに、自分と違ったひとの集団があらわれたとき、ナガサキは、どうしますか?」
「いっしょに住めばいいでしょう?」
「ところが、そうはならないんです」
「どうなるの?」
「殺し合いになるんです」
「なぜ?」
「殺さないと、殺されるからです」
「そんなはず、ないわ。もし、そうだとしたら、最後には、最強の、たった一つの集団しか、のこらなくなるじゃない?」
「そのとおりです。欧州連合をごらんなさい」
「ウソ! あれは、連合体で、たくさんの国の集まりです。一つの最強集団ではありませんわ」
「たしかに、複数の国があつまったからといって、すぐに、連合体になるわけではありませんからね」
「ほら、ごらんなさい」
「しかし、最強の一集団が、ある意志と目的をもって、たくさんの国をまとめ、支配し、連合体として組織したとしたら、どうでしょう?」
「すばらしいことじゃない、二度と戦争しないという固い意志と目的で、連合したわけでしょう?」
「第二次世界大戦で、ソ連を含む欧州諸国の戦士者数は、約四千五百万人といわれています。殺し合いの規模と結果からすれば、頭脳ある生き物の生理からして、不戦の決意が生まれるのは、当然のことでしょう。しかし、それは、壊死寸前の細胞が生きようとする生体反応のようなもので、そこには、なんの意思も目的も、ありませんよ」
「じゃあ、欧州連合体の意思と目的って、なんなのかしら?」
「連合体の拡大と世界制覇です」
「そんなバカな。そんなじゃ、また、戦争になっちゃうじゃないですか」「そのとおり。戦争しかないんです、世界がひとつになるには」
「また犠牲者がでる、ってわけですか?」
「いや、戦費と犠牲者の規模からみると、殺し合いは、あまり効率的ではありませんね」
「効率的!?」
「つまり、砲弾の量や戦士者数で勝負をきめる戦争は、多分、はやらなくなりますね」
「はやる!?」
「ナガサキは、パソコン利用してるでしょう?」
「ええ、仕事上、欠かせないものですから」
「OSはマッキントッシュですね」
「そうです。それしかありませんし」
「でも、近々、ウィンドウズ95が、でるそうですよ」
「ええ、知ってます。さかんに宣伝してますものね」
「つまり、マッキントッシュに対抗してウィンドウズがでてくることで、サイバー空間にも対立概念が移植され、いずれサイバー空間を相克の場として利用しようとする集団がでてくるはずです」
「なんですか、その集団て?」
「国と呼んだり、連合と呼んだり、連邦や合衆国と呼ばれる、利益集団です」「国も利益集団、なの?」
「当然ですよ。国は国民の利益を追求し守る集団組織ですよね。たしか、ニッポンも、そうでしたよね」
「そういわれれば、そうですけれど」
「しっかりしてくださいよ、ナガサキ! あなたの国も、国民の利益を守ろうとして、戦ったんでしょう、ボクたちバスク人とおなじように」
「それはそうですけれど」
「その代償が、ヒロシマ、ナガサキの原爆と、三百十万人の犠牲者です。悔しくありませんか?」
「ええ、でも、あれは……」
「自業自得、って、いいたいんでしょう。でも、それは、どの国もおなじですよ」
「…」
「殺すことに、正当性はありません。やったらやりかえす。これが鉄則です。そうはおもいませんか、ナガサキ」

 ちょっと待って。なにもわたし、あなたと戦争の仇討論をたたかわせるために、ここでシェリ-酒のんでるわけじゃ、ないのよ。

「それは報復の連鎖です。そんな考えだから、戦争が絶えないんです!」「ブラボー!」

 ヒロシマは、カフェテリア中に響き渡るくらいの大声をあげて、耳がいたくなるほど手をたたいてよろこんだんです。

「さすがナガサキ、あなたは真のニッポン人です! ルーツを誇りにするひとを羨ましいいといい、ヤラれたらヤリかえすといえば報復の連鎖だと批判する。いままであったニッポン人と、一言一句ちがわない言葉が返ってくる。まさにあなたがたは、おなじDNAを継承している、生粋のニッポン人なんですね」

あ、またひとをバカにした、なんてイヤなヤツなんだろう、ヒロシマって。

「でも、ヒロシマの人格論からすれば、それがニッポンの歴史的人格、つまり、歴史が育む心の総体をさすのではないの?」
「つまり、他人のルーツを羨むが自分のルーツには興味がない、争いをさけるためにヤラれたらヤラれっぱなしになることが、ニッポンの歴史的人格だ、とでも?」
「……」
「ヒロシマとナガサキで、一瞬にして二十万人が殺されたのに、過ちは繰り返しませぬからと、自分を責めるのがニッポンの歴史的人格とでも?」
「やめましょうよ!」

 わたし、おもわず、叫んでいましたわ。

「あなた、ヘンよ! ニッポンに、なにか恨みでもあるの? ゲルニカなんとか推進の会に、ニッポン人がだれも入ってくれないからって、それはダレのせいでもないわ、ひとの気持ちを逆なでばかりする、あなたの方が、オカシイからじゃないの!」
「オ、オ、オ、怒らないで、ください!」

 ヒロシマは、おおきな体を、思いきり小さくして、謝りましたの。

「ニッポンに恨み、なんて、と、と、とんでも、ありません。その、正反対ですよ。ボクだけじゃなく、みんな、ニッポンが、羨ましくて、仕方がないんですよ」
「羨ましい? また、そんなこといって、ひとをからうもんじゃ、ありませんわ!」
「オ、怒らないで、キ、キ、キ、聞いて、ください、お願いです! ボクがいいたいのは、二千六百年前から、いや、もっとまえからだったかもしれないけれど、ニッポンに、たったひとつの国境しかなくて、それが、今まで一度も変わったことがない、という歴史的な事実なんです。そしてそれが、羨ましくてたまらない、もっと正直にいうと、気に食わなくてしかたがない、とにかく難癖つけて、貶めてやろうと、嫉妬している人たちが、世界中に沢山いる、ということなんですよ」
「きにくわない、オトシメてやろう、ですって!?」
「ボ、ボクがいったわけじゃ、ないんですよ! ゴ、ゴ、誤解しないで、くださいね!」
「誤解も、ヘチマも、ないわ!」
「そうじゃなくて、とにかくニッポン人は、センシティブじゃない、というか…」
「わ、わたしたちが、ドンカン!?」
「イ、イ、、イ、いや、そういう意味じゃなくて、気がつかないというか、気にかけないというか」
「気がつかないって、なにに?」
「たとえば、ナガサキは、パスポート、持ってるでしょう?」
「あたりまえよ。でないと、旅行、できないじゃない?」
「その、あたりまえ、がミソなんですよ」
「ミソ?」
「そうです。あなたがたには、あたりまえのことが多すぎる。生まれたとき、そこにニッポンがあって、あたりまえのように、ニッポンジンになる。だから、あたりまえのことは、あまり考えない。世の中に、パスポートがもらえないひとがいる、なんてことが、疑問のギの字にもならないんです、ニッポンでは」
「もらえないひとって、どうして?」
「たとえば、無国籍者ですよ。もともと旅券発行の申請を出す国がない、なければ、なにも出ませんよね。それににたような境遇の難民も、いますね。それから、認定中や認定から外れた亡命者とか、そのほかいろいろ、国という枠組みから外れた、外れざるをえなかったひとたちのことですよ。あ、それより、もっと身近で、無戸籍者、というのも、ありますよ」
「無戸籍?」
「国の枠組からはずれなくても、なんらかの理由で、親が出生届を出さなかったひと、とか」
「捨て子って、こと?」
「それも、ありますね。また、そもそも親が無戸籍者、ということもあるし。いずれにしても、ボクはニッポン人じゃないので、詳しいことはよく分かりませんが、旅券がもらえないひとは、沢山いるはずですよ。国内事情として、認識しておく必要はあるとおもうのですが」
「ハァ…」
「ところで、ちょっと、アタマの体操でも、してみませんか?」
「アタマの体操?」
「はい、ちょっとした遊び、というか、ナガサキの現状認識度のテスト、みたいなもの」
「現状認識度? なんの現状?」
「政治、経済、文化、国際、国内などの現状、ほかにもいろいろありますが。なんでもいいですよ」
「また、ひとを、バカにする気ね」
「とんでもない。単なるアソビ。あなたご自身の、常識のチェックアップ、ということですね」
「常識の?」
「そうです、コモンセンスです」
「ウーン、だったら、国内関係でしょうね、それだったら、なんとか」
「国内の現状認識度ですね。では、いきますよ」
「はい」
「ニッポンに、さっきの無国籍者は、どれくらい、いますか?」
「無国籍者? 知りません」
「では、難民は?」
「ウーン、多分、いるでしょうけれど、よくは、知りません」
「じゃあ、亡命者は?」
「亡命者? たしか、チリとか、ベトナムから来てたって、聞いたことはありましたけれど…」
「では方向を変えて、ニッポンの独立記念日は?」
「ハァ?…」
「人口は?」
「一億二千万人、かな」
「では、ニッポンの国土の面積は? 離島をのぞいてでいいですが」
「三十五万平方キロ、くらいだったかしら…」
「では、東京の緯度は?」
「緯度?…わかりません」
「ヒロシマの緯度は?」
「知りません」
「ナガサキは?」
「知りません!」
「ニッポンは島国といわれていますけど、本島を入れて、いくつ島がありますか?」
「?…」
「ニッポンの領土の、最北端と、最南端の、それぞれの地名をいってください」
「ちょっとまって! それって、地理の問題じゃない?」
「国内の現状で、いちばん大切で基本的なのは、国境、ではないんですか? 領土の境界をしらなければ、国をしることにはならない。国境線は地理ではなく、国内問題そのもの、でしょう?」

 そういうとヒロシマは、国境ももてず、大西洋を背に背水の陣しか立ち位置のないバスク人からすれば、わたしも含め、いままで会ったニッポン人のほとんどが、自国の国境について、どれだけドンカンであるかを説明してくれましたわ。そして、その理由として、三万年前から日本列島にたどりついた多種多様の民族が、異民族との接触と初期抗争を乗り越えて、とてもゆるやかにまとまっていったこと、その大きな融合のもとになったのが、極東という逃げ場のない辺境の地にたどりついた挙句に、太平洋という大海原に退路を断たれたひとびとの、吹き溜まりの寄り合い所帯精神だったのではないか、と話してくれましたの。それが、とっても説得力のある仮説だなって、わたし、おもいましたので、感心していいましたの。

「なるほどね」

 するとナガサキは、とてもガッカリした様子で、こういったんです。

「…でしょうね。だから、ボクは、ナガサキが、許せないんです」
「え、許せない?」
「だって、そうでしょう。世界中のだれも手をつけることができない、唯一無比の歴史基盤をよりどころとしている国なのに、カルチャーセンターみたいなところでチョイかじりした、ボクみたいな外国人の日本史観に、やすやすと感心してしまうナガサキ、というよりニッポン人。それって、ヘンだとおもいませんか? むしろ、ナガサキの口から出てくる言葉でしょう、ボクのいうことなんて。あなたは、ニッポン人、失格ですよ」
「失格!?」

 わたし、堪忍袋の緒が、プッツリ切れた、と感じましたわ。このバスクオトコ、ひとのことを失格者よばわりするなんて、いったい自分を、ナニサマとおもってるんだろう。失礼な! わたし、アタマに血がのぼって、全身から、冷や汗がでました。でも、気もちは、不思議と、とてもクールになっていましたの。

「失格っていわれて、おもいだしたけれど、ヒロシマは、人間失格って、知ってる?」
「人間失格? なんですか、それ」
「むかしの日本の作家が書いた小説のタイトルです」
「し、し、知りません」
「でしょうね」
「ナガサキの愛読書ですか?」
「じゃないけれど、とっても日本的で、深い作品なんです。フランス語にも訳されてますから、興味があったらどうぞ。ダザイという作家です」
「ダザイ」
「ええ」
「深いって、どんな内容ですか?」
「ええ、自叙伝風に書かれた作品なんですけれど、主人公は、自分と周囲との気もちのとり合いがとても苦手なひとで、他人への気遣いからなのか、自分に真面目すぎるからなのか、女性に好かれて一緒に暮らしても、最後には心中してしまって、でも悲しいことに、自分だけが助かってしまう。それも一度や二度のことじゃない。そんなことを繰り返すなかで、とうとう自分のことを、人間失格、とおもってしまって、最後には入水自殺してしまうんです。でも、そのまえに、こう振り返る箇所があるんですの」

 ヒロシマは、おもわず、乗り出してきましたわ。

「ごはんを食べていて、粗相して、つい、ご飯粒をひとつぶ、落としてしまったりしたとき、たったいま日本中のひとが、自分とおなじようにご飯粒を落とせば、どれほど多量のコメが失われるか、本気で心配になってしまうけれど、そんなことは、心配しなくていいんだ、って」
「なるほど」
「つまり、ダザイ風に考えれば、いま自分のいるところが北緯何度で、自分の国の北のはしと南のはしに、どんな村があって、いまどうなってるかなんて、本気で心配することなんかない、ていうことなのよ。ましてや、自分の国に、いくつ島があるか、なんて、取り越し苦労もいいとこじゃない?」「だめです、ナガサキ、それは、ダメです」

 ヒロシマは、むきになって、反論してきました。

「そのひと、ダザイって、ナガサキがいうように、自分と周囲との気もちのとり合いが苦手なひと、ではなくて、優れて感受性の鋭いひと、なんですよ。相手の後ろに広がっている心の世界が、ずーっと、みえてしまうんです、最後まで。だから、見えていないひとが大半の世の中ではうまくいかなくて、失敗ばかりして、ついには、自分が人間失格者だと、おもいこんでしまうんです。実は、ダザイこそ、人間合格のひと、なのに」
「あなた、ダザイ、読んだこと、ないんでしょう?」
「ありませんが、たったいま、ピンときました。わかります。とても、よく、わかります。ナガサキは、分かりませんか?」
「なにが、そんなに、分かるの?」
「たったいま、ナガサキがいったじゃないですか、とても日本的な作家だって。ダザイのなかに、歴史が育むニッポンの心が、みえるんです。それが、みえませんか?」
「歴史的人格、ってこと?」
「そうです。ダザイは、自分の粗相で落としたご飯粒を、みんなのご飯粒にまでおし広げてみる想像力を、もっていたんですよ」
「想像力?」
「キーワードでたどってみましょうか。まず、ナガサキのご先祖、つぎに、逃げ場のない極東の地、それから、寄り合い所帯の精神、そして、みんなでサバイバル。どうです? そこから、なにが想像できますか?」
「まとまること、でしょうね」
「そうです。とにかく生き延びていくために、みんなで考え、いろいろ想像力をはたらかせ、工夫を重ね、大切に育てていったのが、この、ダザイの、サバイバルの心、自分のご飯粒をみんなのご飯粒としてみる心だったんです。これこそ、ニッポンンの歴史が育んだ心の総体じゃないんでしょうか」「でも、もし心底、そうおもっていたら、ダザイは、自殺、していなかった、はずよ」
「それは、周りが、変わってしまったからですよ。カレは、見切りを、つけたんです」
「自分に? 失格したから?」
「いや、その反対ですよ。周りが、人間失格したんです。だから、周りを、見限ったんです」
「ウソ! そんなヘンなパラドックス、ありえないわ!」
「それがわからない、あなたこそ、失格ですよ、ナガサキ!」

 ついに、わたしのなかの、なにもかもが、音をたてて切れました。と同時に、仕掛けていた罠に、格好の柄物が、喜び勇んで飛びこんできてくれた、と直感したんですの。あすの最終日の、ドラマティックな顛末が、出来上がったばかりの記録映画みたいに、ありありと、脳裏によみがえってきたんです。さわやかな達成感が、するすると、背筋をのぼってきましたわ。

「ところで、あなた、ヴァレ=ブランシュ、滑ったことあるの?」
「もちろんです。素晴らしい雪原です。でも、今回はまだ…」
「じゃあ、あす、わたしといっしょに、滑らない?」
「え! 一緒にですか!? も、も、も、もちろんOKです!」

 これで決まりね、できたわ、すばらしい動画を手に、わたしは、ハナたかだかで、帰国することができる……ヒロシマのうれしそうな、でも高慢な、反り上がった鼻をみつめながら、わたしは、心のなかで、何度もそう叫んでいましたの。

 翌日の最終日、ヒロシマは、ちょうどお昼の待ち合わせの時間ピッタリに、ミディ針峰山頂の展望台下にやってきました。早朝、濃厚だったガスも、視界五十メートル程度には晴れていました。予報によれば、明日あたりがピーカンの絶好日というのに、なんで明日かえらなくちゃならないの、と悔やまれましたが、予定は予定、わたしもヒロシマも、今日が最終日。というより、たった今、二人が、二十世紀後半に存在した、唯一無比の、ヴァレ=ブランシュ氷河タンデム滑降の、生き証人になろうとしているんだ、とおもうと、全身に緊張が走りました。

「ヒロシマ、まず、あの取っ付きまで、いかない!」
「ОK、ナガサキ!」

 マリンブルーのツナギ、赤いゼラニウム色のニット帽に真っ白なブーツとグローブ、まるで三色旗のロボコップみたいなヒロシマが、勢いよく滑っていきました。先に行かせたのは、ほかでもなく、カレの滑走レベルとターンのクセを、見極めておきたかったからですの。実際、ピレネーの雪山で育ったからなのか、ヒロシマの滑りは山岳スキーそのもので、ボーゲンとか、シュテムとか、クリスチャニアとかといった、システマティックな世界とはかけ離れた、日本流にいえば、マタギの滑りを彷彿とさせるような、臨機応変、変幻自在の滑りの老舗、みたいな感があって、とてもびっくりしましたわ。でも、残念なことに、一見して、左足に障害があるってことが、わかっちゃったんです。右旋回には問題はないけれど、左回りでどうしても山足になる左足が、時間差で遅れてしまうのです。高速回転では、かなり致命的な欠陥にみえましたの。

 取っ付きに到着したところで、たずねてみましたわ。

「ヒロシマ、左足、ケガしたの?」
「は、は、はい、わかりましたか?」
「どこで?」
「ピレネーです。凍傷で、指が全部、なくなりました」
「そう…」

 とても気の毒そうな顔で、と自分ではおもっていたし、相手もそうおもっていたとおもうんですけれど、残念ね、となぐさめたつもりが、その実、心のなかで、わたし、ほくそえんでいましたのよ。これで百パーセントうまくいくってね。わたしがタキュルの裾まで先導して、きのう掘って埋め込んでおいたポールの五回転ほど手前から高速ウェーデルンに入り、ポールのギリギリで左に急旋回すれば、カレの山足はかならずポールに引っかかるはず。すると、当然、高速なので、カレは、勢い余って、大転倒するはずだわ。そのとき、上から、チョッと、押してやればいいのよ、あの、白い氷にパックリ口を開けた、深い深い淵のなかに…。 

 いつものヘッドホンをセットし、ゴーグルでしっかり固定してから、わたし、叫びました。

「さっ、いこうよ!!」
「ОK!!」

 こうしてヒロシマとナガサキは、ヴァレ=ブランシュ大氷河の最初で最後の滑降に、タンデム組んで、挑みましたのよ。氷原は最高でしたわ。カリカリのアイスバンでもなく、かといって、ザラメの粗い接面でもなく、どちらかといえば、かるく湿らせた絹の絨毯をおもわせる、親密なグリップとでもいうのかしら、テールから、とても柔軟で寛容な雪面の包容力が、伝わってきましたわ。なので、わたし、ますます、いけるいけるって、自信を深めていったんですの。だから、ほとんど直下り、でした。回転するとすれば、もっぱらスピードが臨界点を超えないように、軽くエッジを切り替える、板の操作だけでした。ずっとそんな感じで、でもアッというまに、タキュル岩峰が、天から覆いかぶさるように迫ってくる地点まで、下ってきました。そろそろだわ、と思ったとき、五、六十メートルほど先の雪面に、チラリと、赤い小さい布切れみたいなものが、風になびいているのが見えましたの。

「アレだわ!」

 赤い布切れは、猛スピードで、近づいてきます。

「来る! 来る! 来る!」

 おりしもBJМのサウンドに急ブレーキがかかり、からだごと全無音の空間に放り出される瞬間でした。赤い布を回転競技のポーにみたて、雪面を抉って思いきり前屈するや、深いエッジで左に旋回、アクロバティックにスウィッチしながら、わたしは鋭く叫びました。

「ヒロシマ! ここよ! ここよ!」
「ОK! ナガサキ!」

 ヒロシマは、フェイキーで滑るわたしに、猛烈なハグをカマせてみせようと、ことさら両腕を開いて、弾丸みたいに突進してきましたわ。多分、衝突する直前に左に急旋回、スウィッチして、危機一髪の回避劇を演出してみせようと、思いついたにちがいありませんのよ。でも、その思いつきが、ヒロシマの命取りに、なってしまったのかもしれませんわね。なぜかって、フェイキーって、けっこう難しいテクニックなんですよ。ちょっとした障害物があるだけで、あっというまに転倒してしまう、しかも後ろ向きに。ですから、あの赤い布のポールをピンカーブで抉ろうとしたときに、案の定、左の山足が僅差で曲がりきれず、板の尖端がポールにひっかかって、まず左の板、それから右の板が勢いよくはずれ、ものの見事にころんでしまったんです、それも後ろむきに、ゴロン、ゴロン、ゴロン…と。予定していたひと蹴りも、必要ありませんでしたわ。ヒロシマは、そのまま、白い氷面を鋭く切り裂いた、あの魔界の淵へ、スルスルと、吸い込まれていったんです。

 あとは、いつもの、ルーチンワークでしたわ。まずは板をはずし、無線機でコマンダン・ミシェルに急報して救難作戦の発動を依頼し、次に撮影スタッフに緊急連絡、クレバス落下事故現場の詳細を伝える一方で、臨場感とヒューマニズムあふれる動画コンセプトを共有し、それから現場確認の最終手段として、発煙筒の準備をしました。救難ヘリの対応次第では、急遽、焚く必要がありましたのよ。いざとなれば、無線機なんて、あまり役に立たないものなんですの、いつだって。

 案の定、十分たってもニ十分たっても、カメラもヘリもやってきませんでした。事故発生後、かっちり二十五分たって、わたしは、満を持して、発煙筒に着火しましたの。するとちょうど五分後に、ヘリのプロペラ音がかすかに聞こえはじめ、やがて、集団で雪面を削る滑走音が、氷土の胆をかすめて聞こえてきました。ガスはほとんど消え、彫りの深いタキュルの岩峰が深紅の空に突きささっていました。さあ、みんな! これで、やっと、本番がはじまるのよ! 思いきり、やりましょう! 超おもしろくて、ドキドキする、アメイジングな、前代未聞の作品を、心ゆくまで撮りましょう!…。

  あら、いけない、もうこんな時間なのね! ごめんなさい、みなさん。おはなしするのに、つい夢中になって、時間が経つのを、すっかり忘れていましたわ。このままだと、ゆっくり眠る時間も、なくなってしまいますわね。よく眠るために、浜坂のお医者さまが提案してくださった、せっかくのオハナシの時間を、眼が冴えて、眠れなくさせてしまうために使うなんて、なんてバカなんでしょう、わたしって。許されることでは、ありませんわね。でも、ごめんなさい、まだ最後まで、いっていませんのよ、わたしの打ち明け話は。時間にして、あと、わずか数分もあれば、結末に辿りつくところまできているんですけれど。できれば、もうちょっとの辛抱を、わたしに、いただけますでしょうか。 

 ありがとうございます。では、時間を節約するために、結論からおはなししますね。この、アルプス山岳パトロール救難ドキュメンタリーは、事故としては、軽い骨折から滑落死亡事故まで収録するという、余すところのない豊富な内容で取材を終えることができましたし、ドラマとしても、とってもよくできていて、山岳パトロール隊の、死をも顧みない自己犠牲と献身性を、実寸大でフォーカスした、逞しくも尊いプロフェッショナリズム礼賛劇、とでもいったらいいのかしら、出来上がりのよさにもうワクワクするくらいで、現にに表彰されてもおかしくないくらい、ジョブとしては最高のできで完了することができましたのよ。

 もちろん、遭難取材のときも、ドラマチックな動画編集においても、一番の功労者は、いうまでもなく、あのバスクのオトコ、ヒロシマ、だったんですのよ。せっかくですから、カレがどうなったか、かいつまんで、おはなししておきますね。

 結局、最終的には、助かりませんでしたわ、とても残念でしたけれど。クレバスは、文字通りの恐ろしい氷の裂け目で、細く、長く、人ひとり簡単に転がり込めるほどの巾しかありませんでしたし、一旦そこに転がり込むと、落ちるほどに深く、ますます狭く、一ミリの肢体のもがきさえ許さない、帰らずの底なし淵になっていました。最初は、懸命にもがいたんでしょうね、アタマから逆さまにはまり込んだヒロシマは、頑丈な体躯が災いしたのでしょうか、力尽きて、深い真っ青な氷の狭間に、トンガリクサビみたいな格好で、突きささっていました。さすがの救助隊員たちも、二次災害のことを考えると、安易に手が出せず、急遽、解氷装置の使用を決定し、ヘリに搬送指令をだしてくれたんですの。そう、だしてくれたんですのよ。というのも、取材班としては、思いもしなかった豪華な救助作戦が、いま、目の前で、フルコースで展開されることになったんですもの。わたし、小躍りしながら、ヘリの到着を待ちましたわ。

 解氷装置が到着したのは、もう夕刻をすぎたころでした。まだ夏時間でしたので、いつのまにか晴れ上がった空はピーカンのブルー。岩峰は、ますます彫り深になっていて、凛とした岩相で、わたしたち救助隊をみおろしていました。そんななかで、解氷機のふといフレキシ管から、深い氷の裂け目に挟まったヒロシマの、白いブーツの靴底に向かって、熱風が吹き込まれていきます。遭難者の体温を保ち、まわりの氷を解かしていくのです。やがて、ブーツのまわりに少し空間ができはじめたころを見計らって、命綱をつけた隊員がそろそろと狭間に滑り込み、装置のクレーンにつながったもう一本の命綱を、ヒロシマのブーツに結わえるのです。そして、ロープとブーツが一つになると、ヒロシマは自分を確保してくれる装置と一体となり、その分、隊員は、解氷とクレバス周辺の養生作業に、専念できる、というわけなんです。そんな状況で、かれこれ二、三時間もたちましたでしょうか、コマンダン・ミシェルの、ヤッタぞ!! という叫び声が、発電機と送風機の騒音をついて、氷上に響きわたりましたの。

 緊張して全員が見守るなか、クレーンとブーツをつないだ命綱がピンと張りつめました。すると、逆さまになったヒロシマのからだが、白い氷の裂け目から、少しづつ、ゆっくりと、上がってきたんです。やがて、胴のあたりまでつり上がったところで、隊員数人が、手分けして氷上にからだを寝かし、すばやく気道を確保して、ただちに心臓マッサージを開始しました。その時点では、まだヒロシマには、脈も息もあったんですのよ。でも、ヘリで救急病院まで搬送する途中、急速に体温と心拍数が下がりだし、懸命の蘇生処置をほどこした後、集中治療のモニター監視室に移されましたが、ちょうど夜の十時半ごろ、そうね、そろそろ夏も終わりのころでしたから、まさに晩夏の日の入りとともに、ヒロシマは息をひきとりました…ときいています。

 ええ、カレの最後の様子は、実は、そのように、あとで、ひとからきいたときに、初めて知ったことなんですのよ。なぜかって、わたし、カメラ取材担当のひとりでしたけれど、コマンダン・ミシェル付きの撮影を担当していましたので、ヘリでの被災者搬出が終わり次第、遭難現場をすぐ離れて、パトロール隊が駐屯する山岳災害救助本部に戻ったんです。そして、そこでの指令業務全般を取材しおわったところで、わたしのジョブは完了したんですのよ。ヒロシマの最期をみとれなかったのは、とても残念だったなって、いまでも、おもっていますけれど……。

 え! なにを表彰されたのかって!? 

 そ、そうでしたわね! こんなに時間かけて、みなさんに聞いていただいたのも、そのことをお話したいと、おもったからでしたのよね。肝心なことを、忘れるところでしたわ。

 帰国して、ちょうど半年近くたってからのこと、ですから、年も明けて翌年の二月ごろのことでしたわ。シャモニックス=モンブランの山岳災害対策本部から一通の手紙、というより、丁寧な通知書と招待状が、わたしあてに届いたんですのよ。A5大で肉厚の白封筒から、二つ折りの書簡が二枚、でてきましたの。一枚目を読んでみて、びっくりしてしまいましたわ。前年の山岳救助活動に尽力したひとを表彰するという、表彰式への案内状でしたが、表彰されるひとに自分の、つまり、わたしの名前が載っていたんですのよ。実質、それは、招待状をかねたお知らせみたいなものでしたの。読み終わるなり、え? なんで、わたしごときが? とおどろきましたわ。でも、二枚目の書簡に目をとおして、二度びっくり、おもわず、わたし、目がくらみそうになりましたの。

 それは、シャモニックス=モンブラン都市警察からの感謝状でした。要件は二つ、ありましたの。一つは、ヒロシマの逮捕に関する感謝でしたわ。警察の説明によると、カレは、略号でETAというらしいんですけれど、バスクの民族主義者たちがが集まって組織した、バスク祖国と自由、とかいうグループのメンバーで、あまり知られた存在ではなかったらしいんですけれど、マヨルカ島でスペイン国王を暗殺するという、おそろしい計画が発覚したときに、要注意人物として、内々に、指名手配されていたんですって。もう、お気づきでしょう? そうなんですよ。たしか、わたしが帰国する日に、カレもマヨルカに出発するって、いってましたよね。ですから、まさにあの日が、ヒロシマにとって、文字通り、最後の一日になってしまったわけなんですね。また、もし、わたしの描いたシナリオ通りに事が運ばなくても、結局は、マヨルカで逮捕されていた、ということになっていたんですよ。いったいだれが、ヒロシマとナガサキを、こんな風に、めぐり合わせてしまったんでしょうか。

 二つ目の要件は、これも、びっくり仰天玉手箱、なんですのよ。

 わたしが見つけた、あのタキュル岩峰麓のクレバスのことですけれど、後日、対策本部の組織する調査団が超音波探査したところ、ヒロシマが突き刺さったさらに奥の、つまり下の方に、遺物の陰影が認められたんですって。そこで、急遽、掘削隊を投入して掘りすすんだところ、なんと、五十年前に蒸発したとされていた、当時二十六歳の、ミシェル・タランテーズという男性の遭難遺体が、白い氷のなかで、そっくり冷凍保存されたまま、発見されたとうんです。それだけでも、ドングリかえるくらいのビックルリなのに、その奥様だったジャンヌ・マリー・タランテーズという方が、たしかに自分の夫だって、認知したんですって。そして、その際に、クレバスの発見者に感謝の意を表したいと申し出られた、というわけなんですの。とても丁寧な感謝状でしたわ。だけどわたし、読んでいて、うれしい、よかった、というより、とても、とても、せつない気持ちに、なっていきましたの。だって、そうでしょう、二十六歳のままの若々しい夫と対面する七十六歳の妻、しかも妻は、いつ帰るかもしれない夫を待って、再婚もしないで、ひとりで待って、待ち続けて……。

 ごめんなさいね。自分のハナシに、感動したわけじゃないんですけれど、涙が出て、しかたがないんですの。なんて、わたし、バカみたいですわね。そろそろ、止めにしちゃいましょう、こんな、つまらないおハナシなんか。

 みなさん、ながい打ち明け話に耳を傾けていただいて、ほんとうに、ありがとうございました。これで、胸のつかえが、すっかりとれましたわ。ただ、とれたのはいいんですけれど、どうしてでしょうか、急に、とても悲しくなってきましたの。ヒロシマのことが、とても、かわいそうにおもえてきましたの。なんていえばいいのかしら、胸がキューンとしめつけられるみたいに、痛くって、とっても空しい気持ちになってきましたわ。ヘンですわね、いまのいままで、あのヒロシマに、わるいことをしたなんて、一度だって思ったこがなかったくせに……。

 ごめんなさいね、最期にグチなんかこぼしたりして。どうぞ、気になさらないで、ゆっくりお休みになってくださいね。ほら、雪の降りは、だいぶ、ゆるやかになってきたみたいですよ。いい加減、はやく止んでくれれば、いいのにね。それでは、みなさん、おやすみなさい。また、あした…

白の連還 第四章 白い氷 完 第5章 白い男 につづく


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