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連還する記憶 ① 

連還する記憶 ①

ひとの記憶には、次の二つがあります。

生命記憶
生き物という有機体は、数十兆といわれる多くの細胞で、できています。そして、それぞれの細胞が、生類の誕生以来、蓄積継承してきた記憶があります。それを生命の記憶、生命記憶といいます。

生命記憶は、生きるための記憶です。生命体の寿命が尽きるまで、生きるためにのみ蓄積される記憶です。寿命が尽きると、生命記憶は、他の生命体に引き継がれ、生き物すべての共有財産となります。なぜなら、生き物はすべて生の共同体、すなわち生態系に属しているからです。

生態系は生命記憶の集積の上に成り立っています。

存在記憶
新たな生命は、お母さんのおなかの中で、胎盤を通して生命記憶を受け取り、世の中に誕生します。その誕生のときから、新しい生命の、存在の記憶が始まります。

存在記憶は、存在を記録する記憶で、存在したことの証となる記憶です。生命体の寿命が尽きると、存在はなくなりますので、存在の記憶もなくなります。しかし、消滅した生命体が共同体に属していれば、その共同体が、存在記憶を受け継ぎます。

野獣の狩猟技術、鳥類の飛翔技術、生きとし生けるものの生存技術の継承と伝達しかり、ひと類の、きらびやかな文化の創出と継承しかり、存在記憶は、ひと類の存在を立証し、有機的な共同体の文化を生み出す源泉となります。

二つの記憶はコインの裏表
一個の生命体が蓄積継承伝達するこの二つの記憶機能は、切っても切れない関係にあります。生体を構成する細胞の生命記憶は、生体内に張り巡らされた感覚網によって、存在記憶と繋がっています。

たとえば、喫茶店で出された紅茶の香りをかいだ瞬間、むかし体験した出来事をありありと思い出す、といった経験は、みなさんお持ちでしょう。この瞬間を「プルーストの特権的瞬間 - Le moment privilégié de Proust」と名付けた学者もいると聞きます。

ひと類はみな、この特権的瞬間を介して、生命記憶と存在記憶に繋がっています。嗅覚という生命記憶がなければ、紅茶にまつわる存在記憶を再生できないし、紅茶を味わったという存在記憶がなければ、匂いを嗅ぐという生命記憶にもつながりません。

表裏一体とはこのことです。

そして、ある個体が存在するあいだ、唯一無二のおなじ個体であるかぎり、この両者は、おなじ時間軸と空間軸を共有します。コインの表裏は、投げても転がしても、離れることはありません。生命記憶は存在記憶と、存在記憶は生命記憶と、常に、際限なく、有機的に連還しています。

メビウスの輪
この、同一の時空軸でくり返される表裏の際限ない連還は、メビウスの輪で説明されます。ひと類の記憶は、個体の生涯をかけて、ある時は生命記憶に、またある時は存在記憶に寄り添いながら、生命と存在のメビウスの輪の上を、歩き続けているのです。

観念の罠
この有機的な連還を阻害する無機的な存在記憶があります。生命記憶と時空を共有しない軸で造られた記憶、すなわち生体の記憶から遊離した無機質の観念です。

たとえば仏法は、観念の一つですが、生きる意味を問う、という、生体の生きる力と密接にリンクした考えですから、当然、有機的な存在記憶として、メビウスの輪で連還し続けるでしょう。

一方、唯物論に由来する観念は、生体との繋がりはありません。むしろ生命体をモノとして扱うために、生命記憶を全否定したところで成立する、無機質の観念です。

この唯物論で培った存在記憶は、無機質のため、有機質の生命記憶とは連還できません。
したがって、生命体である個体が消滅すると同時に、この存在記憶は消滅し、生命体の有機的共同体に受け継がれることはありません。

また、捏造された存在記憶も、生体記憶から切りはなされた無機質の記憶なので、個体が消滅すると同時に、これも消滅します。メビウスの輪は存在できないのです。

自分の存在記憶が、生命記憶に根差した有機質なのか、そこから解離した無機質なのか、つねに検証する作業が大切になるでしょう。

本棚:オムニバス連載
・白の連環:https://estar.jp/novels/25104280
・赤の連還:https://estar.jp/novels/26066319
・対馬の浮島:https://estar.jp/novels/26070505



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