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立花隆さんと17年間一緒に番組を作ってきた私が、大量の段ボール箱を前に考えていること

目の前に63箱もの大量の段ボール箱がある。立花隆さんが残した膨大な資料がつまっている。

立花さんは生前にこれらの資料を全て処分すると決断されていたが、ことし4月に亡くなったあと、ご遺族から私宛に託されたものだ。

「サイボーグ技術」「臨死体験」「がん」など、評論家の立花隆さんと一緒に私が制作した番組はこの17年間で17本に上る。立花さんと世界を6周半ほど回りながら何度も議論を重ね、楽しくお酒を飲み、時には怒られながら、ジャーナリストやディレクターとしてのあり方、人としての生き方にも影響を受けてきた。

「知の巨人」とよく呼ばれる。生涯に読んだ本は数万冊と言われる「膨大な量の読書家」だ。でも亡くなったあとなぜか家に一冊も本を残さず、お墓もつくらなかった。
立花さんは私たちに何を残そうとしたのか。

「非常識な人」との出会い 

立花さんと筆者

私は1997年にNHKのディレクターになり、主に「科学」や「文明」のあり方を見つめる番組を手がけてきたが、学生時代はアインシュタインにあこがれ、理論物理の研究者を志した。一般相対性理論、素粒子理論と宇宙の根源に向かう「美しい理論」にあこがれた。

若い天才研究者が出ることがある理論物理の分野では、学生が教授を「先生」と呼ぶ習慣がなく、互いに「●●さん」と呼び合う。上下の関係なく自由闊達な議論が重んじられるアカデミズムの世界に傾倒していた。

その一方で原爆投下後のラッセル・アインシュタイン宣言を読み、科学と人間社会との関係を深く考えるようにもなった。当時から立花さんが論じていた脳死判定基準の問題や、ターミナルケアや出生前診断の問題、そしてインターネットの持つ可能性や問題など、科学と倫理の議論にも強く興味を持って調べるようになった。

科学の分野には社会にきちんと伝えられていないことがたくさんあると思ってディレクターを志したが、どの問題にもなかなか手が届かずもがいていた。

一方、立花さんはといえば、田中金脈の追及によって、日本を代表するジャーナリストとなりながら、その後、宇宙飛行士の神秘体験などを描き大きく話題になった「宇宙からの帰還」に始まり、ノーベル医学賞を日本人で初めてとった利根川進さんに徹底取材し分子生物学の世界を詳述した「精神と物質」、「サル学」「脳死」「臨死体験」などテレビに雑誌にとあらゆる方面でその名前を見ないことはなく、徹底した取材とロボットから宇宙、分子生物学まで幅広いジャンルで第一線科学ジャーナリズムの分野でも日本の顔とでもいうべき存在だった。

私が初めてそんな立花隆さんの仕事場である通称「猫ビル」を訪ねた日のことは、今もはっきり覚えている。

私にとって初めての長尺のドキュメンタリー、NHKスペシャルを企画したときのこと。科学分野の番組で、脳の神経から情報を取り出してロボットやコンピューターなどで利用する「神経工学」と呼ばれる新たな分野に関する番組だった。
脳やロボット、コンピューター、あらゆる分野に詳しい人は立花さんしかいないと考え、面識もないのに、突然話を持ち込むことになった。

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立花隆さんの事務所 通称「猫ビル」

チャイムを鳴らすと秘書をされている妹さんが重い鉄製の扉を開けてくれた。私とプロデューサーは彼女の後をついて、狭いらせん階段を上っていった。コンクリートの打ちっぱなしの狭い階段沿いに本棚がびっしりと並んでいる。

2階の事務所で改めて妹さんにあいさつをすると、すぐにこんなことをおっしゃった。

妹さん
「説明は本人に直接してください。やるともやらないとも、本人が決めますから。興味があればいくらでもやりますけど、気に入らないと何か月もほったらかして、返事なし、なんてこともありますから。本当に『非常識な人』なんです。だから、何か言われても大先生、なんて恐縮しちゃダメ、言うべきことはビシッと言ってください」

当時の私は入局8年目で地方局から東京に移ってニュースの現場を経たあと、ようやく希望していたドキュメンタリー番組を作る部署に配属されて半年くらいたったころ。
「そんなことできるのだろうか」と、途方に暮れる思いで聞いていた。

「3階へどうぞ」といわれ、延々と続く本棚の間のらせん階段を進むと、ようやく立花さんの仕事場に到達した。

自分の脳内を体現するような、360度本に囲まれた部屋の中で仕事をしていた。

本の山の中にいた

「はじめまして」名刺を取り出しごあいさつすると、受け取って「はい」という短いお返事。

そこから大量の質問攻め

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「で、この技術はいつごろから始まったの?」

私が持ってきた提案を渡し、上司が番組の内容を説明し始めた。

今でこそ神経工学の分野は、「ブレイン・マシン・インターフェース」「ロボットスーツ」などとして大手企業も製品化し、一般化し始めている技術だが、当時はこの分野自体が一部の専門家以外にはほとんど知られておらず、本当に興味を持ってもらえるのだろうかと不安に思っていた。

ひととおり説明を聞き終わった立花さんから、次々に質問が繰り出された。

「で、この技術は大体何年ごろから始まってるの?」
「その大きなブレイクスルーの転換点は何ですか?」
「これまでのロボット技術などと何が違うのですか?」

私は必死に答えた。

「コンピューターの能力の向上と、電極という脳から情報を取り出すデバイスの進化がこれをもたらしました。この技術はかなりの速度で進展しており、私はこれが世界を変えることになる技術で、今その転換点にあると思っています」

すると彼は「電極」とはどういうものか、写真を見せろという。スマホもない時代、印刷しておいた資料をお見せした。

「これはどういう材料でできているの?」
「針の数で情報の数が変わるというのはどういうこと?」
「神経の数に対応するような電極は作れないんじゃないか?」

質問はどんどん専門的な内容に踏み込んでいく。「今度調べてきます」と、何度も答えることになった。

テレビの取材では「おおまかにわかりやすく伝えること」が大事だと言われてきた。専門的すぎる内容はテレビでは分かりにくいし伝わらないと。

だからこんなに事細かに聞かれるのは、それまでの人生を振り返ってもなかったことだった。知りたいことは何でも聞く、容赦ない“少年老人”との出会いだった。

最後に上司が「やっていただけるということでいいのでしょうか…?」と尋ねると、彼は手を差し伸べてこう答えた。

「やりましょう、もちろん」

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少年のような笑顔だった

そしてこう付け加えた。

「この番組、神経工学という言葉は固いから考えたほうがいいね。要は『サイボーグ』だよね」

こうして彼のもとへ日参する日々が始まった。

細部にこそ面白さが宿ってる

彼を訪ねる日の前日は、たいてい厳しい仕事になった。取材先に関する情報は、論文、ウェブページなどありとあらゆるものを求められるからだ。

印刷したものを取材先ごと、自分が目を通した重要度ごとに分類して、束にして整理して渡せるように準備する。

何かを聞かれても大丈夫なように、余分と思えるような補足情報まで印刷した。持って行く資料はたいてい大きな紙袋2つ分くらいになった。

でも全く苦ではなかった。準備すればするだけ、翌日の彼との議論は白熱してますます面白くなるからだ。

「細かいことこそおもしろい」

少年のように常に本当に知りたいことを伝えてくれる立花さんは、自分がそれまで考えていた「効率よく取材する」というような考えが恥ずかしくなるくらい、純粋な人だった。

よく言っていたのは、

「取材は微に入る細部にこそ面白いことが宿っている」

ということ。

だから資料が少ないと言われることはあっても、多すぎると嫌な顔をされることはなかった。

立花さんに説明する筆者

最初から6時間インタビューし続ける 

「サイボーグ」の番組で、立花さんと私たちは合計2か月に及ぶ海外取材を共にすることになった。

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「サイボーグ技術」取材中の立花さん、出演者、番組スタッフ


最初のインタビュー相手は、ネズミの脳の快楽中枢に電気信号を送ることでネズミを意のままに動かそうという「ロボラット」という技術を開発した、ニューヨーク州立大学のジョン・シェーピン教授だった。

どぎもを抜かれたのは、昼過ぎの取材開始からぶっ通しで数時間インタビューが続いたこと。最初の日は午後いっぱい時間をいただいていたのに、始まったら最後、インタビューは一度も切れ目なく取材が続いた。

終わったのは夜9時。休憩時間を除くと実に6時間以上聞いていたことになる。

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インタビュー中の立花さん

立花さんとの海外取材では、取材先を1日も切らしてはならないと日程を詰め込んだので大変だった。

ある都市で取材して翌日には移動して次の取材。時間もばらばら、早朝から深夜の移動まである。

立花さんは移動の機内で次の取材相手の論文を読むだけでなく、ホテルに置いてある新聞を数紙、必ず持って出てくる。

いつ読むんだろうと思うくらい、USA Today、NY Times、Financial Timesや地元紙、いくつも袋に突っ込んでホテルから現れるのだ。

移動の最中には「そういえばあの事件は、いったいどういう意味なんだろう?」などと言いながら現地の人間に話を聞いたりしている。

どれだけ何でも興味があるんだろうと、驚いてばかりだった。

若造に本気で怒ってくれた 

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スタッフにもしだいに疲れが

私がこの取材で一度だけ立花さんから強く怒られたことがある。

1日おきに海外の都市を転々として1か月が過ぎ、皆の疲労が極限に達していた頃のこと。

ディレクターは取材相手だけでなく、現場のクルーの思いをまとめ上げるのも大事な仕事だ。

しかし初めての海外取材、初めての立花さんとの番組作りなどさまざまな「初めて」が重なっていた私には、そうした人々をつなぎ止める力が不足し、ディレクターとしての指示も散漫になってクルーの思いがばらばらになりかけていたのだろう。

ある夜、立花さんはホテルから程近いバーに私を誘い、面と向かってお説教を始めた。

立花さん
「そろそろね、みんな限界に来ている。そういうときには、あなたがきちんと本当にやりたいことを言わないとダメなんだ。皆ばらばらになりかけている」

そして私の至らない点をいくつか指摘し、次のようなことをおっしゃったのだ。

立花さん
「僕らプロはね、プロのフリーの人間はね、いつでも仕事をやめたいと思えば自由にやめられるんだ。最後まで仕事を続ける義務なんてものはないんですよ。でも、それをやめないのはなぜか分かる?NHKの人は、一度始めたら最後までやりきらないとダメでしょうが、我々は一度始めたことだからやり続けなきゃいけないなんていうことは僕らにはないんです。だから本当に面白いものを作る、それがあるから一緒にやるんです。興味があって面白いものを作る、そこが一致団結しなかったらダメなわけ」

フリーの世界で、一人で生きてきた立花さんが、心から私に諭すためにおっしゃっていると感じた。

自由に生きることの意味、番組を作るとき何に責任を持つべきなのか。そういう場で生きるときの覚悟として、面白さをきちんと共有できないとダメなんだと、私に教えてくれているのだと思った。

その後も多くのフリーの方と仕事をするとき、このことばは今も私の基本になっている。どんな立場の人も面白さならつながれるし、最後まで一緒に貫徹できる、そのことを立花さんから身をもって教わったと思う。

取材は謙虚に、制作は自由に

この番組でもう一つ教わったのは、自然への畏敬、研究者や取材対象への限りない尊敬の念を持つことの大切さ、そして対等に議論することの大切さだ。

この番組を作る過程で「こんな取材先がある、あんな研究がある」と多くの相談をした。

多くの場合は意気投合してぜひ取材しようとなったのだが、「こんなところは取材すべきじゃない」と立花さんが強く主張した取材対象があった。

「人工海馬」を作り上げたとする、南カリフォルニア大学・神経工学センターの所長を務めていたセオドア・バーガー教授への取材だった。

長期記憶に欠かせない脳の機関である「海馬」の機能を、シリコンチップで模倣する仕組みを作り出したというもので、この人工海馬が本物の代わりとなる事が可能になれば、事故や病気による記憶障害に苦しむ人々が救われるかもしれない。

しかし立花さんはこの取材に強く反対した。脳の複雑な仕組みを単なる電気関数で補えるわけがない、という理由だった。

人間が作るシリコンチップの複雑さを遙かに凌駕するのが脳の組織であり、簡単にそうしたものを設計できるはずがないという意味だったのだろう。

そこには自然の生み出した脳のような神秘の組織に人間が追いつけるわけがないという、立花さん流の技術への謙虚さ、懐疑精神があったのだと思う。

しかしひよっこだった私にも意地があった。これは番組で紹介する意義があると、生意気にもこう反論したのである。

「今はまだ仕組みが粗雑で機能しないかもしれません。しかし、脳の機能までチップが代替できるかもしれないということは大きな衝撃があると思います。単に脳から信号を取り出して機械が利用するというだけでなく、脳そのものも機械で置き換えられるかもしれないという示唆を与える、良い取材先なのではないでしょうか?」

しばらく沈黙があった。意見が真っ向からぶつかったのは初めてだったので機嫌を損ねたのではないかと、私も押し黙ってしまった。

立花さんの答えは「そこまで言うなら行こうか。まあ、あなたが番組のディレクターなのだから」だった。

圧倒的な力の差があっても、「怒り」も「意見」も常に対等な立場から発して下さった。

社会に出るとよくポジショントークや、上下関係を重視した状況が生まれる。自分も10年弱だが社会人の経験からそうした感覚が染みこんでいた。

でもこの一件のあとは、学生時代に先生でも対等に「●●さん」と呼んで議論をしていた感覚がよみがえり、だいぶ自由に立花さんにものが言えるようになったと思う。

社会の中で面白いものを作るために、取材は尊敬の念を持って、そして作るときは自由闊達に立場に関係なく徹底して議論する。そのことの大切さを立花さんは自分に理解させてくれたのだと思う。

夜遅くまで議論しました


深夜に立花さんから電話→激論の日々

番組が終わったあとも、シンポジウムをやるからとか、取材に一緒に来ないかとか、なんやかやとお誘いいただくようになった。

立花さんからの電話は、たいてい深夜に突然かかってくる。

夜中に突然電話で「君、二光子顕微鏡って知ってる?」と聞いてこられる。

「何ですか?」と聞くと「生きたまま脳のシナプスが伸びる様子が見られるんだよ」と興奮しておっしゃる。

いつも専門的な内容で、こちらがついて来れないと分かると切ってしまう。私も勉強しながらがんばってついて行くようにした。

すべての話が面白く、お互いに電話越しに興奮してそれは面白いぜひ取材しましょう!といって切ることがたびたびあった。

そしてもちろん何かの報告を持って行くときには、大量に印刷した資料や論文が「手土産」になった。

自分のがん手術も「すごくおもしろかった」

立花さんは物事を知るために自ら体験することをとても大事にしていた。先の「サイボーグ技術」の番組の時には、触覚を人工的に作り出す実験に参加してくれた。

腕の神経に針電極を刺して電気信号を与えると触覚を感じるかどうかを試すのだが、そうした自分を傷つけかねない実験も「やってみます」と屈託なく応じていた。

カメラの前でも「ああ、感じます」などとおっしゃっているのだが、終わってどうだったのか不安に思って尋ねると、「すごく面白かったよ。君もやってみたら?本当に」と強く勧められたのはさらに驚きだった。

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自らのがん手術をモニターで見る立花さん

「がん」になったときの立花さんの姿勢は、その最たるものだったと思う。

2004年の末にがんになったことを秘書から聞いていたが、その数日後に「全部撮れるから来ないか?」と誘われたときはさすがに混乱した。

手術当日にカメラクルーと自宅に伺うと、がんだということが信じられないくらい、道中も興奮して話し続ける。

「トイレで血尿が出て、それでおかしいというので病院に行ったら、あ、これがんですって。もう、あっという間ですよ。」

病院に着くと、医師からの説明も淡々と聞いている。

「これが、がんですね。」

エコーの画像を示しながら医師が告げる。

立花さん「これが、良性の腫瘍でなくて、がんでございって言うのはどういう風に分かるんですか?」

「それは経験です。顔つきを見れば分かります」と、平成天皇の膀胱がんの手術も担当した北村教授が語る。
立花さんは手術前の説明でも心配する様子などなく、まるでがんとは何かを知る取材のようだった。

全身麻酔にするか部分麻酔にするかと聞かれて迷わず部分麻酔を選び、手術の過程を見たいとおっしゃった。

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がん手術を終えた立花さん

手術後に「あの映像もらえるのかな?すごくおもしろかった」と言われたことは今でも忘れられない。

人には死ぬ力がある、死ぬまで生きる力がある

このときの病院での撮影の後、立花さんともっと広い、がんについての番組を作ろうということになった。

NHKスペシャル「立花隆思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む」(2009年放送)の取材と制作の過程で起こったある騒動が、立花さんの覚悟を私に教えてくれた。

それは自分の病気さえ「興味」の対象にすることについての徹底した覚悟だった。

番組の提案から採択にたどり着くまで、長い時間がかかることがある。この番組もそうだった。そのため私はがん手術の撮影後、何度か企画段階から立花さんの元を訪れ、内部の提案でこのような番組を目指したいと説明していた。そのつもりだった。

ところが提案が採択され、本格的に取材が始められる段階になったとき、私がつくった企画文書を見た立花さんは「こういう番組なら作りたくない、降りる」と言い始めたのだ。

文書には「立花さんのがんの闘病」「がんのメカニズム」「最新治療法」を伝えたいと書いていたのだが立花さんは、

「あなたね、がんというものが治せると本気で思ってるの?」

そう言って一冊のブルーバックス「がん治療の常識、非常識」を示し、これを読んで出直してこいと言う。そこにはがんがある段階に達すると完治が非常に難しくなること、抗がん剤には限界があることが書かれていた。

出直した私が「がんがどうして克服できないかを徹底して取材しましょう」とお伝えすると、初めて議論のテーブルについてもらえた。

彼の興味は、自分が助かる治療法を見つけることなどではなかった。がんの正体を徹底して知る、それが彼の「覚悟」だったのだ。

一度決めたその覚悟はその後も決して揺らがなかった。抗がん剤専門医の集まる「がん治療学会」から講演を頼まれたときもそうだった。抗がん剤の延命効果があったと有効性を伝える講演が続く中、立花さんは冒頭からこう語った。

「私は全然頑張るつもりがないがん患者です。QOLを下げてまで数ヶ月の寿命を延ばしたくはない」

遠慮のない覚悟を伝える講演だった。
番組の放送前には、絶望的な内容を放送して良いのかと内部で議論になった。

しかし立花さんの覚悟は揺らがず、番組の最後にこう語った。

「人には死ぬ力がある、死ぬまで生きる力がある。そのことががんを克服することではないでしょうか」

番組の結論を批判する声は驚くほど少なく、「勇気づけられた、決意ができた」という声が大多数だった。おそらく立花さんは最初からがん患者の気持ちを理解していたのだろう。淡い期待を伝えるくらいなら正面から事実を示す、その覚悟を持てと、ともに取材した私に伝えようとしていたのかもしれない。

若者たちに必ず伝えた「見当識」

晩年の立花さんは、若い人たちにたくさんの講演をするようになった。

学生たちに繰り返し語っていたのは、
「何を食べたかで体が作られるように、何を吸収したかで脳が作り上げられる。脳を鍛えて、若い人たちが自分で考えるしかない」ということだった。

そして必ず伝えていたことばが「見当識」
今どこにいて、どこから来て、私たちはこれからどこに行くのか、そういう現在地点をしっかり理解しろ。

立花さん自身も、自分が何を知らないのか、そして何を知っているのかを常に意識し、そのうえで知らないことに常に謙虚に向き合い、知ろうとし続けていたからだと思う。

膨大な情報があふれて、自分の興味がともすると狭まってしまう現代において、あらゆるものに目を向けて興味を持ち続けることこそ求められているこのだと、私たちに教えてくれている。

託された段ボール63箱の資料

立花さんの晩年、私は彼の経験した人生をきちんと聞き取りたいと、仲間たちと勉強会を開いていた。その勉強会のさなか、コロナが感染拡大を始めていた去年春、立花さんは突然入院した。

私が最後に話をしたのは11月の電話だった。

入院中につながった短い電話が私の聞いた最後の肉声だ。

「まだ勉強会の続きを、お電話でも、リモートでもしたいと思っています。お体の加減はいかがですか?」

いつになく弱気な声が聞こえてきた。

「あの、すぐに退院できるっていう見込みってある?何か聞いてる?そういう見込みはないんじゃないかなあと思う…」

秘書の方から聞いたお話によれば、立花さんは入院の際にあらゆる検査を拒否したのだという。

そして、コロナ禍の4月30日。会うことさえできないまま、立花さんは静かに亡くなった。

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亡くなったことを聞いた時、私はしばらく現実を受け止めきれず、何をする気力もなくなった。本当にかけがえのない人をなくしたと思った。

立花さんは常々こうおっしゃっていた。

「人間には死ぬ力がある。だから死ぬまでちゃんと生きることが大事だ」

ずっと追いかけてきた臨死体験があるのだろうか、少年のように「死」すら正面から向き合って最期まで生きたのだろう。

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立花さんの遺族から託された63箱の資料

今、私の手元に残された63箱の資料が残されている。膨大な音声や映像記録、そして取材メモなどで、立花さんが何を考えてこれほど膨大な分野に向き合おうとしたのかが少しずつ見えてきている。

立花さんが宇宙、宗教、芸術、科学といった膨大な分野になぜ取り組めたのか、一見ばらばらなテーマがいかに有機的につながっていたのか、それらのどこに興味を覚え、なぜひもとこうとしたのか、その答えを探していきたいと考えている。

立花さんがギリシャ・ローマの遺跡を巡って書いた「エーゲ・永遠回帰の海」の中にこんな一節がある。

「記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体に比べたら、宇宙の総体と比較した針先ほどの微少なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に飲み込まれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に飲み込まれてある。」

「見えた、何が、永遠が。かつてそう書いて詩人を廃業した詩人がいた。永遠を見る幻視者たりたいと思うが、それを本当に見るのは怖いような気もする」

今、立花さんが仕事の根城としていた猫ビルは空になりつつある。墓碑銘も刻まない樹木葬を選んだ立花さんは、あらゆるものを見たい、知りたいと思いながら、なぜその境地に至ったのか。

資料を読み解きながら、立花さんが追い求めた夢とその最後の境地を私も知りたいと思いながら、追いかける取材を日夜続けている。

岡田朋敏
仙台拠点放送局 シニアディレクター
1997年入局。科学や文明のあり方を見つめる番組を制作し取材している。
他の主な番組はNHKスペシャル「神の数式」「シリーズ・ネクストワールド」「シリーズ2030」など。



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