![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/62927510/rectangle_large_type_2_49b888780ba65bd649491e2140b81a93.jpg?width=800)
「銅メダルで悔し涙」こそ伊藤美誠の卓球人生 10年分の取材ノートに書かれた伊藤美誠のすべて
伊藤美誠選手と初めて会ったのはもう10年余り前、彼女がまだランドセルを背負ったあどけない小学生のとき。
当時の私の取材ノートには
「サ ーブおよそ20種類」
「22:00すぎまで。寝るのは24:00」
などと書かれている。
![伊藤美誠 ノート画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/62598420/picture_pc_7a30bf49fbb5a7b338e4ff324e340cdf.jpeg?width=800)
すごい小学生だ…と思った。
常に「普通じゃない」プレーを追求し続けた彼女は瞬く間にトップアスリートになり、「一番きつかった」時期も乗り越えて、東京オリンピックの大舞台で日本卓球界初の金メダル、という快挙を混合ダブルスで成し遂げた。
でも私の心が動かされたのはそのあとのシングルス、銅メダルを決めた直後に彼女が流した涙のほうだ。この涙こそ、伊藤美誠の卓球人生そのものだと思ったから。
「誕生日が遅い彼女のほうを取材しよう」
初めて伊藤美誠選手と出会ったのは忘れもしない、2010年12月24日のクリスマスイブ、静岡の彼女の自宅だった。
そのころ私は初任地の徳島放送局から東京のスポーツニュース部に異動したばかり。ラグビーとかバレーボールとか10ほどの競技を1人で担当し、ルールを覚えるだけで精いっぱいで、スポーツ取材に四苦八苦していた。
担当競技のなかに卓球もあり、全日本選手権の注目選手を協会の担当者が解説してくれる勉強会(そういう会があるんです)で、初めて伊藤美誠選手の存在を知った。
当時の女子シングルスの最年少勝利記録は、小学5年生だった福原愛選手の11歳1か月。ともに小学4年生で出場する伊藤選手と平野美宇選手が勝てば、この記録が11大会ぶりに更新される。
伊藤選手は10月生まれ。平野選手は4月生まれ。
2人とも勝った場合は誕生日が遅い伊藤選手のほうが最年少記録になる。大会前に放送する取材リポートで、伊藤選手を中心に紹介しようと決めたのはそんな「誕生日」が理由だった。
ホームページにあった静岡県卓球協会にさっそく電話して、事務局長に取材の趣旨を説明し、伊藤選手の母親の美乃りさんに連絡をとってもらって、12月24日の訪問が決まった。
ぜんぜん普通じゃなかったクリスマスイブ
今回このnoteを書くにあたって当時の取材ノートが残っていないか、実家の母に連絡して探してもらった。転勤で引っ越すたびに捨てることができない荷物を実家に送っていたので、もしかしたらその中にあるんじゃないか。
1時間後に母から「見つかった」と連絡が入り、すぐに郵送してもらった。
![取材ノート表紙2010.8~](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/62929746/picture_pc_ed6c2bc82825f70f76039b104367eca8.jpg)
久しぶりに目にした当時の私のノート。表紙に「取材ノート 2010年8月~2011年4月」とある。
![ノート 性格いけいけ アップ画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/62774727/picture_pc_f167c5acf70ab79a28f9b53b6c829da0.jpeg?width=800)
(ノートの 2010年12月24日のページ)
母親の美乃りさんに話を聞きながら
「2歳後半で卓球を始めた」
「負けず嫌い」
「性格はイケイケ 勝負を急ぐのであえて嫌な練習をする」などとメモをしていると、「ただいまー」と元気よく女の子が帰ってきた。
当時小学4年生の伊藤美誠選手。
![ランドセル伊藤美誠 アップ画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/62774742/picture_pc_b79eddc92e396ca2c9da4b51fc2fc756.jpg?width=800)
第一印象はどこにでもいるかわいらしい小学生、でもランドセルを置いた瞬間、印象が一変した。
帰宅して早々にリビングの真ん中に置かれた卓球台で、美乃りさんとマンツーマンの練習が始まった。
![伊藤美誠小学生訓練ロゴ入り](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/62927544/picture_pc_d9a63d6566914accc6f92ad88ab33ac5.jpg?width=800)
練習はそのまま2時間続き、夕ごはんを食べたあとでまた再開。午後10時まで。クリスマスイブなのに!
ぜんぜんどこにでもいる小学生じゃなかった。
「練習」ではなく「訓練」って?
当時の取材で驚いたことが2つある。
まず美乃りさんが「練習」のことを常に「訓練」と呼んでいたこと。
「練習って言うと、試合とかけ離れると思うんです。アスリートは試合を想定してすべてにおいて仕上げないといけない。だから、練習ではなく、訓練なんです」(美乃りさん)
話を聞いただけだといまいちピンと来なかったが、実際に自宅で「訓練」の様子を取材させてもらって納得した。
ラリーを200回ミスなく続ける。ミスが出れば容赦なく最初からやり直し。苦しくても達成するまで終わらない。まさに「訓練」そのもの。
![伊藤美誠 母とのラリー アップ画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/62774789/picture_pc_2f7917ea5c7073259f47046c7dfaad21.jpg?width=800)
(母親との「訓練」風景)
小学生の子どもがこれだけ厳しくされたら普通は親や卓球が嫌いになるんじゃないかと心配したが、当時から伊藤選手は母親を信頼して、「訓練」を楽しんでるようだった。
「この親子、ただ者じゃない」
そう感じたと同時に、ここまで厳しく接しても親子関係が壊れないのは2人の間に「強くさせたい」「強くなりたい」という共通の明確な目標があるからだということも実感した。
「愛ちゃんを抜かして、もっと上に立ちたい」
もう一つ驚いたのは、伊藤選手のインタビューの受け答えだ。
初任地の取材経験から、小学生というのは普段は元気いっぱいでもカメラを向けたとたん緊張して、質問に「はい」とか「いいえ」しか返ってこないことが多かった。
でも彼女はカメラを前にしても全く動じないでひとつひとつの質問にきちんと考えながら、自分のことばで話してくれた。
母親の美乃りさんは伊藤選手に自分のことばへの責任を持たせようと、小さい時からインタビューは1人で答えさせ、決して手助けしなかったそうだ。
![伊藤美誠 小学生 ロゴあり](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/62776094/picture_pc_5dd718d9eb2f5baf5c2a9b65d89ab18f.jpg?width=800)
「『愛ちゃんを抜かせる』ってみんなが言っているので、美誠も愛ちゃんを抜かして、もっと上に立ちたい」
この”宣言”どおり、5日後の全日本選手権で伊藤選手は最年少の勝利記録を更新した。
そして1年半後の小学6年生の夏、彼女は福原愛選手などが女子団体で銀メダルを獲得したロンドンオリンピックを現地で観戦し、そのときの思いを作文にこう書いた。
「私は2016年には(オリンピックに)出場して、2020年には団体優勝、個人戦で優勝したいと思いました」
この”宣言”から、伊藤選手にとっての「東京オリンピック金メダル」は明確な目標になった。
「吉本さん!お久しぶりです!」
私はというと2011年の全日本選手権のあと、卓球以外に体操などの取材にも追われ、伊藤選手を取材する機会はなくなっていったが、違った形で交流は続いていた。
伊藤選手は平日は静岡の自宅で練習し、週末は県外に遠征して、強豪校の年がずっと離れた高校生などに混じって練習していた。東京都内の高校に来ることもあり、私が東京駅から山手線で同行することが何度かあった。
2013年、伊藤選手は中学進学と同時に練習拠点を静岡から大阪に移し、私はロンドンオリンピックの後、記者職を離れて広報部に異動した。
美乃りさんとメールのやりとりをさせてもらうことはあったものの、3年以上、直接会うことはなかった。
再会したのは2016年8月、私が再び記者として大阪放送局に異動した直後だった。
当時リオデジャネイロオリンピックで、大阪の高校1年生だった伊藤選手は女子団体で銅メダルを獲得した。デスクから、大阪ゆかりの選手の活躍を放送したいので、インタビューの交渉をしてほしいと頼まれた。
小学生の時は美乃りさんに直接連絡して取材の申し込みができたが、オリンピック選手になった今は、マネージメント会社を通さないと取材できなくなっていた。
マネージャーの連絡先を調べてインタビュー取材の申請書を送ると、メディアの取材にまとめて対応する日に、取材を受けてもらえることになった。
うれしさと同じくらい、不安な気持ちがあった。
伊藤選手は私のことを覚えてくれているだろうか。
小学生だった彼女は今やオリンピック代表選手で、多くのメディアから取材を受けるトップアスリートの一人。私が取材現場から離れていた間に何十人という記者から取材を受けていただろうし、私のことなんて覚えていなくてもしかたない。そう自分に言い聞かせて大阪から新幹線に乗り、東京駅近くのインタビュー会場に入った。
「お久しぶりです…」
銅メダルを首にかけた伊藤選手に恐る恐る声をかけた。
![銅メダルを首からぶらさげ登場 アップ画像 2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/62776295/picture_pc_42e01d44892ecd1664fb5bf3708cecbc.jpg?width=800)
「吉本さん!すごい久しぶりですよね」
「覚えていてくれたの?」
「もちろんですよ!取材申請の紙に『NHK吉本』って書いてあって、もしかしてあの吉本さんかなって思ったんですよ」
ものすごくうれしかった。
そして小学生のころと変わらず、自分のことばでハキハキとインタビューに答えてくれた。
初めてのオリンピックの舞台にも「緊張せず、楽しかった」と笑顔で言い切った。その理由が伊藤選手らしくておもしろかった。
![伊藤美誠 銅メダル 笑顔インタ アップ画像 2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/62776713/picture_pc_4fdf564eb110b591c80b18651c0a6202.jpg?width=800)
「卓球以外だったらいろいろ緊張するんですけど、卓球では緊張しないんです。卓球には自信があるからかな。怖いもの知らずで卓球では怖いことがなくて。小さいころからお母さんとたくさん練習して、やっぱりお母さんがすごい怖かったから、何かが怖いっていうのは感じなくなりました」
美乃りさんが「訓練」と呼んでいた自宅でのあの練習が、技術面だけでなく精神面でも伊藤選手を強くしていたのだと、このとき知った。
このインタビューから東京オリンピックに向けて5年間、私は伊藤選手を追い続けることになる。
※※※※※※※※※※
ここまで読んでいただきありがとうございました。続きの中編、後編はこちらでご覧いただけます。
吉本有里 スポーツニュース部2005年入局。初任地は徳島局。徳島の温かい人たちに囲まれて充実した5年間を過ごす。スポーツニュース部に異動し、2012年のロンドン五輪では、卓球女子団体の銀メダルや体操の内村航平選手の個人総合金メダルなどを現地で取材。その後は広報部で3年間、取材される側を経験し、取材を受ける人たちの気持ちも学ぶ。2015年に記者に復帰。大阪局ではフィギュアスケートなどを担当し、2018年のピョンチャン五輪を現地で取材。2018年7月から現在の部署に所属。ストレス発散はおいしいお酒とおいしいご飯。
![吉本記者画像 note](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/62599065/picture_pc_5755913efe047e52ec8e2acd0052d902.jpeg?width=800)
![画像11](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/63382509/picture_pc_3c13fb0104566d3810a4b655227a8bb0.jpg?width=800)
吉本記者がこれまで担当した番組や記事はこちらです。