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「医者によって子どもの運命が変わる」日本の医療の現実、娘のため「当事者」になった私は一線を踏み越えた

記者は取材すべきことを、客観的に見なければならない。だから、当事者は取材に関わるべきではない。そう思い続けてきた。

記者になって10年以上が経過し、その考えが変わったきっかけがある。

わが子が小児がんを患ったことだ。

娘は小学1年生の時に小児脳腫瘍を発症した。彼女の闘病生活、そして同じ病と闘う子どもたちを見て、私は初めてこの国の小児がん医療の現実を知った。

“かかった病院や医師によって、その子の運命が変わってしまう”

この現実を何としても変えたいと思った。ただ、当初は患者の父親という「当事者」の自分が取材するべきではないと考えていた。

しかしさまざまな人とのつながりに導かれるように、私はその一線を越えていくことになった。

「事件記者として生きていく」はずだった

1993年に記者になった私は、これまでの記者生活のほぼ半分を事件取材に費やしてきた。

初任地の札幌で過ごした5年のうち、4年は警察・司法を担当した。次に赴任した東京の社会部では、警視庁の捜査2課・4課を3年担当した後、さまざまな事件や社会問題を取材する「事件遊軍」の担当になった。

その間には強盗、殺人、詐欺、贈収賄、さらには誘拐事件やハイジャック、北朝鮮による拉致事件から外交機密費の横領・詐欺事件まで、さまざまな事件を取材する機会に恵まれた。「恵まれた」という表現は語弊があるかもしれないが、記者は経験によって育てられる部分が大きい。そういう意味では、やっぱり恵まれていたのだと思う。毎日の夜討ち朝駆け、神経をすり減らす事件関係者への取材など、つらいことも多かったが、一方で困難な取材を乗り越えた時の達成感や、やりがいも感じていた。

事件を報じることについて、
「視聴者の知る権利に応えたい」
「捜査当局という権力を監視したい」
といった、格好のいい理由がなかったわけではない。ただ突き詰めて考えると、新聞社や民放など他の報道機関にも、局内の同僚にも、
「誰にも負けたくない」
という思いが強かったのかもしれない。そんな競争の中に身を置くことに魅力も感じていた。

だから記者になって15年が経過するまで「自分は事件記者として生きていく」と思い込んでいた。

異常なのどの渇き

娘に異変が現れたのは、東京社会部から神戸局に事件デスクとして赴任した2005年の夏、JR福知山線の脱線事故が起きた3か月後だった。

記者たちの夜回り報告を受けてから深夜に帰宅する、相変わらず事件のことばかり考える日々。そんななかで、当時6歳だった娘に異変が起き始めたのだ。

小児脳腫瘍発症前・理咲子1S (1)

昼夜を問わず、娘が喉の渇きを訴えるようになった。夏の神戸は東京よりも暑いとは感じていたが、それにしても異常なほど飲み物を欲しがり、飲むとすぐにトイレに行きたがる。トイレの回数も極端に増えていた。

当初、私も妻もそれほど深刻には考えていなかった。転勤による引っ越しで生活環境が変わったことが、精神的に影響しているのではないかと思っていたからだ。

「神戸の生活に慣れれば治まるだろう」
そう思っていたが、娘の多飲多尿の症状は治まるどころかどんどん激しくなっていった。

はじめは自宅近くの小児科に連れて行ったが、医師からは「精神的なものではないか」と言われるばかりだった。いくつかの病院を回った後、地元でも評判の総合病院を紹介してもらい、そこで詳しい検査を受けた。

検査で判明したのは、脳の奥にある下垂体という器官に何らかの異常があるということ。下垂体は尿をコントロールするホルモンを分泌しているため、多飲多尿を引き起こしているのだろうということだった。ここでも医師からは「定期的に検査をしながら、しばらく様子をみましょう」と言われるだけだった。

「5年間、生きられる確率は60%です」

それから数か月後、詳しい検査によって娘の脳の下垂体異常は悪性腫瘍だと判明した。小児がんの一種「小児脳腫瘍」という診断だ。この時の衝撃は今でもよく覚えている。

「娘さんは悪性の脳腫瘍です。とても難しい治療になります」

医師にそう告げられると、私は目に入ってくる景色の色が消えていく感覚に襲われた。

「娘の命は助かるのでしょうか」

「5年間生きられる確率は、60%くらいです。とにかく頑張りましょう」

なぜこんなことになったのか。最初の病院を受診してから1年近くが経過していた。親である自分たちがすぐに気づくことができれば、こんなことにならなかったのではないか。いろいろなことが頭をめぐった。

小学1年生になっていた娘が、これから抗がん剤や放射線による厳しい治療を受けなければならない。娘を助けることができるのだろうか。

娘の前では平静を保ちながらも、寝静まった後に、妻と深夜までこれからのことを話し合った。なぜ早く気づいてやることができなかったのか。治療費はどれくらいかかるのか…。

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その翌日だったと思う。久しぶりに娘とお風呂に入っている時だった。2人で湯船につかっていると娘が突然、泣き出したのだ。

「パパ、病気になっちゃってごめんなさい、本当にごめんなさい」

妻との深夜の会話を、寝ていると思っていた娘はきっと聞いていたのだろう。自分が病気になったせいでパパとママを苦しめている、それを泣いて謝っていたのだ。

「絶対に治すから大丈夫、なにも心配いらないよ」

私は精いっぱいの笑顔を作ってそう言いながら、ふざけて娘とお湯をかけ合った。内心は娘にこんな思いをさせてしまったのかと、親として本当に情けなくなりながら。それと同時に、絶対に娘を助けるんだと決意した。

余談だが、私は娘の治療が始まる時にタバコをやめた。それまでは1日、2箱以上吸うヘビースモーカーだった。やめる決心をしたのは、いわば願かけのつもりだった。信心深いわけではないけれど、娘を助けてもらうために神様に差し出せるものは、大好きなタバコくらいしかないと考えたのだ。

禁煙を始めたものの、毎晩のようにタバコを吸ってしまった夢を見た。そのたびに、汗だくになって目が覚めるという繰り返し。吸いたいとまったく思わなくなるまで地獄のような苦しみを味わった。それから14年、私はタバコを1本も吸っていない。いや吸えないのだ。そんなことで、神様に見限られたくない。

抗がん剤治療が始まったが

2007年7月、娘の抗がん剤治療が始まった。

この病院は親でも夜間は付き添うことができなかったため、妻は夜になると自宅に戻り、翌朝、病室に行って1日付き添う。私も時間を見つけては病院に向かうという生活だった。

治療が始まって数日が経った早朝、病院からの電話で目が覚めた。娘の容態が急変したので、予定していた抗がん剤治療は中止したという連絡だった。

夫婦であわてて病院に駆けつけると、担当医がその上司とともに深々と頭を下げ、容態の急変を詫びた。容態は回復したが、今後は抗がん剤治療の予定を変更して様子を見るという。

私も妻も大きな不安を覚えるようになった。この担当医は、癖なのかもしれないがいつも首をかしげていて、それがさらに不安を募らせた。検査のデータを見ては首をかしげ、こちらが質問すると首をかしげ、明確な答えが得られない。

「このままでは娘を助けることはできない」

そう感じた私は、娘を助けたい一心で別の病院を探した。探すといっても医療関係者にツテがあるわけではない。頼りはインターネットだけだった。そこである医師のホームページが目にとまった。

ある医師との出会い

ホームページを公開していたのは、当時、北海道の大学病院に勤務していた脳外科の澤村豊医師だった。驚いたのは、小児脳腫瘍に関する知識の豊富さ。当時、どのページと比べても圧倒的な情報量だった。ホームページには澤村医師個人のメールアドレスが載せてあり、「相談を受け付ける」と書いてある。

私は返事が来るかどうか半信半疑のまま、すぐにメールを書いた。
娘の治療に関して知りたいこと、治療を受けている病院に対して疑問に思っていることなど、長文のメールを送った。

すると驚いたことに、次の日の早朝、メールに記しておいた私の携帯番号に澤村医師から電話がかかってきた。そして私の疑問に次々に答えてくれた。

「こちらの病院に来て話をするかい?」

「すぐにでも伺います」即答した。

休暇を取って向かった札幌の大学病院で、私は予約の時間より1時間ほど前から待合室に入り、順番が来るのを待っていた。ところが予約時間が過ぎ、1時間、1時間半と経過しても一向に呼ばれない。

周囲を見渡すと、ほかの患者さんも文句ひとつ言わずに静かに自分の順番を待っている。別の医師の待合室と比べても、1人の患者にかけている時間が明らかに長いのだ。結局、別の医師の待合コーナーからは患者がすべていなくなっても、澤村医師のところでは患者が待ち続けていた。

近くにいた患者に聞いてみた。
「いつもこんなに待つのですか?」

「いつもですよ。先生は話をしっかりと聞いてくれるんです。自分の番でも話を聞いてほしいから、誰も文句なんて言わないんですよ」
と、穏やかな顔で答えてくれた。

私が呼ばれたのは、もう日が暮れたあとだった。澤村医師は改めて娘の脳腫瘍とその治療方針について、詳しく話をしてくれた。じっくりと時間をかけての説明は、何より娘の将来に期待を抱かせてくれるものだった。

神戸から札幌に転院させるとすれば、自分の仕事はどうなるのか…いや、そんなことはどうでもいい。とにかく、この医師に託したい。

私は迷うことなく、治療を引き受けて欲しいとお願いした。

家族が離ればなれに

神戸に戻った私は、すぐに娘を札幌に連れて行こうと妻に話した。

妻は戸惑いを隠さなかったが、懸命に説得すると同意してくれた。

この時、私は仕事をしばらく休んで、娘のそばにいようと考えていた。当時まだ3歳だった息子の世話もある。家族みんなで札幌に行って娘と一緒に闘おうと提案したのだ。しかし、妻にはこう言われた。

「心配な気持ちはわかるけど、あなたがベッドの横で心配そうな顔をしていても娘が治るわけじゃない。それよりもこれからどれだけ経済的な負担があるかわからないのだから、神戸に残って仕事をしてください」

確かに妻の言うとおりだと思った。

2007年8月、娘は神戸の病院から、札幌にある大学病院に転院した。
娘を連れて妻と一緒に初めて脳神経外科の病棟に入った時のことはよく覚えている。患者の中には大人だけではなく子どもも少なくないためか、病棟には子どものためのプレイルームも用意されていた。そして何よりも病棟の雰囲気がとても明るかったのが印象的だった。談笑する患者と看護師、患者に笑顔で話しかける医師たち、厳しい治療に向き合っているという悲壮感をほとんど感じなかったのだ。それがどれだけ私と妻の気持ちを前向きにさせてくれたことか。

娘を病室に置いていくのは心が痛んだが、翌朝、面会時間が始まってすぐに病室を訪ねると、娘はベッドの上にちょこんと座って、ニコニコと笑っている。

「どうしたの、何か良いことでもあった?」

「すごく朝早くに先生がここに来てくれたんだよ。先生はね、私の病気をたくさん治したことがあるんだって。だから、なんにも心配いらないからねって言ってくれたんだ」

こんなに嬉しそうな娘を見たのは久しぶりだった。

澤村医師は、面談で治療方針を詳しく説明してくれた。どんな質問をしても丁寧に答えが返ってくる。当時の日記を読み返すと、私たちに3時間近くも費やしてくれていた。この面談で、妻も澤村医師のことを信頼したようだった。ここでなら、きっと大丈夫だ。

理咲子とママ、食事中② (1)

私は神戸に帰り、事件デスクの仕事に戻った。それからは毎晩、妻に電話をかけて状況を尋ね、休みが取れれば札幌に行くという日々の繰り返しとなった。

娘と妻が札幌にいる間、息子は東京にいる姉の一家が預かってくれた。息子の住民票を移し、保育園を探し回ってくれたが空きが見つからず、共働きだった姉夫婦は託児所に預けて仕事をしていたという。姉には同じ年頃の2人の息子や少しお姉さんの2人の娘がいた。そこに私の息子まで面倒をみてもらったのだから、苦労をかけたと思う。息子には寂しい思いをさせたが、姉一家が家族のように息子と接してくれたことがありがたかった。

札幌で治療を受ける娘と付きそう妻、東京で姉の家族とともに暮らす息子、そして神戸に残って仕事を続ける私。一家が3か所に離れ離れになって暮らす生活が続いた。

半年後、娘は退院した。

理咲子とママ① (1)

抗がん剤治療によってすっかり髪の毛が抜けてしまったが、ウィッグをつけて元気に小学校にも戻ることができた。ただ、治療による「晩期合併症」がどれほどのものになるか、まだ全く見通せなかった。

小児がん治療の「現実」

小児がんは、子どもが亡くなる病気のなかで最も多い。

小児脳腫瘍のほか、白血病や神経芽腫、骨肉腫などさまざまな種類がある。年間に発症するのは2000人から2500人と言われ、決して多くはない。娘が治療を受けた14年前は、がんの種類にもよるが、医療機関によって治療法がバラバラという状況だった。

娘の新たな主治医になってくれた澤村医師のもとには、全国から相談のメールが寄せられていた。当時、その数は年間1000通を超えていたという。毎日3通以上のメールが来ている計算だ。メールの送り主には患者家族だけでなく、小児脳腫瘍の治療にあたっている医師も含まれていた。

澤村医師は、小児がん医療の現実を指してこう言った。

「かかった病院や医師によって、その子どもの運命が変わってしまう」

実際、私がこれまでに取材した中にも、こんなケースがあった。
幼い女の子がある病院で、悪性度が極めて高い脳腫瘍で2か月の命だと診断された。命を救うためにかなり強い放射線治療と抗がん剤治療が行われた。成長過程の身体にさまざまな障害を引き起こしてしまうほどの強さだった。

2年後に詳しい検査をしたところ、診断が誤っていて、彼女の脳にできていた腫瘍はまったく別の種類で、それほど悪性度が高くないものだとわかった。最初の病院では正しい診断ができず、不適切な治療が行われてしまったのだ。

女の子はその後、学校の授業についていけなくなった。毎日、「ほかのみんなはわかるのに、なんで私だけわからないの」と言って泣いていたという。

本来なら強い放射線治療が必要なのに、弱い治療しか受けられなかった子どものケースもあった。その子どもは結局、短い期間のうちに再発し、長く生きることはできなかった。

国のがん対策は、2006年に成立した「がん対策基本法」によって大きく動き出していた。成人がんの対策を中心に全国どこに住んでいても同じように専門的な医療が受けられる「均てん化」を進めることとされていた。
その一方で、小児がんは患者数が決して多いとは言えないため、「均てん化」を求めるのは難しい。子どもが亡くなる病気では最も多いにもかかわらず、小児がん医療は完全に置き去りにされていた。

私の娘は澤村医師にめぐり会えたおかげで命を救われた。だが、全国ではこれまでにどれだけの子どもたちが適切とは言えない治療を受けてしまい、その後の運命を変えられてしまったのだろう。

澤村先生と理咲子① (1)

澤村医師と娘

命を救うために厳しい治療を行うのが小児がん医療だ。それは適切な治療であることが大前提であり、だからこそ患者本人も家族も、その治療を受け入れる。誤った診断や不適切な治療はあってはならないし、そうした悲劇は避けられるものであるはずだ。

そう考えると、悔しさと悲しさで胸が締め付けられる思いがした。なんとかして小児がん医療を変えることはできないのか。私は娘のことを案じながら、そのことを考え始めていた。

記者としての分岐点

報道の力で、国を動かすことはできないのか。私はその考えにとらわれ始めた。

とはいえ、自分は小児がん患児の父親という、いわば当事者だ。客観的な立場では決していられない。だから自分で取材して報道することなんてできるはずがない。当時の私はそう思い込んでいた。

そんな私を変えてくれた人物がいる。大先輩のFさんだ。何本ものNHKスペシャルを手がけている名プロデューサーで、私が神戸に赴任する前、社会部にいた頃には北朝鮮の拉致問題や、民営化で揺れていた日本道路公団などをテーマにしたNHKスペシャルの取材・制作でお世話になっていた。Fさんは番組作りへの情熱はもちろんのこと、問題があればとことん突き詰めていく、そして何より弱い立場の人への温かい眼差しがある人で、心から尊敬していた。

澤村医師から、小児がんの医療体制がどれほど整っていないかを聞かされていた私は、番組を通じて問題提起ができないかと考えた。Fさんなら自分の思いを受け止めてくれるかもしれない。長文のメールを送った。

メールには、娘が小児脳腫瘍と診断されて治療を始めたこと、主治医から聞かされた実態を詳細に書いた。そして、この国の医療体制では小児がんの子どもたちを救うことができない、何としても小児がん医療を変えなければならないという思いを伝えた。ただ、自分は当事者なので自分自身で取材し報道することはできないと思っていること、その代わりどんな協力でもするので、Fさんが信頼しているディレクターを紹介してほしいと依頼した。

Fさんからは、ほどなくして返事が届いた。「直接会って話がしたい」という短いメールだった。

ちょうど事件関連の番組制作で、東京の放送センターに出張することになっていた。その合間を縫って会う約束をした。

「それでジャーナリストと言えるのか」

待ち合わせ場所は、放送センターに近い中華料理店だった。

店で待っていたのは、Fさんだけではなかった。以前、NHKスペシャルの取材を一緒に担当したことのあるIディレクター、そして大型番組を何本も手がけている名カメラマンのHさんの姿もあった。

提案を受け入れて、早くも小児がんを取材する態勢を作ってくれたのか。感謝の気持ちを伝えようとしたその時、Fさんから思いもよらないことを尋ねられた。

「山ちゃんは、なぜ自分で取材して伝えようと思わないの」

「私は娘が小児がん患者で当事者ですから、自ら伝えることはできないと思っています」

この時にFさんに言われた言葉は忘れられない。

「誰よりも小児がんの問題を理解していて、誰よりもその問題を変えたいと思っているのは山ちゃんじゃないの。その山ちゃんの仕事はなに?それをやらないでジャーナリストだって言えるのかな」

Iディレクター、Hカメラマンも、
「山ちゃんが自分でも取材をするのなら、どんな協力でもする」
と言ってくれた。

衝撃を受けた。誰よりも小児がん医療を変えたいと思っているという自負はあったが、当事者が取材すれば、視点や問題意識が偏ってしまうおそれもある。だから自分ではしてはいけないと思っていた。

しかし「それでジャーナリストだと言えるのか」というFさんの言葉に強く背中を押されたような感覚があった。

「どうか、よろしくお願いします」

3人に、深々と頭を下げていた。
この時からIディレクターとHカメラマンは、自分のことのように小児がんの問題を一緒に取材してくれている。私にとってはかけがえのない同志と呼べる存在となった。

それが、私が「事件記者」として積み上げたキャリアを捨てる第一歩だった。

【後編はこちら、いよいよ彼が国の壁に挑みます


山崎 真一 首都圏放送局

ウィッグをかぶって退院・千歳空港にて (1)

今回、気心の知れた先輩から「書いてみないか」と声をかけてもらいました。この機会に記者人生を振り返り、この場を借りて「当事者が取材すること」の意味を考えてみます。(写真はウィッグをつけて退院した娘と千歳空港で)

【事件記者時代の山崎記者の報道】


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