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記事一覧

「スティーブ・ジョブズ1.0」の真実(前編)

しかし、これは、 どう考えたって、変な組み合わせだ- 1984年1月24日。 スティーブ・ジョブズはステージの上にいた。 「これがあれば、なんでも思い通りに表現できる」 と、自信たっぷりに聴衆に訴えている。それは、アップル社が「マッキントッシュ」を世界にデビューさせた瞬間をうつした、過去の映像だった。 ただ、私の視線は、ジョブズではなく、マッキントッシュの画面に集中していた。そこに映っていたのは、1枚の絵。描かれていたのは、流れるような黒髪をくしでとかす妖艶な日本人

神戸の映像はまだか!阪神・淡路大震災 空白の時間帯に現場で起きていたこと

「ご覧いただいている映像は、地震が起きたときの神戸放送局の放送部の様子です」 画面全体が激しく揺れている。机も椅子も棚も波打つようにスライドしていく。 「大きな揺れが繰り返し襲っているようです。いろいろなものが棚から落ちたり机から落ちたりしています」 放送局の泊まり当番で仮眠中の記者に向かって本棚が倒れてくる。 記者が間一髪に飛び起きると、次の瞬間、周りが真っ暗になる。停電だ。 直後、記者は電話へと飛びついた。 1995年1月17日午前7時に放送された、朝の全国ニュー

ガラケーしか使えないデジタル音痴だった私が「GISでデータ分析」できるようになるまでの話

みなさん「Ctrl+C」ってご存じですか? そう、「コピー」するときのショートカットキーですよね。 私は知りませんでした。ずっとマウスを「右クリック」して「コピー」してました。当然、ブラインドタッチなどまったくできませんでした。 周りがみんなスマホに切り替えるなかで、「使い慣れてるから」とずっとガラケーでした。そんな「極度のデジタル音痴」だったはずの私が書いた記事がこちらです。 東京の多摩川沿いの浸水リスクがある地域で、「なぜか人口が増えている」ことをデータ分析ソフト

エベレスト山頂でカメラに映っていたのは・・・「これで帰れる」私が世界のてっぺんで泣いた理由

「前回曇っていたんで・・・何も見えなかったので・・・ハァハァ・・・今回は本当・・・360度見られて・・・ハァ・・・本当にうれしいです・・・ハァハァ。本当に良かったです・・・ハァハァ・・・本当にきれいです・・・ハァハァハァハァ・・・」 2011年5月25日午前9時30分。 私は世界のてっぺんで泣いていました。 世界最高峰のエベレスト。山頂は8848m。 番組の取材のため、2か月近くかけて登ってきました。 取材班のメンバーは誰一人欠けることなく登頂。天気は快晴。山頂から36

記者に「プログラミングのスキル」って必要なの?ちなみにNHKニュースの画像生成も記者がコードを書いてます

新型コロナウイルスの新規感染者の数を示す日本地図に、毎日厳しい視線を送る男がいる。 コロナの感染拡大の今後が懸念されるが、地図がきちんと描画されているかも気になってしまう。 それはこの「新型コロナ感染者数マップ作画システム」をプログラミングしたのが彼だから。 ちなみに彼は技術部局のエンジニアではなく、いつもはテレビで解説している記者だったりする。 このシステム、記者が作りましたこんにちは、NHK解説委員の三輪誠司といいます。専門はITやサイバーセキュリティで、主に「シブ

ひるむな、立ちつくすな、ためらうな。「ことばで命を守る」アナウンサーたちの10年

「東日本大震災を思い出してください!」 津波警報のときに使われるこの呼びかけを初めて実践したのが、高瀬耕造アナウンサーだった。 それは震災から1年9か月後の2012年12月7日。三陸沖を震源とするマグニチュード7.3の地震で「津波警報」が発表された。 スタジオに駆け込んだ高瀬はキャスター席に座り、その横にベテランの武田がついた。手元のモニターには「東日本大震災を思い出してください」という呼びかけ文が表示されていた。 訓練では何度も読み上げてきたが、本番となるとためらい

「東日本大震災を思い出してください!」その時、ことばで命を守れるか。NHKアナウンサーたちの10年

「東日本大震災を思い出してください!」 「命を守るため、一刻も早く逃げてください!」 「周りの人にも避難を呼びかけながら逃げてください!」 平日の午後、東京・渋谷のNHKのニューススタジオに、この日もアナウンサーの緊迫した声が響きました。 地震と津波が発生したことを想定した緊急報道訓練。大津波警報や津波警報などさまざまな想定で、頻繁に行われています。 この日もアナウンサーは、目の前のモニターに次々に表示される地震や津波のデータを読み上げながら、とるべき行動や注意点などを

うどん食べてる場合じゃない!これって国際的謀略!?その日、カメラマンは調査報道記者になった

ここは「うどん県」香川。 ランチには1杯200円でおいしい讃岐うどんが食べられるし、飲んだ後も〆にはカレーうどんが定番です。 NHKに入ってから、函館、福岡、東京ときて、香川県の高松放送局で4か所目の勤務。未踏の地だったけど、瀬戸内海に面した風光明媚な土地だし、いい場所に来たなあ。 高松から東南アジアに進出するうどん店の経営者を追って、小型カメラ片手にシンガポールに出張したこともありました。カメラマン人生、満喫! そんな時、ある怪しい話を聞いてしまったのです。 「秋に

ちょっと聞かせてください…!あなたがその指で「攻撃」に加わった理由

ネットにはときどき極端な意見の人と、それに追随する人たちがいます。私はこれまで「排外主義的な言論」を主張したり、時には行動で訴えたりする人たちについての取材を多く手がけてきました。 例えば4年前、弁護士に全国から13万件もの懲戒請求が送られた問題です。 2018年10月に「クローズアップ現代+」で放送しました。 そしてあいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」の内容を巡って大量の苦情や問い合わせなどの電話、いわゆる“電凸”が寄せられ、展示が一時中止に追い込まれた問題

「小児がん」治療のあり方を変えなければ…患者の親となった私は自ら取材することを決意し、巨大省庁に乗り込んだ

「それでジャーナリストと言えるのか」 娘が小児がんを発症したことで、事件記者だった私は、信頼できる仲間に日本の医療体制の問題を取材してもらいたいと懇願した。 しかし彼らから返ってきたのは、予期せぬ答えだった。 そして私は、それまで培ってきたキャリアに別れを告げ、「当事者」の立場から取材することを決めた。(前編はこちらから) 「もし娘が」インタビューができない2008年の夏の異動で、神戸局から社会部に戻った。ほどなくして私は小児脳腫瘍をテーマにした「クローズアップ現代」

「医者によって子どもの運命が変わる」日本の医療の現実、娘のため「当事者」になった私は一線を踏み越えた

記者は取材すべきことを、客観的に見なければならない。だから、当事者は取材に関わるべきではない。そう思い続けてきた。 記者になって10年以上が経過し、その考えが変わったきっかけがある。 わが子が小児がんを患ったことだ。 娘は小学1年生の時に小児脳腫瘍を発症した。彼女の闘病生活、そして同じ病と闘う子どもたちを見て、私は初めてこの国の小児がん医療の現実を知った。 “かかった病院や医師によって、その子の運命が変わってしまう” この現実を何としても変えたいと思った。ただ、当初

3か月で辞表を書いた俺に、彼が教えてくれたこと

沖縄は暑い。暑いのは嫌いだ。 汗、くさい。夜回りの車の中では、なおさら匂う。 どうして俺はこんなところにいるんだろう。 この思い、いま内ポケットに辞表を入れている君らにも聞いてもらいたい。 1年生記者が辞表を書くまでNHKに入ってから1か月の研修を終え、配属先を決めるとき、俺は沖縄放送局なんて希望していなかった。同期たちには一番人気だったようだが、本土復帰の経緯もよく知らず、米軍基地問題についても勉強不足だった。当時の人事は、なまじ知識があるよりはいいと考えたようだ。 大

「バイリンガル」な教育方針で日本語に自信がなくなった私を救ったのは、「特攻隊員」が人生を捧げた夢だった

突然だが、「人生、うまくいかない」と思い詰めて、自分ではどうしようもなくなる経験、みなさんにはないだろうか。 15歳の私が、そうだった。私は「言葉の壁」に直面していた。 外国人の親を持つわけでも、海外で育ったわけでもない。日本で生まれ、日本で育った。けれど、ある点が他の多くの子どもと違っていた。 その「壁」を超え、今の私がいるのは、ある「特攻隊員」の存在があったからだと後になって気づいた。そのことについて、語らせてほしい。 母の「特殊な」教育方針私の生い立ちは、少々変

「命を救うため、決して破ってはならない規則を破った」10年以上前の告白を確かめに行った記者、彼が聞いた真相とは

「命を救うため、私はルールを破った」 その話を彼から聞いたのは、記者になって4年半が過ぎたころ、仙台でのことだった。誰よりも空の安全を守ってきたはずの男の告白。ただ「本当は墓場まで持って行くつもりだった」という話を、私はどう扱っていいか分からず、書くことができなかった。 それから11年余り。外務省担当の記者になった私は、「極秘」の指定が解けて公開された「天安門事件」に関する外交文書を見て、驚いた。 これはあの時、彼から聞いた話ではないのか…。 私は意を決して、すでに引