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「スケール」のあれや。これや。

スケール。音階。

その大きな海原に向かって何が言えるだろうか。本当によくわかっていないんだけど、今まで楽器と戯れてきた中で感じたことだけを書いてみようと思う。(そして、オーダー中のハンドパンという楽器につながっていくように書いてみよう)

前回も書いたが、なぜついつい楽器を触ってしまうかと言えば、単純に「音が出る」という根源的な所に喜びがあるからなのだけど、とはいってもデタラメに音を出しているわけでもない。あるルールに基づいて奏でるので、音楽的に聞こえるのだ。それが音階(スケール)である。

みんな知っている「ドレミファソラシド」。この音階をデタラメに好きなように奏でていると、「つまらない」音のつながりと、「気持ちいい」音のつながりを感じ分けられるようになってくる。

例えば「レ」と「ラ」を抜いてみると、あら不思議、沖縄音楽っぽくなる。「(低ド)・(高シ・ド・シ)」といったフレーズを少し跳ねたリズムで奏でれば、沖縄音楽の出来上がり。まさに「気持ちいい」音のつながり。

詳しく解説されてる動画です。


こういう法則を見つけたときに何が起こっているかというと、もちろん他人が聞いても「音楽的」に聞こえるのだが、実は「自分で奏で、自分に聞かせている」面が大きいと感じる。音を出して、メロディを奏でて気持ちいい。

そんなふうにして、「あぁ、沖縄の風を感じる〜」と、気分良く浸っているのだけど、ある瞬間ハッと目が覚める。それは間違って「レ」とか「ラ」を弾いたとき。「あれ?」となってしまう。これが「つまらない」音のつながり。

ざっくり言えば「ドレミ」を奏でる楽器はドから次の高いドまで12等分されているのですが(ピアノの白鍵と黒鍵の数)、そういった楽器では自分が「気持ちいい」と感じる「音」をチョイスして弾き続けなければならない。はずしちゃいけない。 そういうことに「大なり小なりのストレス」が存在しているんだと思う。いい意味にも悪い意味にも。(でもね、気持ちのいい「外し」もあるんですが、今日はあえてそこはハズします)

熟練者はそこをコントロールできるのだけど、そうじゃない人たちはそこが足かせとなり、一番最初の「沖縄サイコー、音楽楽しい!」から「間違えたり、考えすぎる」ことでだんだんと減点されていく感じになる。(いや、こういうことの積み重ねが楽器習得の道でもありますが)

で、

だったら、そもそも「レ」と「ラ」を無くせばいいじゃん。


子供が1〜2歳のときにクリスマスプレゼントで買ってあげた楽器がまさにそんな楽器でした。

デタラメに弾いても、メロディーになるんですよね。でも、1〜2歳の子供ってすぐ飽きる(笑)親のほうがのめり込んじゃったりするんです。「あぁ、音楽は美しい!」と。

で、ハンドパン。まさに音楽的に「外さない」音階(スケール)で構成された楽器。数年前楽器屋で触った時は、本当に自分の世界へ突入していった感触を覚えています。

オーダー中と同じスケールのDSabyeスケール

この美しい音色と、限定された音階によって、一番近い観客である「自分自身」が音楽的幸福を感じられる楽器。

でもこれって観客を無視した内へと向かう閉ざされた楽器なのか?

それは違うと確信している。地球上で配信されている美しく奏でられた「音楽」に心動かされた人たちが「自分も演ってみたい!」と思い、行動しているのだから。

こういった素晴らしい縛りに対して、音楽的可能性を求めると、2台、3台と増やしたり、音階の多いハンドパンをチョイスしていくような流れがあるんだなぁ、とYoutubeを見ていると感じています。

スケールの制約があることで技術的に自由になれ、限られたスケールで新しい音楽を生み出す苦しみと喜びがある。

そんな楽器なのかなぁと思う。


その中で「1台」でも音楽的にも開かれ、心躍る名曲のNewVersion。


そして、一人で複数台ではなく、2人で奏でることの美しさと世界への広がり。

傑作。レオさんのスケールを活かした主旋律とリズム、そしてHARAさんのミニマルなフレーズが最高!是非ヘッドホンか低音の鳴るスピーカーで聞いてください。フレームドラムのような「ドーン、ドン」という大太鼓的なリズムがこの楽曲を引き立たせています。


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