2019年の映画を振り返る

緊急的冒頭、コロナ禍に寄せて

 本当は年間レビューを年末に、それこそ日経みたいに掲載できると一番よいのでしょうけど、年末最後の週末にもお正月映画の封切りがありますし、そもそも2018年のレビューをようやく書き終えたのが2020年4月のことでした。要するに遅筆なのですが、これを書いているいま、いわゆるコロナ禍にあります。本来であれば2019年のレビューに不要なトピックではあるのですが、さすがにそれを無視して書くのも不自然ですし、この話題から遡ってレビューを書いていこうとしております。

さっぱり、ねっちょり、さくっと

 2019年11月に開催された表彰文化論学会研究発表集会に聴衆として出かけてきました。狙いは「表現の不自由展・その後」のレビューだったのですが、それとは別に、バウハウスを話題の端緒としたシンポジウムがありました。そのなかでキーワードとされたのが見出しの3つの言葉です。

 登壇したパネラーの懸念としては、建築においてもコミュニティや関係性においても、人間のやり取りによって作り上げられるものやことが姿を消してきており、デベロッパーが建造するようなものやことが席巻していることにありました。その席巻しているほうを「さっぱり」、姿を消しつつあるほうを「ねっちょり」と表現したわけです。

 これを前近代的と近代的に分類する向きもあると思いますが、では「さっぱり」した空間を人間が「さっぱり」と利用し得るのかといえば、必ずしもそうではないようです。私なぞは、新築のビル内が不案内で手書きの注意書きが養生テープで貼り付けられたり、改装されて無機質になった駅に出店ののぼり旗が立ったりするのを見ると「ざまあ見ろ」と思いますよね。人間的に未熟なのでしょうか。きっとそうなのです。いやそうだとしても、完成された人間しかまともに使えない空間って、そんなにニーズがあるものでしょうか。

 にもかかわらず、東京都内などはありとあらゆる土地が再開発されています。デベロッパーの名前はよく出てきますが、地元の人たちの発露で再開発される例はどれだけあるのでしょう。どうも歴史の線的なつながりを断った変化が、その重要性をあまり語られることなく成し遂げられる。建築の話だけでなく、「とうきょうスカイツリー駅」のような名称変更も「さくっと」おこなわれてしまうことについても、パネラーは批判していました。なんだよその閣議決定、もう国会で採決しちゃったの、みたいないけ好かないものもずいぶん増えました。

 映画にしろ演劇にしろ小説にしろ、さくっとさっぱりした社会に満足している人の完成された日常に、物語はないと思うのですよね。そこにちょっと違和感が発生したり、ズレがあったり、従わない人がいたりすると、そこに物語が発生する。なので、さくっとさっぱりすることを至高とする人にとって映画や演劇や小説が必要最低限でないと思うのも分かる気がするんです。その考え方が、不安からきているのか安心からきているのか、そこがちょっと私には分からない。

 自然界にはまだまだ分からないことが多いけれど、近代が自然を押さえつけて成立したからか、目に見えて耳で聞こえるものがすべてと思いがちです。UFOや幽霊の話をしたいわけではなくて、可視光線しか感じていないのに見えたことにしていたり、自分の視力の限りで見えるものをもっとも小さなものとみなしたりして生きている。学校で習ったはずの菌とウイルスの違いもすっかり忘れて、安全な場所にいると、思っていたわけです。

浄化したがる私たち

 そこまで過度な世界への自信があるのなら、未知のウイルスが到来したとしても、自身の安全にもっと確信を持てばいいと思うのです。けれど、ものすごく多くの人たちがとてつもない不安に苛まれてしまいました。結局、何も起きないことを前提とした自転車操業的な安心感をもとに人生設計してたんですよね。

 それで、政府に規制を求めました。自分たちを縛ってほしいと言ったわけです。いやいや経済活動を縛ってほしかったと言われるかもしれません。何事も恐れぬ資本主義の暴走を止めることはやぶさかでないのですが、実際は、やれあの人がパチンコ屋に行っただの、あの飲食店が営業しているのが迷惑だだの、大資本ではなく小資本と労働者に牙をむいてしまった。規制される側を自分たちと規定してしまっているんです。こんなの闘争ではない。浄化にほかなりませんよ。

 こうして見ていると、「さっぱり」は不安を安心に変える約束の地で、何も考えずに(そこに行きつくボトルネックがあること自体が不安ですから)「さくっと」実現できれば、それに越したことはありません。あとで、不案内で手書きの注意書きが養生テープで貼り付けられることになってしまうのに。

 田舎でのんびり楽しく、お金がなくてもさして不満なく暮らしていたおっさんが、よそからやってきた意識の高い人たちの正しさによって排除され、田舎が浄化されてしまう。これは『天然☆生活』の世界です。そしていま、その世界は私たちの世界です。映画のように、やがていたるところで怒りのボンゴが鳴り響く。その日に向けて書く、2019年のレビューです。

確実にレベルアップした日本映画シーン

 2018年レビューでは、日本映画の質的なレベルが飛躍していると書きました。その勢いは2019年にも持続しており、いまやベースが上がったと言えます。他方、2018年のようにテーマ性に明確なトレンドを見つけるのがちょっと難しい1年だったとも言えます。もっとも百花繚乱というのはそういうことですし、それ自体は歓迎するものと思っています。

 もっとも印象的だったのは『蜜蜂と遠雷』でした。数年に一度しか開催されないピアノコンクールの残酷なレースの側面を見せつつも、ファイナリストたちのこれまでの人生と、彼らが交錯した後の人生の両方を豊かに映し出し、なおかつ演者ごとに就いたピアニストたちがもうひとつの演技を披露する。多角的で重層的、緊張と興奮が持続したまま終幕する見事な作品でした。

 これまでも日本のアクション映画を牽引してきた佐藤信介監督の新作『キングダム』は、スケールといいアクションシーンの素晴らしさといい、監督の到達点を観たように思います。二宮健監督『チワワちゃん』は原作から時代設定が大きく変更され、そのスタイリッシュな劇伴と編集に圧倒されました。ちなみに同年公開された『疑惑とダンス』のくだらない(それがいい)コメディや、特集上映でようやく見られた『DELIVERY GIRL ELLIE & MAKO デリバリーお姉さん』(2016)も最高に楽しかったです。

『溺れるナイフ』(2016)を公開して以来、自身の長編作品がなかった山戸結希監督の『ホットギミック ガールミーツボーイ』もまた、劇伴と編集の作品でした。私は編集魔の監督が好きなので(私には二宮監督も編集魔です)、ここまで細かく男女を交互に映した会話劇はまさにネクストと呼ぶべきもので、クラシック楽曲によるシンプルな劇伴がそれを強調しています。青春ものを得意とする監督の、今日的な青春のテンポ感がありました。ただ、あれだけ強がりな男子にバカと言われ続ける女子のありようだけで物語たるのか、ちょっとよく分かりません。監督自身のネクストが気になります。

 西谷弘監督『マチネの終わりに』は久しぶりに海外ロケ作品でした。この監督にはいつもそれ相応のバジェットが出ているように思いますが、それだけの質を商業ベースで連発できる稀有な監督です。どこかで「自分が福山雅治だと思っている男と、石田ゆり子だと思っている女の話」という評を見て笑ってしまったのですが、それでいて照れもなく作品を成立させられるのが、西谷演出だと言えます。また珍しく、『内回りの二人』(2018)と並んで東京の大崎がロケ地になっている作品であったことも、個人的にはちょっと面白く見ました。

 また映像レベルで言えば、もともとロシアロケの多い井上雅貴監督『ソローキンの見た桜』のグレーディングが、まるで古いフィルムに色を付けたような世界観を作り出しており、その面白さも印象的だったことを記しておきます。

『天気の子』以前を振り返る

 さて、トレンドを見つけにくいなかでもテーマ性を振り返っていくにあたり、『天気の子』の助けを借りるのがよいと思っています。というのも本作が、ここ数年の日本映画シーンを経た先にちょうど位置づけられるのではと感じているからなのです。

 ヨーロッパが移民問題、続けて貧困を、アメリカではLGBTQと人種問題、そして貧困をテーマにしていた一方、日本では2011年に東日本大震災が発生し、その潮流に乗ることなく(震災がなくても乗らなかった可能性は高いですが)別のパラダイムシフトに対応する「震災映画」の時代がしばらく続きました。それがやがてメタ情報の「そもそも」を疑う「概念もの」に昇華しました。この時代はあまり長く続きませんでしたが、私としては、震災が人情噺ではなく概念の方向に昇華したことで、世界との接点を見つけやすくなったのは大きな進歩だと感じています。ちなみに新海誠監督の前作『君の名は。』(2016)は、調べるとどうやら震災が制作のきっかけになっているようですが、わたしには彗星が原子爆弾のように見え、同年に公開された『シン・ゴジラ』(2016)と並んで戦後70年を象徴していたのではと考えています。

 もうひとつ、日本映画シーンが片付けなければいけなかったのは、バブルからミレニアムまでの1990年代の総括でした。2018年時点では、これは総括しきれずに潰えたように見えました。ただし続きがあるので後述します。ともあれこの国の90年代が、物質が変化しないままそれの価値だけが変容していて、それが当時はちょっとした誤作動のように感じられたのだと思います。変化した価値を受容することを試される時代だったことに、あまりにも無自覚なまま00年代さえ終えてしまったために、90年代は総括しづらい時間となったのではないでしょうか。

年度代表作としての『天気の子』

 本題はここからです。本作の重要なテーマのひとつに貧困があります。日本でも2018年に『万引き家族』『ごっこ』があり、もちろんそれ以前にもこのテーマは存在していましたが、ようやく日本映画シーンが貧困に着目できるようになったのがこのあたりだったと思います。そして本作があるのですが、とくに本作の場合、町山智浩が言うところの飢餓と逆の状態の貧乏、ものがあふれているのに貧困なんですよね。しかも隠れてもいない。というか、隠れ家もないまま世間に晒され消費される対象物としての貧困だと思うのです。マクドナルドのCMって主役はクルーの女の子で、憧れのバイトだったはずなのに、いまCMは顧客へのフォーカスなんですね。消費される貧困。そこには貧困とともに分断が存在しています。

 象徴的だなと思うのは、主人公を雇っているライターの男が元妻の母親に、我が子との面会を求めるシーン。喫煙者とは会わせられないという義母に禁煙したことを告げるものの、「あなたはそういうイメージなのよ」という理不尽な言葉を吐かれてしまいます。イメージという無根拠な理由によって誰かを分断することで、社会的地位なるものを形成していく。その先にある、きわめて無責任な人災としての貧困ですよね。

 また物語の舞台について言うと、それがほぼ東京に限られている。主人公の少年は神津島から家出して上京し、送還され、処分が明けて進学のため再び上京します。これ、離島である必然はなかったように思えていて、たとえ陸続きの関係であっても、東京と乗り換えなしでつながっているギリギリの距離感が必要だったのではないかと思うのですね。

 2018年レビューで書いたのですが、経済効率が最大化された社会というのは、東京から見える景色の範囲内でサービスを展開していくことだろうと、財界人や為政者はたぶん考えています。そのギリギリのところを「日本の第一辺境」と呼んだのですが、神津島がこの辺境をちょっと越えたところを表現しているのではないかと。どこに絶望しようが、結局は東京しかなくなっていく未来を暗示しているように思えます。

 本作は後半、空を晴らす無私の行為で人柱となってしまった少女を、少年が空の上で救出した代わりに、東京は3年ものあいだ雨が降り続く展開となります。時間の長さはともかく、2019年には本当に東京とその周辺の河川が氾濫し水害が発生しました。ここ数年は毎年この国のどこかで深刻な豪雨が発生していますが、これがまさに、物質が変わらないまま価値が変容した状態だと思うのです。雨という言葉がもつ閾値が圧倒的に違ってきています。この国の誰しもが、この新しい価値を受容して生きざるを得ません。受容した結果、そこに生きることの新しい意味が生まれます。

 雨をメタファーとして、いま、価値を自らのなかに飲み込むことで意味付けていく「私の物語」の時代にあると言えます。その価値を受けてどう生きるかの話なので、みなが同じ価値を飲み込んだところで「私の物語」は「他者の物語」とは違うし、他者の物語との関係性、位置付けから自らの物語の意味付けをする必要もあるでしょう。本作の少女は主人公と出会うことで存在に意味が生まれたわけですが、しかし空の上から帰ってきたふたりは離れ離れになったばかりか、少女についてはその後の日々がまるで描かれない。人柱になることを選択したが、そのひとりの命を救うことを選択された彼女は、その後の人生をちっぽけに生きているようでもあります。

 本作の途中で、寺院の天井画を解説する住職が登場しますが、気象現象について、観測史上初などというがいったいどれだけの時間のなかから言っているのかと述べます。仏教ではあの世での時間も含めての人生なので、この世にいる人生は一瞬でしかありません。ラスト、いわば二度目の一瞬を過ごす彼女にふたたび「私の物語」がもたらされて終幕します。『魔法少女まどか☆マギカ』(2012)のように少女が菩薩か如来になる人生とは異なり、あくまでこの世での不可逆的な一瞬のための終幕であることに、この作品の特徴がありそうです。

 少し脱線しますが気象観測そのものが日本では明治初期からとされており、本作においては気象観測=近代なのだと思うのですね。近代も、この国の歴史からするとたかだか百数十年の一瞬であり、その時間だけを見てこの国を理解したようになる風潮に釘を刺しているようにも感じています。

 さらに話がガラッと変わります。本作のクライマックスで少年が新宿駅の線路上を駆け抜けますが、あの場所は新宿騒乱および翌年の国際反戦デー闘争の舞台でした。70年安保闘争から半世紀のタイミングで登場したこのシーンに、反戦の意味合いが込められているように見るのは私だけでしょうか。

2019年の到達点としての『岬の兄妹』

 どれが一番なのかと言われそうですが、若手の自主制作が見られるというぐらいの軽い気持ちで国立映画アーカイブに出かけて、この作品に打ちのめされてしまったんですよね。

 さきほど貧困というテーマについて取り上げました。足が悪くて職も失った兄と外に出ないように足を縛られている自閉症の妹のふたり暮らし。ゴミ袋をあさってソースの子袋に吸い付くほどなので、電気も止まってしまいます。ある日、家を脱走した妹からもたらされた一万円札。やがて始めた、倫理観を突破した裏稼業。

 本当はひどい話なのだけれど、鎖につながれていた妹の生の(性ではなくて)解放を見た気もするし、お金が入って電気が入って、段ボールでふさいでいた窓が現れて、部屋がパッと明るくなる。喉を詰まらせそうな勢いでハンバーガーを貪り食う。その喜びについ共感してしまうんです。

 しかし、兄の思いは複雑です。と言いますか、もともとは母親が蒸発して妹のせいでこんな暮らしをしていると思っていたはずなんです。それが、妹を売ったことによる贖罪とともに、気付けば妹なしでは生きていけない共同生活になっている。その、ありとあらゆる感情なり立場なり、社会からの鳥の目と、ふたりの世界の虫の目と、すべてのものがないまぜになった世界観の描写がものすごい。それを松浦祐也と和田光沙が、悲劇的だがむしろコミカルな素晴らしい演技で見せつけます。

 ちょっと語彙力が負けているのですが、自主制作で、この国の貧困をテーマに、この時代における到達点にある作品だと思います。ふともたらされる一万円札や、久しぶりのまっとうな食事としてのハンバーガーは、『天気の子』と同じシチュエーションでした。ちょっと偶然とは思えないんですよね。

 少し脱線しますが、兄と妹の物語で思い出すのは市川準『東京兄妹』(1995)でした。都電荒川線沿線の一軒家に暮らすふたり。兄は定職もあり彼女もいるが、妹が高校を出るまで結婚できないと言っているうちに愛想を尽かされてしまう。高校を出た妹は、職場に客として訪れた兄の友人と恋に落ちて同棲し、彼の死によって実家に帰ってくる。親の子離れのように、兄の妹離れのラスト。あのときすでに時代から取り残されたような昭和テイストの兄妹でしたが、公開から四半世紀経ったこの作品と比べると、思いのほか対照的で驚きます。あのとき残っていた生活の豊かさは、いったいどこに行ってしまったのでしょうか。

90年代論の終着

 先ほど後述すると書いていた90年代論です。2018年にもっともそこに迫っていた『日日是好日』について「ついぞ時代の位置付けを確認できないまま終幕してしまいました」と結論付けました。それはそれで、それ自体が90年代という見えづらい実像を示しているのだと思っています。

 しかし、2019年にとんでもない作品が登場しました。『ダンスウィズミー』です。

 思えば2017年。いわゆる震災映画がすっかり出尽くしたと思われたとき、矢口史靖監督が放った『サバイバルファミリー』は衝撃でした。ある日突然電気がなくなった社会は、震災後の風景の比喩でした。この比喩が、概念ものへの突破口となりました。ここ数年の映画シーンのなかでも、とりわけ重要な位置付けの作品です。

 そしてやってきた『ダンスウィズミー』では、主人公が少女のころに見ていたテレビのバラエティ番組で、宝田明演ずる催眠術師が出演者を次々に意のままにしていきます。大人になった現在の主人公はひょんなことから彼に催眠にかけられて、音楽が鳴ったら踊って歌わずにはいられなくなってしまいます。劇中でさまざまな楽曲が歌われますが、比較的1970年代の楽曲が多いのが特徴的です。逃亡してしまった催眠術師を札幌でようやく捕まえて解いてもらった彼女は、それまでの背伸びしていた生き方を見直す決意をします。

 物語としては歌って踊る催眠をかけられていますが、テーマの含意としては、背伸びしていた生き方そのものが催眠だったとみるのがよいのではと考えています。それはテレビを見ていた(映像からするとおそらく)90年代からのものだった。つまり、90年代は催眠にかかっていた、ということでしょう。

 ではどんな催眠にかかっていたのか。それが70年代なのだろうと思います。90年代は社会そのものが、認識として70年代の延長だという錯覚をしていた。なので、人知れず変化していたものやことを誤作動ぐらいにしか思えなかったのではないでしょうか。かつて「大瀧詠一の日本ポップス伝」(NHKFM,1995)のなかでも大瀧詠一が、80年代の音楽シーンだけ特殊で、90年代は70年代とつながっているという趣旨のことを述べていました。やはりどこか、70年代と90年代に線的なものを感じていた人が多かったのかもしれません。

 ちなみに西寺郷太によれば、80年代洋楽シーンは、デジタライズしてノイズを取り除いた「さっぱり」とした音と、クオンタイズされたリズムが特徴だったといいます(2020/5/25 TBSラジオ「アフター6ジャンクション」より)。そのシーンにアゲンストの動きを見せたのが80年代末から90年代のレニー・クラヴィッツだったとのこと。だからというのは無理筋だとは思いますが、90年代という、日本にとっても技術的にはデジタライズしていった時代に、社会はどこかアナログの郷愁に引き籠っていたような気もします。80年代という時間がその後のバブル崩壊によって葬られてしまったことによる、この国の精神的疾患を思わずにはいられません。そこに正しく抵抗したのがヒップホップで、だからこそ『サイタマノラッパー』三部作(2009-2012)が関東地方の諸相を取り込むことができた、という仮説をいつかきちんと証明したいですね。

 90年代論は、おそらくこれでいよいよ結論だと思います。

育ち方を失った子供たち

 たとえば前衛的な表現(アバンギャルド)は資本主義や守旧的なものに挑戦的であることだとWikipediaに書いてあり、1960年代にはそれが刺激的だったり若者に支持されたりしたのだと思います。それが1970年代、おそらく低成長期以降からバブルぐらいの頃は、むしろ資本主義による奇を衒った表現が刺激的で支持を集めたのではと思います。すごくざっくり書いていますが。

 その文脈が血肉になっている世代-1980年代カルチャーを少し経ている私も含めて-からすれば、わざとずれたこととか非常識だったりすることが格好よく見えることがあります。でもそれは人類共通の感覚ではありません。その時代を知らずに育った世代が同じ感じでオフビートだったりするのは、オマージュなんかではなく、けっこう本気でずれている可能性があります。注釈を入れると、私の側からすればずれていますが、彼らには私がずれているのだと思います。

 単純に育ち方、育てられ方を失っていて、驚くほど生活力に欠けていたり、未来に何の希望もないことが自明だったりする人たちが、実はすごく多いのかもしれません。そういう作品が目立ちました。この話題をなぜここに差し挟んだかというと、『天気の子』の段で書いた「私の物語」の時代である背景として、「私の物語」の著しい欠如があるように感じるからなのです。

 前作『そうして私たちはプールに金魚を、』(2017)が楽しかった長久允監督『ウィーアーリトルゾンビーズ』は、両親の葬式のシーンがまるで『3月のライオン』(2017)のようですが、あえてそこを出発点にしたのかもしれません。家族の再獲得による人間形成を描いた大友作品に対して、両親を失った少年少女だけで大人社会に巻き込まれながらもシニカルに漂泊しつづけ、最後には共に生きることさえも選択しない。きっとひとりひとりは逞しく生きていくんだろうなと思うものの、人間が根源的に動物的であることから解放されちゃってることに、(映画の出来栄えではなくて)個人的に違和感を消せないでいます。

『日本製造/メイド・イン・ジャパン』の彼らは逆に動物的なんだと思いますが、すっかり成人しているのに、無計画というか完全に無邪気に人を死に至らしめ、虚偽で有名になりあぶく銭にうつつを抜かします。ただの馬鹿者と評して終わってしまいそうになりますが、そもそも生き方を分かっていないし、それが生き方だという認識もないように思います。

 それを「最近の若者は」と吐いて捨てるのはちょっと古いのでしょうか。言えないんですよね、若者以外も吐いて捨てられるようなことばかりしているので。それがどうなるのかも分からずに無計画に動物的に群れ、無邪気に行動し、虚偽で長い年月、社会を支配している人たちがいては、もう誰の生き方を真似しても意味がない。そう思っても何ら不思議はありませんし、そう思った人が育てた子どもがすでに社会をなしているのだと思います。繰り返しますが、彼らにとっては彼ら以外の人がずれているのですから、やがて彼らの常識が社会の常識になるということで、そこに正しさが存在しています。

 辺境映画(後述しますが、日本の第一辺境を譜代にした作品群。2018年レビューも参照のこと。)ととても似たディストピア感がある作品に『JKエレジー』がありました。働かない父親、同じく働かない兄貴。借金取りから逃げ回る日々。自分の未来のために進学を目指す少女は、いかがわしくないはずのビデオ撮影に協力してコツコツと貯金していたのに、それさえもくすねられて寿司に変えられてしまいます。借金の返済どころか、目の前の、しかも『岬の兄妹』のような安価なファストフードではない、欲望の満たし方をして良心の呵責もない。かといって娘を売りに出すこともない。完全に関係性が欠落したなかで、ゼロから生存をリスタートしなければならないのです。

『僕はイエス様が嫌い』の主人公の少年は、おばあちゃんの家に引っ越したら転校先がミッション系だったという不思議な展開で、しかしそのことが本人の合点のいくように家族で話し合われた節もなく、戸惑いを消化できずに暮らしているように見えます。ある意味ではこれもゼロからリスタートしていると言えますが、家族も学校もきちんとあるからか、生きることの根源的な意味を見つめる少年へと成長している様子は、このテーマのその先の光を見るようでもあります。その光とはすなわち、後述する「私の物語」だと思うのです。

大人だって育ち方が分からない

 子どもから二十歳前後ぐらいまでが主人公の作品を取り上げてきましたが、いやいや、もっと大人だって分からないんですよ、育ち方なんて。生き方の哲学がなくてもよかった、スタンダードな状態が規定されている時代に生まれて(狭義の「ふつう」について2018年レビューを参照のこと)、いま、スタンダードが存在しなくなって、たゆまぬ向上心で正解のない努力を続けることが個々人に求められている。そんな状態。性教育をまったく受けなかった子どもが「孫の顔が見たい」と言われるのと近い感覚があると思うのですよね。

 だから頑張らなきゃ、というのがたぶん「あるある」なのでしょう。でも、それは何のための頑張りなのか。ひとつあるとすれば、老後に飢え死にしないための貯金かもしれませんが、どこかの大臣が言ったような2,000万円の貯蓄が必要であれば、消費している場合でないし子どもを作るのは出費が大きすぎてアウトですね。幸せになるために一生懸命努力したはずが、いつしかよく死ぬための努力に目的がすり替わり、死ぬんですよね。着地点はみんな一緒です。

 監督自身がドキュメンタリー映像作家志望の青年に扮した『解放区』では、主人公は完全に迷い人ですね。生き方も撮りたいものも漠然として甘いまま、大阪は西成で身ぐるみはがされて、それまでの生き方ゆえ周囲から愛想を尽かされて、まさしく行き詰ります。西成の地で逞しく生きる人びとと主人公が実に対照的で、ラストに主人公がたどり着く、そこが彼の「解放区」だったのか。本作の制作開始はずいぶん前だったと聞きますが、70年安保闘争から半世紀のタイミングでこのタイトル。ものすごく心がざわつく作品でした。

 90年代論的には、90年代という分岐点で曲がれずに、00年代というモラトリアムがあって、震災を挟んで、だんだん息苦しくなっていまに至るという流れだと思うのですが、『東京の恋人』は震災前のモラトリアム時代に恋人だったふたりの物語でした。象徴的に使われる東京60WATTSの「外は寒いから」を私が初めて聞いたのは『文藝ミュージシャンの勃興』なので、2002年の暮れだったんですね。誘われるがまま北関東という辺境地帯から、久しぶりの女に会いに東京にやって来た既婚者の男。彼は別れ際まで結婚していることを告げないんです。青春をどこか終焉できないまま過ごしてきた、モラトリアムの処し方が分からない男がそこにいました。川上奈々美の美しさにも息を呑みました。

 実は『若さと馬鹿さ』のふたりは、『東京の恋人』のふたりとそこまで年差が離れた設定ではないんですよね。せいぜい5つぐらい。それでいて、このふたりは大学を出て社会人になっても、ずっとモラトリアム。ラストではあえてかっちりしないままのふたりの関係性でしたが、もうあんなことを延々と繰り返しながら暮らしていくんじゃないかという予感がしてしまうんですよね。

 このふたつの作品における世代の違いにすごく納得感があるんです。私が90年代に固執するのは、もちろん未来に進むために必要なことだと思っているのですが、私自身が小学生から大学生までを過ごした時間だというのも大きいのです。かつてロスジェネと呼ばれていた世代で、70年代を知りません。なんとなくかつて存在していた「生き方」というものの残像を感じながらも、その通りというのは通用しなくなっているけれど、かといって別の選択肢というもの自体がよくわからなかった。でも少し下の世代になると、どこか「生き方」に自由さがあるというか、軽さと意思を感じるのです。少し上の世代とは話が合っても、少し下の世代とは合わない。両作品の違いが、まさにそれなんです。

 自分は旧世代の末端にいるのだなと感じていました。もういっそ、新時代の抵抗勢力になったほうが楽に生きられるんじゃないかと思うほどです。だからこそ90年代という自分が生きた時間に意味を持たせないといけないし、自分が生きた場所にも意味を持たせないといけない。場所というのは、私が内国植民地の出身であることに端を発していて、大きな意味では線的な歴史性を持ちにくかったこと。なおかつこの国の教育過程において地域的なアイデンティティを育む小学3年生の時分に限って内地に暮らしていて、ゆかりのない土地の歴史ばかり知ることになったことで、何らかの大きな欠如を抱えてしまったようなコンプレックスがあります。辺境なるものを規定し、そことその外に固執するのにも、バックボーンとの関連を拭えないと感じています。脱線しましたが、私自身がそういう大人だということです。

「私の物語」を獲得せよ(1)

 私たちは『ダンスウィズミー』のごとく90年代の催眠から脱出したけれど、歴史が線的な連関を持たなくなっていたために、「さくっと」することに躊躇がない。けれど「さくっと」すればするほど個人がシステムの構成要素でしかなくなって、生きることの意味合いが希薄になっていく。『ゼイリブ』(1988)では”obey”(服従する)してさえいればまあまあ生きられたけれど、『クラウドアトラス』(2012)の複製種ソンミになると、もう経済動物でしかない。でも意志を持って生きること以上に重大なテーマはあるのだろうか。と考えて思い出したのは「再帰的近代化」の概念だったのですが、おそらくもっと根源的に、一個の知的生命体として、己の魂をどうするのかという問題が前面に出てきているのが今日のように思います。それを「私の物語」と呼んでいます。

 分かりやすいので洋画ですが取り上げてしまいますと、『アナと雪の女王2』には心底感動してしまいました。前作も生き方についての物語だったのですが、アナの限りないおせっかいのためにエルサがすっかり闇落ちしてしまったように思えて(個人の感想です)、音楽映画としての強度で記憶に残った作品でした。ところが本作は、自身のルーツの問題が出現し、その様子はまるで『レディ・プレイヤー1』(2018)でした。そこで自身の人格の由来を知ることになり、そして王位を妹に禅譲し移住を果たします。

 前作においていわば「大人になる」ことができたエルサは、もちろん周囲にも存在を肯定されているわけですが、役割を果たせても生きやすさとはちょっと違っていたんですね。そこ、つまり本人の内面をとことん見つけた結果、獲得した「私の物語」でした。王でありつつももうひとつのルーツを持ち、かつそれはかつて祖先が侵略を試みたいわば敵国です。この祖先のやり取りは『もののけ姫』(1997)にも似ているのですが、多様性をハッピーエンドとして、それも非西洋近代的な方向に持っていったすごさがありました。

 ルーツでいきますと『ジョン・ウィック:パラベラム』の主人公ジョン・ウィックも、頼ったのは子どものころ育った場所でしたね。

「私の物語」を獲得せよ(2)

 そして日本映画ですが、『海獣の子供』はまずその映像が圧巻でした。序盤の街の背景のスケールにしても、後半のかなり抽象的なイメージ造形にしても。ひたすら圧倒されながら観たわけですが、この作品も、ちょっと周囲とうまくやるのが苦手な少女が主人公です。彼女がジュゴンに育てられた少年と出会う。ガール・ミーツ・ボーイでありつつも、少年が自身に定められた運命を自覚しその身を差し出すのを目の当たりにします。遠いところから聞こえる「ソング」に引き寄せられる点で『アナと雪の女王2』と似ていますね。そして少女に向けられたメッセージはやはり、「私の物語」を獲得せよ、ということだったのだと思うのです。それを生命の誕生までステップバックしてしまうのって、宗教臭くなる危うい領域だと思うのですが、理解しやすさを求めにいかなかった演出が却ってよかったのだと思います。

 別のアプローチとして、『いなくなれ、群青』は実にユニークな設定でした。死後の世界かと思ったら、違うんですよね。大人になることはいろんなことを諦めることだとはよく言いますが、大人になる過程で心の中で殺してしまった自分が、まるで瞬間移動か拉致されたようにある島に集まってくる。面白いのは、元の場所を知っていて、ある者には帰巣願望がきちんとあって、クラスメイトがぽつねんと姿を消してしまうところ。島にたどり着いた自分がいかなる自分であるかを知ることで、ようやく帰るという選択肢が生まれます。それは「私の物語」の獲得なんですよね。

 この「私の物語」というテーマは、実のところはかなり普遍的です。なので年次で取り立てて語るもののような気がしないかもしれませんが、しかし、長いこと迷いながら進んできた(と私が思っている)日本映画シーンにおいて、この通過点があるということには重要な意味があると思っています。注釈をつけるとすれば、これらは再生の物語なのではなくて、まだ始まってもいない者の物語です。

 ちょっと壮大になりすぎましたが、ほかにも『五億円のじんせい』は5億円の善意で手術を受けて生還した少年が、5億円を稼ぐことで人生を自分のものに取り戻す旅が描かれました。あるいは『“隠れビッチ”やってました。』は楽しくもしみじみする作品でしたが、これもテーマとしては類似しているでしょう。また『閉鎖病棟―それぞれの朝―』はこの文脈だと変種ではありますが、裁判を通じて描かれるのは、ひとりひとりの「私の物語」の所有の認知だったように思います。「当事者研究」という言葉が商業作品のスクリーンに登場したのは初めてだったかもしれません。

 最後に、PFFグランプリとTAMA NEW WAVE特別賞の中尾広道監督『おばけ』について言及したいと思います。私はTAMAのコンペティションで観たのですが、よく分からないがえらいものを観てしまった、というのが感想でした。その後に追いかけで『船』(2015)と『風船』(2017)も鑑賞しました。その誰とも違う世界観。商業映画を目指しているわけではなく、身近でミニマムなものをじっくり撮る姿勢にも、船や星を擬人化して、きっと思いを託しているであろうファンタジックな雰囲気も、物語がありつつも一方でとても正直なセルフドキュメンタリーであることにも、とても感激しました。監督は私とほぼ同年代にあたります。作家と作品そのものが確固たる「私の物語」です。生活は大丈夫なのだろうかと思いつつ、尊い「生き方」を感じました。

素直に生きること、誰かの側に立つこと(1)

 では根源的な意味での「生き方」とはいったい何なのか。それはもう、すごくありきたりな話で、素直に生きることでしかないのだと思うのですよね。我ながら本当に凡庸な解で、なんなら映画の何割かはいつだってそのことを描いてきたんじゃないかと。そんなことを書くためにこれまで長々と書き連ねてきたのかと。それは、素直に生きることが解として描かれたところで、解の先には何があるのかということなんです。

 わかりやすいのではと思う例を出すと、『何者』(2016)は、優等生とみられていた主人公が就職浪人となり、挫折ののちふたたび前に進みだすところで終わります。斜に構えて素直に生きないことで自分を武装していた主人公が、それを脱ぎ捨てて、さあこれからというところ。それでどうなるのか。もしくは『魂のゆくえ』で大事件を実行できずに救われたトラーのその先とは。

 洋邦混濁で挙げてしまいましたが、こと日本について思い起こせば、素直に生きることの手本となる人を、私たちはあがめてこなかったんですよ。敬意はおろか受容もない。『男はつらいよ お帰り 寅さん』では満男が「いま寅さんがいればなあ」と思うわけですが、現存する人物で想定したときに『ロケットマン』や『i-新聞記者ドキュメント-』だと身辺との乖離が大きすぎて現実感がない。もっと身近な話なんですよね。突然ですが、Wikipediaの「ダサい」の項目には次のように書かれています。

周囲と同調する傾向の強い関東地方の人々は、東京から配信される「都会的」「洗練された」とされる情報に追随し、そうした価値観を反映した人間像を演じることで、都会から配信される文化を自分たちが支えているのだと認識していた。一方で関東人は「かっこいい」とは対極にある「ダサい」と評されることを極度に恐れるあまり、東京を通勤圏とする地方出身者を嘲笑の対象と見なし、彼らを揶揄することで自らの存在意義を確認していたという。

『青空娘』(1957)や『キューポラのある街』(1962)のヒロインは不遇ながらも純情な姿が支持されたのだと思いますが、「ダサい」が多用されるようになったらしい1970年代には、そういった純情さが流行らなくなったのではと推察されます。ダサさはさらにシュールさへと変異し、同調して冷笑できるものを探して安心するようになったのかもしれません。いまやシュールさもなく「なんかいやだ」という無根拠さで糾弾できるものを探しているようにも見えます。前述のイメージによる分断と同義です。なんだか戦時中みたいです。

素直に生きること、誰かの側に立つこと(2)

 そんななか突如として現れたヒーローは『町田くんの世界』の町田くんでした。いわゆるバカ正直な青年で、誠実で誰とも分け隔てなく接し、必要だと思った行動には躊躇がない。明らかに生きづらいタイプで、「うまいこと生きる」ことができる多くのクラスメートには変人に見えます。でも、町田くんみたいに生きられればなあという潜在的な感覚が、観ていくうちにぐんぐんと引き出されていきます。空を飛ぶファンタジックなクライマックスも、思いあふれる町田くんだからこそ気持ちよく受け入れられます。石井裕也監督の演出をこんなに堪能した気分になったのはいつぶりでしょうか。

 そんな町田くんの周囲の人びとがまた、彼を風変わりであることを認めつつも、排除ではなく付き合っていくことを選んでいるのがいいのです。とくに一見ニヒルに見える前田敦子演じるクラスメートが、なんだかんだといって伴走しているのが素敵です。面倒なんだとは思いますが、そっちの側に立ってあげることができる。これは「生き方」のもうひとつの面でしょう。

 素直であることと、相手の側に立ってあげること。『殺さない彼と死なない彼女』の3組の登場人物にはそんな関係性があふれていました。「かまってあげる」の方向性がひとつのように見えて、本当は逆だったり、いや結局両方ともなのかな。メインとなるふたりももちろんですが、自分本位に我が道を行っているようなキャピ子と、彼女の後ろ暗さを知ってそばにいてあげる地味子は数ある青春映画のなかでも名コンビです。当たり役となった堀田真由を受ける達者な恒松祐里の配役が完璧です。撫子ちゃんの真っ直ぐさも素敵ですが、面倒でも邪険にしない八千代君もまたいい。

 その撫子ちゃんこと箭内夢菜の七五調が見事だった『ブラック校則』も素晴らしい作品でした。きっかけはたったひとりの生徒が、地毛が赤いがゆえに校則違反とされてしまったことですが、それを何とかしたい凡人の主人公と、思うよりも行動が早い友人のコンビが、いつの間にか校内にわだかまっている不満を顕在化させます。これは社会変革の映画ですよね。それを若い人たちにもっとも身近なものに例えている。壁一面の落書きで多くを語ってしまったのはうまいなあと思いますが、あれを見てなぜか『あらかじめ失われた恋人たちよ』(1971)を思い出してしまったんです。髙橋海人に若い石橋蓮司を想起したのか、ちょっと脳内が整理できていませんが。こちらの堀田真由もよかったですよね。(タイトルを出す機会がなさそうなので、『プリズン13』もよかったことを書いておきます。)

 あとはもうスペシャルメンションみたくなってしまいそうですが、『長いお別れ』は二度童子のようなお父さんが何をしようとしているのか。お父さんのなかにあるアーカイブから引き出されてきた人生のハイライトを探し当てる家族の物語でした。『ひかりの歌』は一遍ごとをちば映画祭で観ていたのですが、ひとつひとつ判を押すように、それが最短距離でなくても純朴に生きるひとをじっと見つめる作品でした。個人的には千葉で撮られた大人の再生物語が好きです。

 二ノ宮隆太郎監督の『お嬢ちゃん』は、まるで萩原みのりで撮られた『枝葉のこと』(2017)だったのはすごかったです。撮るものが確立しています。主人公は、はたから見れば素直じゃない生き方をしていますし、明らかに生きていて損をしているように見えるのですが、かといってそうとしか生きられないのであれば、それが素直な生き方なんですよね。すごく共感できました。あるいは今泉力哉監督『アイネクライネナハトムジーク』もこのテーマに呼応する作品ではないかと思います。このくくりでは少し無理があるかもしれませんが、『つむぎのラジオ』も幻聴の側の自分と折り合いをつけていく物語でしたが、コミカルで楽しい作品でした。

なりたい自分が求められていない、求められない自分になりたい

 素直に生きるのが大事だとか正論を吐いてもねえ。はい、その通りです。私にもおいそれと実行する自信がありません。ただ、誠実さをベースとした社会をつくっていくために、選択するほうの「生き方」というものは少なからずあるだろうとは思っています。

 そんな説教の以前に、なりたい自分がはっきりしている人がいます。事情はそれぞれでしょうが、著しい生きづらさを抱えていて、自分を変えたい、変わりたい願望がある場合です。彼ら彼女らの鬱屈から一瞬抜け出させてくれるのが、アイドルだったりパンクロックだったりするのだと思います。とくにアイドルに関しては、本当に年間に何人の命を救っているのだろうと真剣に思いますよ。私も命とは言いませんが、精神的に支えられていた時期がとても長かったので。なので、女の子からしたら憧れるだろうし、その場所になりたい自分がいると信じるのはよくわかります。

 でも、アイドルとして生計を立てるということは、しかもまったくの素人が突然スポットライトを浴びるということは、並大抵のことではないですよね。努力というのはもちろんそうなのでしょうけど、なりたい自分を資本主義のなかに見出そうというのですから、肉体と精神に値段をつけられることを承諾しなくてはなりません。山戸結希が『あの娘が海辺で踊ってる』(2012)や『おとぎ話みたい』(2013)で語ったような恥ずかしい行為に人生を賭ける覚悟があるのかどうか。

 その、なりたいことと現実とのギャップがストレートに表れているのが『世界でいちばん悲しいオーディション』『IDOL-あゝ無情-』ほかの一連の作品群なのだと思います。まるで自傷行為ともとれるような無茶な努力で病院に送られる子も登場しますが、オーディションで歌って踊るときに「見せる」ことに意識的な子がとても少ない印象があります。プロデューサーにはそれが不満の種です。無事にデビューしてもなおそこを脱却できないまま、大揉めに揉めた末に解散するグループも映し出されます。

 ビジネスとしてはまったくその通りなのだと思いますが、彼女たちのことが分からなくもないなあと思うのですよね。前述のように、生き方が分からないし、頑張り方がわからないのだから。とくに頑張り方って難しいと思うのです。部活動でとにかく走りこんでしごかれて青春を過ごしてきたら、辛抱強くなったり縦社会に順応しやすくなったりするのでしょうが、その種類の頑張り方は明確なレールが敷かれた場合に強いので。作品の意図とは違うのかもしれませんが、すごく社会が見える作品群なので、シリーズ作品が発表されるたびに観てしまいます。

 誰かを思う、思われる関係性においても、なりたい自分となってほしい相手のギャップは映画に普遍的に描かれます。それにしても『宮本から君へ』の激情的な関係性は強烈すぎて笑ってしまうほどでした。彼女に降りかかる大事件からの復讐劇ですが、バイオレンスだけでない多面的な物語として面白く見ました。真利子監督の傑作だと思います。情感としては対照的なのが『愛がなんだ』でした。誰かを思う、思われることの多様性は今泉監督の真骨頂だと思いますが、ハッピーとかアンハッピーとかそういうことじゃない、これも「生き方」の映画だなと思います。閉館が決まっていた有楽町スバル座が若い女性で混雑している光景にも感動しました。また、このテーマといえば『かぐや様は告らせたい ~天才たちの恋愛頭脳戦~』も配役のよさで楽しく観ました。

 ちょっと観点を変えまして、いかに他人に求められるかでなく、求められない立場へのシンパシーというのもわかります。『すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』がまさにそうなのですが、登場人物たちは自分たちの生き方にとくに不満がなく、かつ強制的に冒険の旅に出たところで、流されるばかりで何かを為したりしません。「おじゃる丸」の月光町ちっちゃいものクラブとはその辺が少し違います。弱い立場が結集して団結ガンバローになるわけではなくて、存在価値とか結果主義とかから遠く離れてとりあえず希薄になりたいということなんですかね。とんかつの端っこやエビフライの尻尾を食べ残す大人に問題があるのですから、たまにはちゃんと言いたいことを言って団結してほしいなと、個人的には思います。

銭湯という名の空き地

 2018年のレビューで『リバーズエッジ』のことを書いたときに、まだあの頃のこの国には空き地があったんだと書きました。空き地はもちろん用途が決まっていない土地ですし、おそらく所有者がいるので侵入することはまずないのですが、しかしそこにあるということそのものがセーフティネットのように機能しているように感じています。ただ、居場所のなさを感じている人にとっての安心領域が、そうでない人にとっての不安領域だったりもして、浄化の観点からすると隙間は「さっぱり」としたもので埋め尽くされていたほうがよいのでしょう。道端のベンチも横になれないように仕切りがあったほうがよいのでしょう。公園も、きっと次々とセントラルパークみたいに見晴らしのよう空間に変貌していくことでしょう。

 そんな世の中の「ねっちょり」とした空き地=サンクチュアリは、銭湯なのかなと。『わたしは光をにぎっている』の主人公は長野からやってきて、人付き合いも苦手で挨拶もうまくできないのだけど、住み込むことになった銭湯の店主や入り浸っている常連たちのやさしさで、少しずつ大人になっていきます。主人公にしても常連にしても、店主にとっても、どんな気分のときにもそのときなりの吸収弁になっている場。銭湯がそんなふうに見えるんですね。その場所が東京・立石で、劇中でも再開発に反対する様子が描かれ、銭湯も廃業を余儀なくされますが、全体がサンクチュアリあるいは「ねっちょり」の街の最後を捉えたという意味でも重要な作品だったと思います。

 空き地には、ふだん見えているのとは別の顔がある、かもしれない。『メランコリック』の主人公も、やはり人付き合いが苦手でようやく店主の理解を得て銭湯で働くことになるわけで、その意味では『わたしは光をにぎっている』と同じ物語をたどりそうなところですが、殺し屋を店員として匿って死体処理をしているわけですね。『冷たい熱帯魚』(2010)のようなど田舎であれば家の風呂場とドラム缶でよかったわけですが(よくないですが)、東京の住宅街では銭湯になるというのがなるほど頷けます。『ジョン・ウィック』(2014-)シリーズよろしく総締めに反旗を翻して命からがら戻ってきて、それでラストで突然青春映画みたいになってしまうオフビート感がすごいですが、銭湯はもともとそういうところですよということなのかもしれません。

 アニメーションではPFF入選作で『くじらの湯』という、油彩画のような質感のダイナミックな映像がどこか高畑勲を彷彿とさせた、素晴らしい作品がありました。幼い子にとっては近所にある大海原でもあるのかもしれませんね。

猫問題

 2018年から漠然と気になっていたことがありました。猫映画が多いのではないか。2019年に鑑賞した新作では、ざっとこんな作品がありました。

『初恋~お父さん、チビがいなくなりました』『トラさん~僕が猫になったワケ~』『バースデー・ワンダーランド』『ねことじいちゃん』

 2018年には『猫は抱くもの』がありましたが、いつもこんな頻度だったろうか。しかも着ぐるみで演じてまでの猫濃度です。

 犬と猫はやっぱり違っていて、犬の場合は『ジョン・ウィック』(2014-)もそうでしたが(たとえに使いやすい映画だな)、人間の相棒として運命を共にする印象があります。でも猫は一緒にいてもそれぞれの生き方を尊重する、猫からしたら猫の集団としての生き方が存在している。

 これも『すみっコぐらし-』と同じで、猫になりたい願望が映画を生み出しているのでしょうね。オフィシャルな社会に疲れてアンオフィシャルな社会(反社会と呼ばないで)で気ままにやっていきたい気持ちを猫に託している。たぶん。でも、猫と酒の句は避けるべしといったのは千野帽子だったか。おそらくそれらに溺れているうちは創作の進化がないという意味ではないかと解釈しているのですが、猫自身のせいではないのに、どこかダウナーな雰囲気が漂います。

 しかしですね、猫だって楽じゃないわけですよね。と、2020年のいま、『キャッツ』(2020)を経てそう思います。この作品のことは1年後にまた。

盲目という未知の世界を体感する

 後述しますが、2019年からあるボランティア活動をしていて、目の見えない方向けの音声ガイドづくりの現場にお邪魔したり、台本制作にちょっとかかわらせていただいたり、上映の際に駅と劇場との送迎をやったりしています。ごくごくたまになんですけど。そうすると、ホンで正しいことを伝えるために何度も映像を見返して、なんなら登場人物の住む家屋の見取り図を脳内再現して言葉を見つけてくるようなことを、侃侃諤諤でやるわけです。あるいは送迎の際にどこを通ればいいとか、もう少しこっちに寄ればいいとか、道を曲がる角度とか、ふだんまったく気に欠けないことをものすごく考えることになります。

 すごいなと思うのは、目が見えないのにみなさんけっこうすいすい歩いちゃうんですよね。それと、音声ガイドはほんの一瞬の台詞のないところに視覚情報を入れ込みますので、膨大な情報量になるんです。それをよく聞き取って作品を咀嚼できるなあと。そもそも目は見えないけど映画ファンという方が少なくないこと自体が発見でした。

『ナイトクルージング』の劇中で映画制作を行う加藤監督も目が見えません。そんな彼が映像化したいイメージを発案し、周囲がそれを実現していきます。色という概念についても教えを請い、記号化して小道具に色指定もします。完成した映像は見たことのない独特なものなのですが、そこには彼にとっての空間の捉え方が反映されています。見えないのにどうして空間が分かるのだろうと思うのですが、立体をつかむ感覚があるんですよね。2019年の映画的発見としては、本作がもっとも刺激的だったと思います。

 その空間認知の様子が『見えない目撃者』でも再現されていました。元の韓国映画をおそらく未見なのですが、目が見えない主人公の主観による逃亡劇が非常にスリリングで面白い作品でした。吉岡里帆の代表作になったのではないかと思います。『イルカ少女ダ、私ハ。』(2014)以来にグッときました。

こんな日本を世界とつなぐ(1)

 いままでで一番ざっくりと言いますと、2017年レビュー以来、世界の映画シーンと日本のそれが扱うテーマに違いがあって、日本がどうやって世界のテーマに近づいていくかを見ています。もちろん国それぞれのテーマはありますし、その国の映画らしさ(歴史を守るというだけでは不十分で、マーケットに支持されることも必要)はとても大事です。そのうえで、社会を成熟させる方を向いているかということなんですね。

 実際、世界との距離感を測っている作品は、とくに劇映画はとても少ないと思っていて、渡辺紘文監督の一連の作品群でラジオやテレビの音として登場するのが珍しい例だったのではないかと思います。これまで書いてきたように「日本すごい」のような言説はただの幻想でしかなく、しかし自虐と言うつもりもなく、ただ世界と同じ土俵に立てばいいと思うだけなのです。

 そんなこの国そのものを異国にぶん投げたすごい作品が『旅のおわり世界のはじまり』でした。ウズベキスタンにやってきた日本のテレビクルー。湖で巨大な魚を狙ったり、飲食店で食レポを敢行したりするわけですが、日本のようにうまくいかず、イライラしたり、お金で解決しようとしたり、悪態をついたり、撮影班は不義理な態度を繰り返します。彼らにレポーター役で同行した売れない役者・葉子は、戸惑いつつも言われるがまま体当たりで撮影に臨むが、取材に行き詰まるなかで、自分で何かしようと動き始めます。

 なにかもう、このクルーがまるで日本という国の現在を凝縮したような集団なんですよね。斜陽化して久しいテレビというメディア、ネタさえあればいい消費一辺倒の行動、どうせお金で人は動くという発想、自分たちは歓迎されるはずという勘違い、日本では云々という島国根性。ハワイのような過ごし方のハウツーが詰まっている場所でもなく、アマゾンのような命を危険にさらす場所でもなく、田舎風情だけど異世界のウズベキスタンというのが絶妙です。劇中で述べられていますが、抑留された旧日本軍が強制労働に従事した土地でもあるんですね。そこに、今日の日本代表みたいな男女がポンと置かれてどう行動するかなんです。みっともないというか、申し訳ないぐらい高慢です。

 そんな彼らに振り回されながら、葉子には違和感があるわけです。収入は安定しているけど目の死んだサラリーマンと違って、役者としてやっていきたいけど仕事もないし人生に迷っている葉子。取材が難航するなか、悩みを打ち明けたフリーのカメラマンから撮ってみなよとカメラを渡された葉子は、何かをつかもうと市中を夢中で撮影するのでしたが。

 葉子がホテルからひとり飛び出して勇敢にも市場に出かけて、夜になって道に迷って帰れなくなったり、巨大なバザールで迷子になった挙句に警官に追いかけられたり拘束されたり。あの強烈な不安感ってすごくわかるんですよね。観光スポットにいるのならまだしも、偶然迷い込んだ住宅地ではコミュニケーション不能の10000%のよそ者ですから、迷い込んでしまったことに申し訳ないし、人びとの眼光の鋭さも、声も怖いし、暗いし静かだし東西南北も分からないしバスを見つけてもどこに行くバスか分からないし。

 私の場合、住宅地ではなかったのですが、旅行最終日の空港に向かう直前のマドリッドで不意に背後から首を絞められ、パスポートと現金とクレジットカードを強奪されたうえに、気絶して路上に倒れたことがあるんです。偶然通りがかったルーマニア人夫婦に起こされて、彼らは警察署に連れて行ってくれて調書を作ってもらって、クレジットカードの利用を止めてもらって。いま思い出しても泣きそうなぐらい救われたのですが、同行した友人とは空港で別れざるを得ず、そこから数日の孤独感はたまらないものがありました。朝から夕方まで駅のベンチでじっとしている経験なんて、後にも先にもこのときだけです。生まれて初めて海外で映画館に入ったのもこの数日後なのですが、その話はいつかどこかで。

こんな日本を世界とつなぐ(2)

 すっかり脱線してしまいましたが、とにかく、何者でもない葉子の、迷い子としての不安がとてもよく分かりますし、それは人生の迷い子の比喩でもあるし、同時に自分がいる業界への違和感も強まっていくんですね。さらに、日本で発生したという大惨事に彼氏が関わっているかもしれず、大いにうろたえます。あれは震災の、あの直後に爆発した石油タンクを思い出すものがあります。自分と愛しい人との距離感、祖国との距離感、世界における自分の位置、迷うなかで研ぎ澄まされる生きたい道。そして歌い上げる「愛の賛歌」。葉子がひとりの人間であることを獲得した素晴らしいラストです。いままで見たことのない新しいジャンルの作品を観たように思いますし、日本映画の重要な一里塚だと言えます。

 阪本順治監督が長年温めていたという『半世界』は、海外派遣されて帰国した自衛隊員が、傷心を抱えてたったひとり帰郷してくるところから物語が動き始めます。彼が海外でどう過ごしてきたのかは映し出されません。言ってみれば『ディア・ハンター』(1978)や『アメリカン・スナイパー』(2015)の帰国後だけを切り取った大人の友情物語です。

 地方都市の山側で暮らす主人公、同じ年の街場で生きる友人、そして元自衛官の友人。生き方、生計の立て方、他者との付き合い方、あるいは時間の流れ方にしても、彼らはまるで違います。もちろん友情は不変ですし、酒を飲めば思い出を分かち合うものもあるわけですが、腹に抱えたもののあまりの違いで、いまという時間を共にすることができません。享受するには単位の違うものを飲み込めない感覚でしょうか。

 2018年のレビューで紙幅を割いた『高崎グラフィティ。』(2018)では、服飾の勉強がしたくて上京する予定の主人公にクラスメートが、そんなに服が好きならイオンで働けばいいじゃない、そうしたら遊びに行けるから、と何の気なしに言い放ちます。それで主人公は絶対的な分かり合えなさを自覚するわけですが、本作『半世界』では分かり合えなさ(分かち合えなさ)が嫌悪ではないですし、むしろ分かち合えなくなっていることへの寂寥があるように思うのです。同じ年に住むふたりの違和感の距離に加えて、彼らと元自衛官の違和感の距離が加わることで、単位の違う物差しが同居して、地形図だった人びとの世界観が、一気に世界地図になるんですよね。終盤に失踪した友人を、世界地図から見つけ出すような感覚になるわけです。

 その視点の転換は『団地』(2016)においてもテーマだったのだと思いますが、リアリティがある分だけ心にぐさりと来る作品だったように思います。分かち合えなさを分かち合うという、民族も宗教も混濁したアメリカのような社会では生活のベースになっている考え方が、この国の来るべき未来として示されているのだろうと感じます。ちなみに稲垣吾郎演じる主人公は白炭の生産者でしたが、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(2000)の永瀬正敏は黒炭の生産者だったはず。生の方向へ向かう白炭の生産者と、死に向かった黒炭の生産者。偶然だと思いますが、林学をやっていた人間からするとちょっと気になる違いです。

 自衛官という職業は、今日を舞台とする作品においてこの国と戦争との数少ない接点のように思うのですが、阪本監督でいうと『亡国のイージス』(2005)、あるいは若松節朗監督『空母いぶき』は、ハラハラする内容ではありますが、わざわざこの国を脅かすメリットに説得感がないまま辛くも平和が保たれる物語はいささか内向的ではあります。あるいは『火口のふたり』の女が自衛官と婚約していることには暗喩があるのでしょう。作品自体は『東京の恋人』とも似て久しぶりに会い、まぐわった男女がやがて別れる物語で、70年代的感覚のある面白い作品ではありましたが、キネマ旬報の審査員たちはなぜことさらこの作品を称えることになったのでしょうか。

 どちらかといえば、この国には明らかに教訓とすべき敗戦の過去があり、戦争という切り口で世界を理解しようとする場合には、いまだにこちらのほうがリアリティと強度があります。おおむね、終戦記念日が近い夏には反戦的な作品が、開戦記念日が近い冬には勇ましい作品が多いと思っているのですが、『アルキメデスの大戦』は山崎貴監督が一見勇ましくも実は反戦的作品を夏に発表した意外さが印象的でした。巨大戦艦の建造をきわめてロジカルに反対した数学者がいて、しかし理性を上回る感情で建造されてしまったそれは、まったく無惨に沈没し、多くの若者の命を失うだけなのでした。ああ、あの日から今日に至るまで学習の苦手な国なんだろうなと思いながら鑑賞しました。また、耄碌した元衛生兵の祖父と、彼を介護しながら学校に通う孫娘の日々を描いた『春』は、就職活動を現代の戦争と捉えるラストがちょっとクサいけれども、しかし先の戦争と今日を有機的につないだ気骨ある作品でした。

男性は必要条件ではない(1)

 世界的なシーンの変容としては、過去に男性中心だった大作が配役の全部または一部が女性に置き換わる例が出てきています。『ゴーストバスターズ』(2016)、『オーシャンズ8』(2018)、『メン・イン・ブラック:インターナショナル』あたりが代表例でしょうか。ハリウッド事情はあまり追っていないので詳細を書くことを控えますが、日本においても、男性ありきでそことの距離を測りながら位置を取る女性ではなく、ただ単体の女性であったり、むしろ女性ありきで男性が距離を測るケースが増えてきているように感じます。

『最高の人生の見つけ方』は2007年ワーナー製作のハリウッド映画のリメイクで、リメイク版もワーナーですが、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンだった主演が吉永小百合と天海祐希に置き換えられています。かつ、病院で出会い先に亡くなってしまった少女のやり残したことを代わりに体験していくのですが、ももクロのライブでステージに上げられたり、食べきれないほどの巨大なパフェを注文して女子高生の注目の的になったりします。ある意味では他者になることで発見する世界や、そこに触れることで実現する自身のやり残したことが、生きることを鮮やかに描く素敵な作品でした。

 吉永小百合は、『北の零年』(2005)の渡辺謙や『まぼろしの邪馬台国』(2008)の竹中直人が代表例だと思いますが、年下の男性の役者とタッグを組むことが多く、それが本人の戦略によるものなのか分かりません。『北の桜守』(2018)の毎熊克哉との絡みは衝撃的でしたが、どうしてもそういった違和感で物語が頭に入ってこなくなるので、本作の設定には安心しました。それにしても、天海祐希演じる社長が賀来賢人と絡んでもさほど違和感がないのは、たいへん興味深いところです。

『勝手にふるえてろ』(2017)はゴリゴリにこじれた女性でしたが、大九監督の新作『美人が婚活してみたら』の、既婚者とばかり付き合ってしまう彼女も見方によってはこじれているのかもしれませんが、ある日突然誰かと結婚したくなって結婚情報サービスに申し込みます。中平康『結婚相談』(1965)を思い出しますが(こちらは途中から詐欺師みたいになりますが)、主人公と並走して、既婚者の友人が旦那の実家でいづらさを抱えている様子が描かれます。どの生き方が正解ということはないのですが、いろいろあるけどそれでも結婚がいいという向きもあるし、結婚にこだわらなくてもいいという向きもあります。おそらく主人公は後者を選んだのかなと思うのですが、かといって「恋か仕事か」みたいな話でもなくて、狭義の「ふつう」のために生き方をアダプテーションしなくていいんだ、という学びだったのではないでしょうか。

男性は必要条件ではない(2)

 さきほど戦争のくだりで触れなかったのですが、『あの日のオルガン』は本当によかったんですよね。保育所の保母(時代背景から敢えてこう書きます)たちが、園児を預かって集団疎開すべく親を説得し、承諾した家の子だけで古寺に移動したが、ほとんど女性だけのよそ者集団に周囲の目も厳しく、闘いの日々となります。しかも園児たちはホームシックで寝小便が絶えない。なかには耐え切れず離脱する保母も出てきます。

 戦争も末期のため健康な男はだいたい召集されてしまっていて、女たちが立ち上がったというより、考えることも動くことも彼女らでやらざるを得ないわけですね。廃屋のような寺の改修も、晴れの日も雨の日も毎日続く布団干しも、全部自分たちでやるしかない。ある者は心を強く持ち、またある者は天真爛漫に生き抜きます。皆を牽引する立場の保母を演じた戸田恵梨香が素晴らしく、空襲を受けた東京を見てきたあとの鬼の形相に、こんな演技をする人だったのかと驚嘆しました。戦争に大義があったとしても、それを始めた男たちも、そこに駆り出された男たちも、ちっとも役に立っていない。映画は現代を映す鑑ですので、またいつか必ずこうなるぞという警告でもありますよね。次に戦争が始まる前に、このコロナ禍で図らずも役立たずぶりが露呈してしまったように思えます。

 ガールズムービーの場合には女性同士の友情が中心に据えられることが多いものですが、『書くが、まま』では極端に自己表現が苦手な少女と、彼女がしばしば訪れる学校の保健室の先生の心の交流、とくに先生をダメな男から解放するクライマックスに心を揺さぶられます。また『放課後ソーダ日和 -特別版-』は『少女邂逅』(2018)のスピンオフ作品でしたが、クリームソーダひとつで冒険と友情の青春映画にしている脚本の確かさが印象的です。少し角度が変わりますが、不妊治療や生理といった日向で語られることの少なかったテーマがエンタテインメントとしてきちんと昇華しているという意味で『ヒキタさん! ご懐妊ですよ』や『生理ちゃん』も強く記憶に残っています。ドキュメンタリーもいいのですが、フィクションの商業映画になることで得られる社会的地位というものがあると思うのですよね。とくに両作ともコメディタッチなのがまたいいですね。

第一辺境のエクストリームと、あの世に近づいた映画たち(1)

 2018年レビューであれだけ辺境映画だと言ってきたのに、2019年レビューでの扱いはどうなんだと。自分でぶち上げたテーマですが、続きというか落とし前はきちんとしないといけないと思うのですが、これがびっくりするほど少なかったのです。そもそも辺境映画というのは、映画作家たちが無意識に東京を起点とした田舎を想起した場所が、経済的な保護地域の限界なのではないかという仮説に基づいているので、経済的な問題=国家的な貧困に対して彼らが実力行使に出るとき、辺境映画というジャンルは変化するのですね。それは歓迎すべきことです。そして、本当にそうなのかもしれないということで、のちほど新しいテーマを取り上げたいと思っています。

 とはいえ、しばし辺境について考察してきてよかったなと思ったのは、そのエクストリームとも言うべき『翔んで埼玉』が公開されたからです。全体が『アメリカを震撼させた夜』(1975)のように、いかにもな都市伝説をラジオでずっと聞いている体で、埼玉をこれでもかと自虐的に描いているわけですが、東京に対する埼玉以外にも、いくつかの関係性が出てきます。ひとつは埼玉と千葉ですが、対立しつつも敵の敵として味方にもなれるのは分かる気がします。

 そして注目すべきは東京と群馬の関係性です。サファリパークと赤城の空っ風から想起されたか、ものすごい山岳地帯と、野生動物の王国で、探検から帰ってこれないような場所として描かれます。そして、そこからさらに向こう側は描かれない。日本地図はもうそこまで書けていればよしという世界です。これぞまさに辺境映画の究極。作品の内容にはケラケラ笑いながら鑑賞しましたが、それとは別の意味で我が意を得たりと思いましたね。

 その辺境の向こう側とは何なのか。2018年レビューでは「リアルから脱出してファンタスティックになってしまう」と書きましたが、その「超える」行為に特別なものがあり、儀式的な意味合いであったり、あの世に近づいたりするようです。かつて『めがね』(2007)がおよそこの世の世界観と思えなかったことから「浄土ムービー」というジャンルを思いついたことがあるのですが、2019年はけっこう浄土感が出ていると思います。

 典型的だったのは『洗骨』(沖縄県)ではないかと思います。登場人物はほぼ全員が地元民ですが、帰省した人と内地から来たよそ者がいて、彼からするともう完全に異世界ですよね。執り行われる儀式、しかも島内に「あの世」が実在している。照屋監督の『born、bone、墓音。』(2016)も拝見していますが、素晴らしいコメディメーカーだと思います。ほかにも『きばいやんせ!私』(鹿児島県)も干されて東京からやってきた女子アナが、地元の人びとと祭りを古いスタイルで復活しますが、まさにこれも儀式です。とくに後半のまるでフラメンコギターのような劇伴が神々しい作品でした。『そらのレストラン』(北海道)や『嵐電』(京都府)もあの世感がありました。『凪待ち』(宮城県)はあの世っぽくはなかったのですが、迷いから抜けるために来たはずが、そこもまた浄土ではなかった、しかし修行の地ではあった、といったところでしょうか。やはり東京から離れれば離れるほど浄土感が高まりますね。

第一辺境のエクストリームと、あの世に近づいた映画たち(2)

 ロードムービーとしては『さよならくちびる』が見事でした。音楽ユニット・ハルレオは仲違いから解散を決め、ローディーの男とともにラストツアーに出かけます。やっていることは各地でコンサートを開催しているだけなのですが、ふたりが出会ったころのことや、いま一緒にいたくなくて別行動に出る様子から心模様が映し出されます。最終地の函館で解散したふたりはまた車に同乗して東京に帰ってきますが。あのラスト、長い時間をかけて行って帰ってくるという再生の儀式だったんですね。塩田監督では『害虫』(2002)が青森にある原子力関連施設に向かうけれど途中で堕ちてしまう少女の物語でした。海を越えたところに再生の地があるのでしょうか。『ダンスウィズミー』も東京から札幌にたどり着いて催眠が解けて、東京に戻ってきて人生をリセットします。

 では似たようなテーマを近くで展開するとどうなるか。『ブルーアワーにぶっ飛ばす』はCMディレクターの主人公が、祖母を見舞うため謎の友人(ネタバレですみませんがイマジナリーフレンドです)と実家のある茨城県に向かいます。まず、果てではなくて実家なんですね。なので、最初からそこには何もないことは分かっている。ただ、そこで自分自身を見つめ直すことになります。これは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)に近いなと感じています。だとすると、本作のラストで東京に帰る彼女は、むしろ東京を壊しに行っているのではないでしょうか。

 また『ひとよ』の場合、何度か大洗のフェリーターミナルが映ります。タクシーとフェリー。移動を生業としながらも、周囲をぐるぐる回るタクシーに対して、フェリーは北海道という「あの世」と茨城という「この世」を行ったり来たりしています。その、行こうと思えば行けるのに行かない、あの世の手前が舞台なんですね。そこに、あの世も経験してきた母親が帰ってきた。あるいは裏社会から足を洗ったはずの従業員は、かつての仲間に脅されて、フェリーから降りてくる客を定期的に運ぶことになる。母親の現在という情報も、フェリーの客が抱えている危ない荷物も、東京で汚く消費されるだけです。東京が魂の再生を阻んでいるのだと思います。なので、物語の結末は「赦し」になるのではないかと考えます。

公権力の不在とアナキズム(1)

 辺境にしろ貧困にしろ、あるいは素直さや誠実さを欠いた社会にしろ、利益の享受について人びとにまったく平等ではないですし、むしろ不均衡は広がるばかりです。公共が公共の役目を果たしていない状態なのに、選挙という民主的な手段ではここ数年、ほとんど何も変わっていません。現状が好きな人が多いのでしょうか。

 ようやく新しいテーマを挙げたいと思うのですが、それが公権力の不在です。実生活に対して何もしてくれないなら、公共を頼りにするのはやめて自分たちでどうにかするしかないという発想ですね。それが映画の物語にも反映されてきていると考えています。考える端緒は『菊とギロチン』(2018)で、ギロチン社を扱った作品としては『シュトルム・ウント・ドランクッ』(2014)もありましたが、ネオリベラリズムに反発してアナキズムが想起されるのは分かります。ギロチン社が関東大震災後のレイシズム、そのゴタゴタに乗じて壊滅させられた様子に、この国の近未来を見るようでもあります。

 そして公開されたのが『金子文子と朴烈』(製作国は韓国なので外国映画としています)でした。さして罪状もないまま逮捕されて、そこに抵抗すべく体制を挑発して、ある意味では死刑を獲得した夫婦ですが、国家がレイシズムと結合して招いたこのような実話があることは、よく記憶しておきたいところです。演出に軽妙さがあり、恋愛映画として楽しく甘美な面もあるのが秀逸な作品でした。

 もうひとつ。『賭ケグルイ』をこの場で取り上げたいと思うのですね。ギャンブルの強さでヒエラルキーが決まる高校で、支配側の生徒会がある一方で、負けて破産する事態になると終身の奴隷契約を結ぶに至ります。基本的には支配層と、在野で転校生の主人公の対立軸なのですが、面白いのは第三勢力の存在です。これは劇場版のオリジナル設定なのだそうですが、その高校のなかにあってギャンブルをせず支配層への服従もしないヴィレッジという結社があります。やがて三つ巴の抗争になるのですが、このヴィレッジというのはアナキスト集団をモデルにしているのだろうと思います。物語としてはヴィレッジ内部に反逆者がいるなど複雑ですが、娯楽作品にこういった発想が持ち込まれることはとても重要であり、また作品の醍醐味でもあります。

 ちょっとアナキズムに話が集中しすぎてしまいましたが、作品における公権力の不在としては、『タロウのバカ』のタロウはそれ自体が本名ではなく、いつも遊んでくれる年上の友達がつけてくれたものですが、母子家庭で母親は子どもをまったくかまわず、タロウは学校にも通っていません。タロウたち少年3人はやがて行き詰っていくわけですが、じゃあ誰か助けてやれよとか、制度があるだろうという点については、もう彼ら自身がそういう生き方ではないんですよね。手段を知らないということもあるだろうけれど、知っていたら大人を信用するのかといえば、おそらくそんなこともない。

 これは中国の作品なのですが、2019年に釜山国際映画祭に出かけた際に観た『Pebble』というドキュメンタリーは、それこそPebbleというあだ名の青年が主人公で、(英語字幕しかなかったのでやや推測も含まれますが)脳性まひのホームレスです。もともとはどこかで暮らしていたようですが、そこが嫌で飛び出して、以後は物乞いをしながら、公園で詩のような悪態のような(リリックではないかと思うのですが)発言をして過ごしています。だいたい市街地にいますので、彼の存在を行政が知らないはずもなく、しかしまったく彼に接触している様子はありません。

公権力の不在とアナキズム(2)

 このコロナ禍でヨーロッパではマフィアが自治体を実質的に仕切って外出自粛を呼び掛けている例があると聞きますが、民間警備的な発想はやはり現実的にあるのだと思います。『月夜釜合戦』はもともとそういったテーマの物語ではないと思いますが、しかし西成で生き、団結して自分たちの生活を守ろうという様子はまさに一例です。『任侠学園』にいたっては完全にそうですよね。荒唐無稽な設定ですが、行政や民間企業に学校経営を任せるよりかえっていい教育ができるんじゃないかという気分になってしまいます。あるいは『デイアンドナイト』は暴力も伴う世直し稼業でした。それこそギロチン社や『ギャングース』(2018)のような強奪もあり、ねずみ小僧っぽさがあります。

 いまや公権力が具体的にどれを指すのかすごくわかりづらくなってしまっています。いまもっとも身近な公権力は駐車監視員なのかもしれません。でも彼らはみなし公務員の民間人です。小さな政府になった結果、いちばん末端のところは委託業者になって、責任の所在がとても見えにくく、駐車監視員はいかにもとても弱そうな立場です。『ミドリムシの夢』はそんな彼らの物語ですが、こんな呼ばれ方をするんですね。では責任の所在はどうしているのかと思えば、『記憶にございません!』で三谷幸喜がこんなにも直接的に(いやついついそう思ってしまうだけなのでしょうか)政権の風刺をするほどです。あるいは『新聞記者』のように暗部を大真面目にえぐる作品が現れるほどです。もう映画メジャーも黙ってないですよということなのか。

 そういえば豊田利晃監督が誤認逮捕されるという一件もありました。その後に有志で制作された『狼煙が呼ぶ』は短編ですが実に凄味が効いていて、まさしく「黙っちゃいないよ」だと思います。それは暴動を誘うものではないのですが、しかしあまりに間違った権力の使い方がつづき、不平等が憎悪をいや増せば『ジョーカー』のような暴発もあるかもしれませんし、それをしないで何となく容認したような顔をしていれば、『漫画誕生』で描かれたような戦争翼賛的な流れに逆らえなくなってしまうかもしれません。

 このテーマの最後に、商業映画ではたいへん珍しく沖縄の米軍基地が物語の舞台となった『小さな恋のうた』も取り上げたいと思います。主役は日本人の側ですが、基地というフェンスの内側の守られた世界の少女が、外の世界と仲よくしようとするものの、世間の目の厳しさを思い知るというくだりが丁寧に描かれます。商業映画を通じて、一部の人の問題ではないということが伝えられることに意義があります。

ネオリベと時代劇

 映画界では会社ものがウケなくなって久しいのですが、テレビドラマではいまでも多く作られているようですね。わたしはテレビをほとんど見ないので語ることができないのですが。共同体から分業体制に、利益と生産性を徹底的に重視する体質がすっかりしみついてしまい、小ネタならともかく、娯楽として扱うには胃の痛くなるような出来事が多いのではないでしょうか。胃が痛いのは私だけなのでしょうか。でも、『釣りバカ日誌』シリーズ(1988~2009)のような軽妙な映画が新しく登場する気があまりしません。どうしても『七つの会議』のような重苦しくて大袈裟な内容になってしまう。あ、『釣りバカ日誌』でも佐々木次長には太田胃散が欠かせませんでしたっけ。

 ちょっと目新しかったのが『スタートアップ・ガールズ』でしょうか。映画ではスタートアップはすかした印象で描かれることが多かったかもしれませんが、本作で起業するのは小柄でぶっ飛んだ女の子です。彼女のサポートを命じられたのは対照的に生真面目な性格の、同年代の会社員。バディムービーで、クライマックスでは見事なプレゼンで出資を受けることに成功するわけですが、せっかく起業できることになった彼女は経営に参画することを放棄して、ぷいっといなくなってしまいます。これはサクセスストーリーなのか。たしかに、斬新な発想ができるすごい女の子ではあるのですが、いざ経営を始めてしまうと、自分を殺さないといけなくなる。せっかくの個性がかえってもったいない。彼女の幸せのためにはこのラストがいいと、脚本の高橋泉は思ったのかもしれません。

 やはり、現代劇でサクセスストーリーは難しい。しかし日本映画というのは実に便利なもので、時代劇に変換することでエンタテインメントにすることが可能なんですよね。『引っ越し大名!』は国替えで小さな城に移転することになった藩で、引っ越し資金から雇用問題まで算段する様子が描かれます。素晴らしいのは、いったん解雇した人びとを、長い年月を経て石高が上がった際に呼び戻すシーンです。いわば会社再建の物語ですが、どこか夢があります。

 あるいは『決算!忠臣蔵』の場合、討ち入りまでの資金捻出もありつつも、残る者の問題もある。こちらは会社清算に近いですね。お金が底をつきかけたとき、討ち入り時期の前倒しが可能と分かって、つまり自らの死が近づいたということなのに、無事に討ち入りができることにほっとしているような光景が何とも言えません。討ち入りシーンのない忠臣蔵という意味でも珍しい作品でした。

制作と興収の両立は可能なのか

 ここで書いてきて身も蓋もないことなのですが、ここまで取り上げてきた、あるいは私が見たことのある作品が興行収入の上位にいるのかどうか。まず恒例の、コナンとドラえもんの結果を見てみますと、2019年興行収入ランキングにおいて、コナンが5位、ドラえもんが12位です。コナンがかなり強いですが、ドラえもんがこの位置まで落ちたのは2016年以来ですので、全体感としては好成績の作品が多かったということになります。実際、2019年の興収総額は史上最高額だったそうです。ちなみに2016年と2019年に共通しているのは、新海誠監督が1位になったことです。

 さて、興収10位までで私が見た作品は以下の通り。

『天気の子』『アナと雪の女王2』『キングダム』

 20位まで広げると以下が加わります。

『ジョーカー』『翔んで埼玉』『記憶にございません!』『名探偵ピカチュウ』

 外国映画をあまり見ていないことを考慮して日本映画の10位までを挙げると、上記に『かぐや様は告らせたい 天才たちの恋愛頭脳戦』が追加されます。

 相変わらずヒット作をあまり見ていないことは反省するとしても、私の得意範囲とヒットの相関があまりにもなさすぎます。これを、いい作品がヒットしないように捉えるのは正しくないとは思うのです。ただ、これだけたくさんの質のよい作品があっても、興行的に苦労してしまうと次回のバジェットが取れなくなってしまうので、そうなるとしんどいですね。と書きつつも、アニメーション以外で30億円クラスの興収になるのはあまりに計画確度が低くなると思うので、はじめからローバジェットを基本とするしかないのでしょうね。

 ならば、2019年の東宝はどうだったのか。私が見た東宝配給作品(共同配給と映像事業部を含む)は以下の通り。

『七つの会議』『フォルトゥナの瞳』『君は月夜に光り輝く』『クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン ~失われたひろし~』『キングダム』『海獣の子供』『きみと、波にのれたら』『天気の子』『アルキメデスの大戦』『記憶にございません!』『かぐや様は告らせたい ~天才たちの恋愛頭脳戦~』『蜜蜂と遠雷』『マチネの終わりに』『屍人荘の殺人』

 前年に比べるとヒット作も多いですし、(個人的感想にしかなりませんが)作品の質も高いように思います。実際、プロデュース側が配役の期待値の積み上げだけで売上予測を作るのではなく、内容を練り上げようとしているように、私には感じられます。おそらくいまいちばん有名な映画プロデューサーは川村元気ではないかと思いますし、新海誠作品を大作にした立役者として高く評価されるべき人物だと思うのですが、2018年には6作あった関連作品が2019年に2作になっても(Wikipedia調べ)、全体の底上げ感はありますので、製作については今後も期待しています。願わくばヒット作が満遍なく登場することですね。

日本映画スペシャル・メンション

 2019年はテーマ的なトレンドからはみ出ても素晴らしい作品がたくさんあり、書ききれないのでここに集めます。

『そして、生きる』は震災映画ですが、結ばれると思われたのに結ばれず、それぞれの人生を歩く恋愛映画として見応えがありました。『書くが、まま』に続いて盛岡映画でしたね。恋愛映画といえば『ワイルドツアー』は三宅唱監督の甘酸っぱいいい作品でした。

 山田洋次監督は88歳で新作を公開しましたが、とはいえまさか中島貞夫監督が85歳で新作『多十郎殉愛記』を発表するとは思いませんでした。竹林での殺陣はいいシーンでした。市井昌秀監督は公開中止のピンチでしたが、『台風家族』のおバカさが見られてよかったです。

 ここ数年、デジタル映像の解像度が上がりデジタルリマスターが盛んになるにつれ、古い映画屋の話が脚光を浴びるようになってきていますが、『カツベン!』もそのひとつでした。現在の映画屋としては『ゴーストマスター』という熱狂的な愛情もありました。

 役者で見ていくと、『エリカ38』の浅田美代子、『よこがお』の筒井真理子の凄味は印象的でした。若手では『賭ケグルイ』での怪演もあった福原遥主演の『羊とオオカミの恋と殺人』は、やっていることは残虐なのに爽やかで最高です。『最初の晩餐』では、『天気の子』でもヒロインだった森七菜が小学生からいくつかの年代を演じており、ほかの誰とも違うしっくりとした演技が素晴らしいです。

 監督兼主演のすごい作品もありました。『1人のダンス』は安楽涼の魅力で成立している作品でしたし、『松永天馬殺人事件』の上映しづらい演出はアクが強くて楽しかったです。そして映画祭で偶然発見した『或いは。』は、制作当時中学生だったシタンダリンタ監督の長編作品で、自身が主演も務めています。これがテンポ感や演出もうまく、物語も面白い。監督自身がものすごく器用なんだと思いますが、スクリーンで見た際に、小沢昭一が映ってるのかと思ったんですよね。あの、ちょっとボードビリアンみたいな存在感も含めて、よく似てるなあと。かなり多作な人のようなので、今後に本当に注目したいです。

 ほか映画祭作品では、『旅愁』は日本で暮らす中国人コミュニティの男女の物語で、社会のなかでかなりの人数を為している彼らですが、映画の題材としては新鮮でした。裏社会ものはいろいろありますが、ふつうに生きる人びとももっと扱われてよいですよね。

「かけ手」という名のステークホルダー

 冒頭で学会に出向いたり、また先ほども音声ガイドの手伝いをしていたりした話を書きましたが、そもそもの話としては、とある映画祭のスタッフ登録をしたところに端を発しています。いまも登録しているのと、コアな部分を知り尽くしているとは言えないので固有名詞は入れませんが、いざスタッフ業務を始めた途端に、おそらく映画祭の長い歴史のなかでもトップなのではと思うような事態が発生してしまいました。

 やはり同じ理由で作品名も挙げないほうがよいように思うのですが、プログラムについては(その当時は)、担当者が決める部分と、スタッフ全員の互選で推薦する部分があり、後者にてあるドキュメンタリー映画がそれなりの票を集めたので、配給元との交渉が始まりました。ところが助成金を出している行政が、上映はいかがなものかと意見してきたんですね。それで、いま思えば闘えば(無視すれば、のほうが的確かもしれませんが)よかったのでしょうけど、それを受けてプログラムから外す対応をしたところ、大騒動になってしまったというものでした。

 映画祭の主催団体と行政と配給元以外は、この対応の事実を知りません。なので、配給元が広く抗議の意思を配信したことで事態が大きく動きました。それ自体は、たしかに自社商品の不買行為をされてしまったわけですから、自分たちの正当性を主張するものなのでしょう。ただ、そこからがたいへんでした。別の制作会社が作品を引き下げてしまったり、抗議のために舞台挨拶に登壇する人が出てきたり、どうやら事務所にもずいぶんな内容の電話もかかって来たようですし、ボランティアのなかには会場に行くのが怖いという人も現れました。事務局の方々もよく精神が耐えられたなあと思うぐらい。

 その場で起きたことって、ほぼプロレスなんです。リングに立っている人のことはわりとどうでもよくて、そこに向かって繰り広げられるマイクパフォーマンスにこそイベントが存在してしまった。もちろん、初志貫徹がよかったのだと思いますし、ライムスター宇多丸が「ふつうにやればいいのに」と述べるぐらいの軽い話だったはずなので、そこまでされないと上映に至れなかったことが、強いて言えば問題だったのだと思います。ただ、すべての始まりをつくった行政はこれまでの間、一度も顔を見せることはなく、意見はしたけど決定は当事者がしたことというスタンスのままです。自らの公権力を軽くみなしすぎています。

 本音を言えば、公権力ひとつを敵にして連帯したかったですよね。「かけ手」だけで自由へ奮闘するには、自分たちはあまりにひ弱です。このコロナ禍で配給元より先に映画館への支援の声が高まったのも、そこがいちばん弱いことを分かってこのことだと思います。抗議の舞台挨拶をした大監督は、釜山は闘ったんだと主張しました。それで、実際に釜山に行ってみて分かりましたよ。組織の規模が違いすぎる。学生ボランティアの協力体制がしっかりしているし、設備も巨大(メイン会場の施設名が「映画の殿堂」ですから)、とても素人集団とは思えません。少なくとも、週40時間労働した片手間でやるものではない。もともと文化事業に対する支援の少ない日本にあって、支援の厚い他国の映画祭を参考にすることの難しさを痛感しました。

 映画は作り手と観客だけのものではなくて、宣伝もあれば興行もある。そのなかで「かけ手」が業界の一翼として忘れられがちなのだと思います。かけたい人というステークホルダーの存在を重んじて、かけたい人を育てる機構の必要を強く感じる出来事でした。

 ちなみに当該の作品については通常上映時に鑑賞しており、エビデンスを積み重ねた上にフェアであり、たいへん良質なドキュメンタリーであったと感じています。そのことと起きた出来事は別々に考えています。

外国映画レビュー

 どうやら2019年は外国映画の鑑賞が少なかったようで、レビューにあまり紙幅を割くことはできないようです。全体的なテーマに大きな変化はなかったようにも思いますので、前年のレビューの延長で、その後を見ていく形で書ければと思います。

 ケン・ローチ監督が『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2017)に続いて発表した『家族を想うとき』は、日本でもどの国でも発生している、働くほどに貧困に追い詰められていく物語でした。配達という業種が状況の可視化にとても分かりやすく、個人事業主なのにまるで奴隷状態、配達先が配達員に接する態度はさまざまで、衝突もある。それでいて、親の心子知らずではないですが、どれだけ過酷なのかということがなかなか家族に伝わらないし、伝えたくもないですよね。本作はやるせないラストになります。監督自身、安易に解決を示して安心することに違和感があったのだろうと感じます。『ガルヴェストン』も貧困が背景にありますが、こちらも後味の悪い作品です。

 逆に、解決を見せてあげたほうがよいことは、差別をしないことかもしれません。『グリーンブック』は素晴らしい脚本のロードムービーで、腕っぷしばかりで不器用な運転手の男は、それでもピアニストの才能には敬意がありますし、他人にひた隠しにしている部分を非難したりもしません。凸凹コンビなので衝突は絶えませんが、いい関係性を見たと思っています。対照的に『ブラック・クランズマン』についてはKKKを捜査する警官が痛快でした。一見知性の高そうなおばさんがそんなことするかよ、というのは日本の極端な団体でも変わらない光景ですね。

 本当は2019年のレビューではあるのですが、書いているうちに世界状況がどんどん悪くなっているのでこのタイミングで書きますが、2018年にLGBTQについて言及できたのは、未来の新しい常識に向けて映画作家たちが表現できているからです。では現実はどうなんだと言えば、上記2作品がまさにそうですが、思い出なんかではなくて、現在進行形で人種差別が社会問題なんですよね。映画が企画から公開に至るまでの年数を考えると、トランプ政権第一期が積み重ねてきた社会へのメッセージが、アンチテーゼとして作品たらしめていると言っていいのではないでしょうか。はっきり言って社会が後退している。そして警戒していた事態が2020年に発生していること、その歴史を理解する必要があると思います。アメリカだけの問題だと矮小化してはいけないと思いますが。

 トランスジェンダーのバレリーナ見習いを捉えた『Girl/ガール』は、こんな作品が映像化できるのかという驚きがありました。主演のバレリーナ役は男性だったんですよね。ものすごい役づくりでしたが、強烈な信念で自分を追い込んでいく様を食い入るように見てしまいました。性についての問題でいうと、『メアリーの総て』は「フランケンシュタイン」を書いた女流作家が、はじめは匿名で出版するんですよね。あるいは『ガーンジー島の読書会の秘密』(私は2020年に鑑賞)では戦時中に上梓した作品は男性名のペンネームでした。いまでも「これを女性が書けるはずがない」などという決めつけを見聞きしますが、こういった勝手さもまた社会問題と言えます。ちなみに『ガーンジー島―』の読書会という秘密組織は、自由を奪われた者たちの抵抗として今日性を帯びつつあると感じます。

 前年には少しだけ、アメリカにおいてヒスパニック系を無視できなくなっていると書きましたが、『ROMA/ローマ』がベネチアのみならずアカデミー賞作品賞(と外国語映画賞)も受賞しました。メキシコ系の映画監督がハリウッドの第一線で活躍するなか、彼らの思い出を題材にした作品がアメリカ映画に内包されてきていると言えます。

 と、『アーティスト』(2011)が前代未聞と言われたことから、あくまでアメリカ映画の隣人が例外的に選ばれたと推察したわけですが、その翌年に『パラサイト 半地下の家族』が作品賞を受賞したことで様相が変わりました。もはやアメリカ国内における上映条件をクリアしていれば製作国に区別をつけられなくなったのだと思います。日本においていつまで日本映画と外国映画のベストテンを分けて作るのかという問題と、背景が真逆なのに結果として同じ問題が、いまアメリカで勃発しているのかもしれません。世界の力量の差が縮まってきています。

 なお、私は『パラサイト 半地下の家族』を2020年に鑑賞したので、詳細を述べるとしても1年後になります。

アメリカ、ふたたび

 アメリカ現代史について2018年には、政治批判の中心が共和党になりがちななかで、マイケル・ムーアがオバマ批判を展開したことを印象的だったと書きました。それはイデオロギー的批判ではないんですよね。むしろ、民主党だって結局同じじゃんという話で、「ジ・アメリカ」側に立つ人たちへの批判だったと理解しています。それは『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が、本多猪四郎『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964)を下敷きにした物語ではありますが、オキシジェン・デストロイヤーで人類によって殺害されたゴジラが、キングギドラに勝てないと悟った人類によって放射能によって蘇生させられるという、かなりひどい物語だと思うのです。こういうのが「ジ・アメリカ」であり、そのうえにあるのが「ザ・システム」です。

『マリッジ・ストーリー』は2019年におけるザ・システム・オブ・ジ・イヤーだと思うのですが、離婚調停に臨む双方の腕利きの弁護士が、かつて愛し合っていた、もしかしたらまだ愛があるはずのふたりを、憎悪しかない土俵で戦わせるわけですね。それで獲得するものは、親権の割合の5%の差です。しかも、本人たちが望まない結果を獲得して弁護士は勝利に悦に入っている。これなんなの。ちなみに、カリフォルニアは家が広いので住みやすいという妻に対して、ニューヨークの狭くごちゃごちゃした空間がいいという夫の、その価値観の差にはぐっときました。戦後、復員兵のためにショートケーキハウスを造成した理想の自由主義国の70年後の姿です。『ジュリアン』も親権獲得の映画でしたが、こちらは父親が狂人なのでどちらかと言えばホラーなのではないかと思っています。

 アメリカ政治について取り上げると、共和党も民主党もどちらも批判的に描かれていた印象があります。出来事の時系列順でいくとスコセッシ『アイリッシュマン』は実在の人物たちによる物語ですが、途中で大統領選の様子が映し出され、ケネディがまさにアイリッシュマンたちマフィアのバックアップにより当選できたことを示します。日本では歴代大統領のなかではオバマと並んで人気が高い彼ですが、あるいは生前中のほうが黒いイメージが強かったのでしょうか。

『ファースト・マン』は、米ソの宇宙開発がアメリカ国内で財政を圧迫し、それこそケネディや彼の死後に昇格したジョンソンがソ連に勝つために取った戦略で批判が高まっているなかで、月に飛び立つアームストロング船長ほか一行を丹念に調べ上げて取り上げた快作でした。家族や仲間の死を抱えながら、かつ政治に利用されながらも、それぞれの人生における位置づけを噛みしめながら月に向かう彼ら。月面シーンは圧巻でした。個人的にはチャゼル監督の最高作だと思います。ちなみに『アド・アストラ』を観ると、本作や『インターステラー』(2014)がいかにすぐれた作品だったか身に染みます。

 タランティーノの最新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は1960年代末のハリウッド、そしてスパゲッティ・ウエスタンのイタリアが舞台ですが、マンソンファミリーの田舎ホラー感が強烈に記憶に残っています。のちに調べてみると、若い女性を言いなりしたり終末観を唱えたりと、90年代の日本のあの団体と共通するものがあるようですね。

 時は流れ90年代から00年代。父ブッシュ時代を経て、知事をしていたブッシュJr.が大統領選に打って出た際、隠居していたはずのチェイニーが復帰し、名誉職であることを逆手にとって国家を手中に収める様子が描かれたのが『バイス』でした。憲法の解釈の変更、でっち上げでなんでもありの蛮行の数々、そういえば日本に輸入されてますね。なかでも最恐のイラク戦争については『記者たち 衝撃と畏怖の真実』にも詳しく取り上げられています。チェイニーの若かりし頃が正真正銘のクズですが、世渡りに必要なのは運とカミさんと人脈と・・・。クズだからこその下僕感ってありますよね。

 これはフィクションですが、『運び屋』はひょんなことから麻薬販売ルートに編み込まれてしまった老人の物語でした。それまでは外国人労働者を雇って花卉農家をやっていたが、経営がうまくいかなくなり廃業したあとで、今度は異国の怖い人たちにこき使われるという、『グラン・トリノ』以後を捉えたイーストウッドのアメリカ社会アップデートだったと思います。

アジアシーン(1)

 まず中国では、『芳華-Youth-』が文化大革命から四人組逮捕、中越戦争、そして改革開放された90年代へと続く、いわば大河ドラマの重厚感がとにかく圧巻の作品でした。第二次世界大戦後のアジアは国によって時間の流れがまったく違ううえに、どの国の歴史をたどってもあまりに濃密かつ悲哀に満ちており、どこを切り取ってもドラマになるように感じます。とりわけ本作は中国現代史の要点を、かつて存在していた歌劇団を通じてとてもきれいに抽出しています。文革時代がこんなに美しくてよいのだろうかと思ってしまいますが、しかし制約の多い社会が放つ異様なきらめきをどうしようもありません。90年代の彼女たちが、主人公を除いてみな思いっきりアメリカナイズされているギャップにもやられます。

 90年代というと『迫り来る嵐』の風景もまた中国で、一部の恵まれた人たち以外はむしろこちらの風景のほうが現実に近かったのかもしれません。行きずりの男女をずっと見ていたくなる作品でしたが、そこに制約が存在して幸福になれないのもまた中国ということでしょう。

 台湾の映画シーンは変化の季節なのだと思いますが、新作があまり日本で公開されていないように思いますのでしばし様子見のスタンスでいます。『台北セブンラブ』はスタイリッシュさ重視のトレンディドラマと言えますが、どうしてもその時代の空気を共有していないと共感が難しいので、内向的な印象を受けます。他方、釜山で観た『ギャングとオスカー、そして生ける屍』は日本の90年代のような華麗な爆破シーンもあるコメディで楽しかったです。こちらは2020年の大阪アジアン映画祭でも上映されたので、日本公開もありうると思います。

アジアシーン(2)

 韓国は相変わらず濃い政治史がエンタテインメントに昇華しています。『22年目の記憶』は国家によって金日成の形態模写をしていた男の物語ですが、完全に自分が金日成だと思っているから、開発予定地にある我が家の取り壊しに徹底的に抗うわけです。これがすごく切ない。そしてどうしても『焼肉ドラゴン』(2018)を思い出してしまいます。

 そして2019年韓国映画のベストは何と言っても『工作 黒金星と呼ばれた男』でしょう。この国の歴史を下敷きにしたこんなにスリリングなスパイ映画を作られてしまっては、他国はもう太刀打ちできません。しかも、自国の大統領選の結果の工作までしてしまう。それに比べると『アイリッシュマン』は純朴ですね。しかし民主化を願う国民によって工作は突破されてしまいます。『新聞記者』で描かれた内調をもつ日本には、国民によって工作を突破できる日はあるのでしょうか。

 以上の中韓の各作品がいずれも90年代を描いているのは非常に特徴的ですね。あらためてアジア各国の90年代史だけを横並びにして、さらにそこに映画を重ねたら、もうそれだけで本が一冊作れそうです。

 韓国でもうひとつ。『リトル・フォレスト 春夏秋冬』は日本原作のリメイクではありますが、私にはこちらのほうがしっくりときました。岩手県南を舞台にした日本版(こちらもブルーレイを持っているぐらい大好きなのですよ)は、この時代の生き方にしてはかなりストイックで、カウンターカルチャーとして敢えてそうしている気がしますが、実現するのはさすがにきつい。その点、都会での低賃金労働に疲弊した主人公が、売店もうまく使いながら生活している様子は現実的ですし、より今日の問題にフォーカスしていると思います。雪を掘って手に入れたよれよれの白菜で作るピカタのようなチヂミのような食べ物がすごく記憶に残っています。

 東南アジアではタイから『ホームステイ ボクと僕の100日間』がありました。森絵都「カラフル」が原作なのですが、原恵一監督の同名作品(2010)のリメイクではなく、原作から脚色しています。脚色が作品をまったく違うものにしてしまうという好例ができたと思います。ベトナムからは『第三夫人と髪飾り』がありましたが、まるで日本の近世のやんごとなき家柄のようでした。未成年の主役への演出としてはかなり驚くべきものがありますが、その世界への理解(その側に立てばそちらが正しいという意味での)も含めて、とても重要な作品だったと思います。主役の少女がとてもきれいで引き込まれました。

 マレーシア作品では、釜山で上映された『夕霧花園(The Garden of Evening Mists)』は、阿部寛が出演し、当時の日本軍による虐殺や戦後処理が絡んでおり、おそらく日本公開されるでしょう。

日本映画ベストテン

『旅のおわり世界のはじまり』
『蜜蜂と遠雷』
『海獣の子供』
『さよならくちびる』
『宮本から君へ』
『デイアンドナイト』
『岬の兄妹』
『町田くんの世界』
『あの日のオルガン』
『月夜釜合戦』

外国映画ベストテン

『グリーンブック』
『ファースト・マン』
『金子文子と朴烈』
『アナと雪の女王2』
『アイリッシュマン』
『ROMA/ローマ』
『芳華-Youth-』
『第三夫人と髪飾り』
『工作 黒金星と呼ばれた男』
『ジョーカー』

映画祭ベストテン

『Pebble』
『或いは。』
『19歳』
『祖母』
『春』
『くじらの湯』
『止まるな』
『旅愁』
『おばけ』
『AYESHA』

 自粛生活が長く続いたのでこの文章を書けましたが、仕事しながらこの文章量は、ふつうにはちょっと無理ですね。なので、来年きちんとレビューを書けるか分からないです。せめて収入になればよいのですが。ということで、有料にて読んでいただいた皆様ありがとうございました。

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