『狼をさがして』騒動に思うこと

 最近、『狼をさがして』という作品の上映を予定していた映画館が、政治団体の街宣活動が予定されていることで警察署から連絡を受け、周辺の商店への影響を鑑みて上映を断念するという出来事がありました。そして、ある意味では予想通りに、そのことに抗議する意見が映画人たちから出されることになりました。ただ、言いたいことは分かるもののどこか違和感があり、思ったことを投稿することにしました。緊急的に書きましたので、一時的な掲載に留めるかもしれません。まずはどんな作品であるかを書いたうえで、起きたことへの違和感について述べることにします。なお、当該の映画館の固有名詞を文中には出しません。後述のように、特定の映画館が注目されることは本望ではないからです。

 本作は韓国の女性監督が、東アジア反日武装戦線が起こした数々のテロ事件と彼らの思想、「狼」を創設した大道寺将司のルーツ、そして事件後を追ったドキュメンタリー作品です。韓国人がわざわざこのテーマを扱った理由は冒頭に語られていて、監督のお父さんが韓国で日雇い労働者だったことに端を発してるんですよね。それで、日雇いのことを調べていくと植民地時代まで遡って、日本を訪れて釜ヶ崎に行ってみたら、そこに韓国と同じ光景があったということなんです。

 同じというのは、労働の話だけではなくて、政治的主張も含めてのことなんですね。ビラを配ったり。そこから、かつて彼らを主体とした闘争があったことに視点が移ったところが、もともと労働運動をテーマにしていた監督らしさなんだと思います。それで東アジア反日武装戦線にたどり着きます。

 この経路で日本の闘争史に入り込む視点は、日本に住む日本人にはまず持ち得ないんじゃないかと思うんですよね。私などは、60年安保と70年安保という学生運動があって、あさま山荘事件があって、それで政治の季節は終わったという歴史理解が強くて、とにかく学生たちの話だと考えてしまっていたんです。たとえば、かつてセクトに属していたすごく年上の知人から、赤衛軍事件の首謀者(『マイ・バック・ページ』の松山ケンイチです)と塀の中で会った話を聞いたことがあるのですが、曰く「ちょっと違う」、つまり模倣犯というか、同じ政治犯という捉え方をしてなかったんです。

 そのせいもあって、学生でない活動家による三菱重工爆破事件については、名前を知っているぐらいで、中身についてはまるで知らなかったんです。しかし、この作品を観てから、日本の闘争史の見方がかなり変わりました。彼らの主張はたいへん明快だし難しくない。そこには、大道寺将司の出身地の釧路での経験があります。ここは私も道産子ですので分かる気がするのですが(それを感じない人も多いと思うけれど)、内国植民地というぐらいで、突き詰めると自分が侵略者の側にいるという呵責がある。その実感をして自分の言葉が主張を成しているわけです。それだけに突き付けた刃は鋭い。

 さて、どうしてことさらこの作品に対して、対極の政治団体が過敏に反応しているのかということですが、韓国人の映画監督が日本の侵略主義を批判した作品が公開されることに、表層的に反応しているのではと推察しています。この点おいては、ナタリーの記事に彼らの主張が書かれていました。そして配給会社と映画館の代理人として会見した弁護士はそれらを否定しています。実際に鑑賞した身としても、ぶっ飛んだ主張で理解しかねると思いました。

https://natalie.mu/eiga/news/427665

 それでも妨害を受けたからには、起こりうるリスクをどうするか考えないといけません。上映を中止することは、取りたくない選択肢だったはずですが、それでもそうせざるを得ないこともあるのだろうと思います。私がかつて体験した似た事例については2019年のレビューにあるのでここでは書きませんが、そうした苦渋の決断に対して、どうしても抗議の声が上がります。それは何らかの作品を作る側からの意見が多く、暴力に屈した興行側に責任があるということなんですよね。

 そのことについてはよく分かりますし、自由を脅かすものを許容はできません。ただ、ひとつ重要なこととしては、映画をかける側というのはあまりに非力だということです。こと緊急事態宣言下、公権力が全国の映画館のこれまでの努力を黙殺した状況にあって、周囲の商業地への影響も背負いこんで闘う体力なんてあるのでしょうか。もっとも、その商業地というのが、大きなデベロッパー資本なのか古くて猥雑な環境なのかによっても判断がぶれると思います。周囲の反応をつまびらかにすることはしないでしょうから、分からないですよね。でもそういうことまで想像したほうがいいんじゃないか。

 もし映画館に、周囲への影響も背負いこんで闘争する体力を求めるのであれば、その体力を持てる映画館だけが生き残ることになるでしょう。あるいは、あらゆるリスクを回避できる作品だけをかけるでしょう。それでも一度は上映しようと手を挙げた映画館は批判されて、手を挙げなかった映画館は誰にも批判されない。いずれ、リスクのある作品は配信に回ると思います。すでにそうなっているのかな。映画館を守るのはいったい誰なの。

 先ほどのナタリーの記事によると、配給会社の社長さんは、上映館だけが責任を背負うものではないと述べておられます。そんなふうに思ってくれる配給さんでよかったねと思いました。なかには映画館をリングにしてプロレスをしてくる会社もあるなかで、そういう会社ばかりではないのだと知らされました。監督がどういったリアクションをするのかは読めないところですが。配給さんが板挟みにならないことを祈ります。

 私たちにできることって何でしょう。その映画館にシンパシーを感じるのなら、そこで別の作品を観ることではないでしょうか。それとも作品が気になるのであれば、別の映画館でその作品を観ることです。「その場所で、その作品を」という条件をマストにせずに双方が生きられる選択ができればよいと思います。いますぐじゃなくても。

 繰り返しになりますが、『狼をさがして』はあまり扱われない題材を思わぬアプローチから捉えた興味深いドキュメンタリー作品ですので、2021年の映画シーンを捉えるうえで目撃しておいたほうがよいように思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?