ガスのおっちゃんとの心理戦
昨年の年末頃の話。
ピーピーピーという音で目が覚めた。聞いたことのない音だった。時計を見るとAM4時。普段なら絶対に目覚めない時間である。
睡眠への執着が赤子並みである私は、ピーがどうした、ピーなぞ知らん。無視して二度寝を決め込もうと瞼を閉じたが、聞き慣れないピー音というのは人をやたら不安にさせるもので、その不安は私のスムーズな入眠を阻害、やむを得ず、こんな時間にピーピー鳴いている不届き者の正体を確かめるべく、布団から這い出る羽目になった。
リビングに行くとその正体はすぐに判明した。夜も火力を極小にして付けっぱなしにしているはずのストーブが止まっており、赤いランプが怪しく光っている。まだ薄暗い部屋の隅で、その見慣れない赤は小さいながらも何かしらの緊急事態であることを十分に主張していた。
近づいてみると、ランプのところに「給油」と書かれている。アパートの灯油は共同タンクなので、灯油が切れるということは基本的にあり得ない。何かの間違いだろうと思い、試しに電源ボタンを押すと動き始めたので、なんだあ、と一度はベッドに戻ったが、数十秒後にまたピーピーピーと呼び出され、見に行くとストーブは停止、ランプも再度光っていた。まさか本当に灯油が切れたのだろうか。もしくは故障か。なんにせよ、この雪国で真冬にストーブが使えないのは死活問題である。
やきもきしながら九時まで待って、ガス会社に電話した。すると、同じアパートの他の住人からも連絡があったという。すぐに来てくれるとのことで、とりあえずは安心した。しかし部屋は暖気を失う一方。友人から「冬になると口数減るね」と評されるくらい、人一倍寒がりな私である。何とかこの時間を乗り切るべく、厚手の服をかき集め、モッコモコに重ね着した状態でその時を今か今かと待った。
しばらくすると、作業着を着たガス会社のおっちゃんがやってきた。「外のなんちゃらの接続がなんちゃらだったんで、もう大丈夫だと思います」と言う。よくわからないが、やはり灯油切れではなく何らかの故障だったようだ。「念のためストーブがちゃんと動くかどうか確認させてください」と言うので、家に上がってもらった。「ごめんなさいねえ、寒かったでしょう」と気遣ってくれる。「いえいえ、大丈夫です」と答えるが、如何せんモッコモコの主張が激しい。
おっちゃんがストーブの前に座って電源を入れる。いつものことだが、火が付くまでには少し時間がかかる。私はダイニングテーブルの椅子に座って待機。おっちゃんをじっと見ているのも何だか気まずいので、テレビの方を向く。情報番組が流れていて、年末の片づけについて特集している。自分の「利き脳」によってどんな収納方法が向いているのか分かる、という話題。指を組んだときに右と左どちらの親指が下か、腕を組んだときに右腕と左腕どちらが下かによって、それぞれ「右脳タイプ」と「左脳タイプ」に分かれ、その二つの組み合わせで向いている収納タイプが分かる、ということらしい。画面上に表が示され、四つの収納タイプと特性が記されている。それに沿ってスタジオのタレントたちが指や腕を組み、私はこれ、あなたはこれとワイワイ盛り上がっている。
ハッ、くだらない。実にくだらない。こんなものどれほどの信憑性があるのか、全くもって疑わしい。だいたい日本人というのは、血液型占いやタイプ診断みたいなものに自分を当てはめて喜ぶくせに、一方で「もともと特別なオンリーワン」なんて歌も大好きなのだから矛盾もいいところだ。本当の自分は、自分の中にある。そんなことにも気付かないで利き脳だなんだと大盛り上がりして、何とも嘆かわしいことである。
しかし、だ。
例に漏れず、私も一生活者として年末の片づけや大掃除に追われる身。タイムリーな話題であることは否定のしようがない。季節の話題を提供しようというテレビ側の心意気に乗っかって、素直に診断されてみるというのも気持ちのいい大人としての態度ではなかろうか。せっかくデカデカと表にまでしてまとめてくれているわけであるし、あれこれ無粋なことを言わず、試してみるのも悪くはないだろう。
つまり一言で言うと、私はその利き脳による収納タイプ診断とやらをやってみたくて仕方なかったわけであるが、しかし、そこで一つ問題が発生した。私の斜め後ろに、おっちゃんがいるのである。ストーブが付くかどうかを確認するだけなので、おっちゃんはストーブが付くまで手持無沙汰。そうなると、私のいる位置と角度からは確認できないが、おっちゃんもテレビを見ている可能性が高い。そしておっちゃんの位置からは、テレビと私が同時に視界に入るのだ。つまり、もし私が大っぴらに指を組んだり腕を組んだりしようものなら、ばれる。利き脳で自分に向いている収納を知ろうとしていることがバレてしまう。私にとって、利き脳で自分に向いている収納を知ろうとしていることがバレることほど不名誉なことはない。
どうにかしておっちゃんにバレずに効き脳チェックをしたい私は、少し考えてから手始めに足を組んだ。そして自然な動作になるよう慎重に、膝がおっちゃんからできるだけ遠ざかる方向に座り直す。仕上げに何気ない感じで指を組み、膝の上に置く。完璧。我ながら実に自然な動きで指を組むことができた。もし今の動作がおっちゃんの視界に入っていたとしても、効き脳を調べているという確信までは得られまい。なるほど、私は右の親指が下になっているので「右脳タイプ」のようである。
さて、問題はここからだ。指を組むより、腕組みの方が格段に難易度が高い。上半身で目立ちやすいのはもちろんのこと、指を組んだ直後に腕を組むという動きの連続によって、利き脳を調べていることに気付かれやすくなる。
一瞬で終わらせてしまうというのはどうだろう。つまり、シュバッと組んでシュバッと戻す。ラーメン屋の店主の型を取り入れたストリートダンスの振り付けみたいな感じで軽快にキレよく。いやしかし、恐らくそんなダンスは存在しないので、おっちゃんが若い頃ストリートダンスをかじっていた場合、不審に思われる可能性がある。
ならば逆に、おっちゃんが気付かないくらいゆっくり腕を動かしてみるのはどうか。絵の一部分がいつの間にか変化している脳トレみたいな要領である。いや、だがそれも、おっちゃんが日々厳しい脳トレに取り組んでいる脳マッチョ初老であった場合すぐさま見破られてしまうだろう。
考えている間にも番組は進行している。まずい、急がねば。一か八か腕を組んでみようか。しかし、背後からの視線を感じて、どうしても体が動かない。
しかしそのとき、私は気づいた。背後からの視線というのが錯覚である可能性はないだろうか。おっちゃんはテレビと私を見ていると勝手に思い込んでいたが、火がつくまでストーブの方をじいっと見つめている可能性もある。何気なく、一瞬、振り返って確かめてみればいい。
私は勇気を振り絞り、ほんの少しだけ頭を動かして、おっちゃんのいる方向を横目で確認した。すると、信じられない光景がそこにはあった。
おっちゃんが、腕を組んでいる。テレビの方を見ながら、腕を組んでいるではないか。
私が呆然としている間にテレビは次の特集へと進行し、ストーブにも火が付いて、おっちゃんは「大丈夫そうですね、では。」と言ってあっという間に帰って行った。
おっちゃんも利き脳で自分に向いている収納を知りたかったのだろうか。それとも、たまたま腕を組んでいただけなのだろうか。
ストーブは休んでいた分を取り返すかのように、ぐんぐん赤く燃え盛っている。私は徐々に暖まる部屋の真ん中に立ち尽くし、無意識のうちに腕を組んだ。
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