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死体と霜を個展に飾る

 残念ながら、ひとはいつか必ず死んで、ブヨブヨしたよくわからない、美味しくもない(であろう)肉塊になる。残念ながら、自分にとっては、死んだ後にはなにも残らない。仮に、何か素晴らしげな達成によって、数百年数千年先でも名前が知られるようになったとしても、それで、それになんの意味があるのか。死んだ状態で一体なにを感じるというのか。そもそも、名前が知られたからといってそれがなんだというのか。なるほど、幸福であるためにはそれに自覚的でない必要がある。では自覚してしまったひとは無自覚に還るべきか?いやそうではない。宗教の信仰や忘却、薬の使用などによって幸福になって、そういう種の虚無主義を棄てるのは自身に真摯でない、筋が通っていない行為であるだろう。(ただし、問題は自らを欺いていることではなく、信念を欺いていることであって、本質的に悪である自分を抑えて善行に努めるようなことは信念に誠意のある行為である。)だから、少なくとも僕にとっては、凡ゆる幸福論はみな、錯覚のやり方事典にすぎない。いわゆる幸福な人間はみな、妄想と幻覚に支配された真に空虚な酩酊者である。人生に夢見るギャンブル中毒者である。この人生には、人生に執着するに足るものは、ずっとなんにもない。現実を正視すれば、じぶんが際限なく広がる虚ろのなかにひとり、ぽつんとうかんでいるのをみることができる。もう二度と目を離すことはできない。

 ここで、自覚した状態にあって、それでもぼくは幸福になりたい、というひとがいたとする。なら、そうすればいいね……というわけにもいかない。意図して無自覚になることはそう容易いことではない。『一生「無自覚の役」に憑依されたまま舞台の上で死ね』と言われて、完璧に遂行できる人間がどれだけいるだろうか。まあ、実際にはこういう実存的な思索に陥った人間がそこから逃げずに自殺したり死ぬまで哲学的な議論をしていくのは稀であって、先に挙げたような忘却や宗教、つまり、目の前のことをしているうちに忘れていったり他の嘘を信じたりして社会を回していくし、どのような社会でも実用上それが正気と見られているのだろうけれど……これはもちろん僕の信条にすぎないけれど、それがひどくお粗末な、自らへの欺きである。(仮に、本当に幸福がすべてなら、なんらかの嘘をつくなどして、さっさとそういう薬でも飲むべきだろう。)人生に意味があるなどの暴論などのどこが正気で、しっかりと誠意を持って「人生に生きる意味はない」「人生に執着する必要はない」「人生に飽きた」などと答えを出すことのどこが狂気なのか?これが厨二病でも気違いでもないことはすぐにわかる、素直な考察にレッテルの貼れる隙間はない。だから、正気でありたければ、彼は「なんにもない」ことを認識したまますべての時間を過ごす必要があるが、意外と、暇というのは耐え難い苦痛であって、ここに自殺がひとつの解として浮かび上がる。人やじぶんや世界が嫌いなら尚更だ。忌々しい世界を丸ごと破壊する最も効率的な手段といえば、自分ひとりの死に違いない。だから世界が嫌いな僕たちは、いつも死に惹かれているのでしょう。現実と自分に嘘をつかずに現実を見ない方法などに居場所を求めているのでしょう。でもそれももう、やっぱり飽きてしまいそうですよね。


 想像力の欠如した人間は、なんらかの犯罪に関する報道などのなかで「(犯罪をしたひと)はいいひとだった」などの証言を目にするとき、そのひとについて何も知らなくても、「いいひとに見えても実際は」だとか、「もともと犯罪者の素質があった」などのコメントをすることが屢々ある。これは物事について理解する気のない人びとによる言説である。日常生活を問題なく送れる程度の実行力があれば、ひとはひとを殺すことができる。感情や行動は状況や時間経過により容易に変わるものであって、生まれたときから思考が全く一緒の人間などは存在しない。一面で語り得るようなものでもない。

 無知な事柄への歪んだ結論が先にあって、実情をなんにも知らず、不誠実にその背景を妄想して、生まれた塵芥を高く掲げて現実に押し付ける。実際の原因として妥当なものの存在を理解していない。する気がない。ひとは、そういう営みをしていた。している。していく。陰謀論を卑しめたのと同じ口でそういう営みをしている。応用の不足と社会の要請がグロテスクな齟齬を招聘して、首を垂れてその輪郭に跪いている。

 きっと、大体そんなふうな、世界を単純にまともだと誤認していきたい人間が、どこか悪い人間は常に悪くどこか良い人間は常に良いみたいなことを本気で考えてしまうような人間が、なにも考えずに、「希死念慮は狂気である」としていくのだろう。現実を受け入れた上でそれをする価値はないといっているのだから、現実に嘘を塗りたくって生きていくのよりは遥かに真っ当で真摯で素直で正気で透きとおった思考である。いま、この死は現実への回答であって、それから逃げて、そのまま目を背けているのとは真逆の行為だ。「任意の希死念慮乃至自殺は狂気である」は偽で、それの抛擲は、それが「大人になる」ことなら、それは成熟ではなく耄碌である。現実と自分に嘘をつき続けることは信条に反するのだ。(さらに、信条に反することをしてどうして幸福でいられようか?)そして、少なくともここでは、信条を守ることは、生存より重要だ。誰しもきっと、幸福の前では生き死になどは取るに足らないだろうし、ここでは、信念の前では、生き死にはもちろん、幸不幸などもほとんど取るに足らない。もしその時がきたら、生涯の、現実に嘯く磔刑に処される前に、雲一つない死を自らに恵んでやるのが真の調和なのではないか、それがひとの尊さになるのではないか。それが僕らにとっていちばん自然な、世界への関わりかたなのではないか。

 (ああそう、正気でない、つまり、明白で一時的な類いの希死念慮人間についての話は一度もしていない。お帰りください。恋愛とか学業とかの悩みはまったく知ったことではない。お帰りください。)

 仮にこれが言葉でなかったら、晴れた冬の朝の展望台、湿度が低く空気が澄んでいて風はちょっとだけある、みたいな光景がまあまあそれらしい。ここは明るいし広いし、霜もみえる。

 そう、それで、自覚さえあれば、生活に間が空くたびに、ふと正気に戻って、ここには退屈な人生がやってきて、それでひとは生きる気力を失う。残りの重大な予定が死しかない状態になる。世界が嫌いなら、時間があればあるほど、苦痛は増えていく。選択肢は、正気を失うこと、暇を潰しながら生きること、死ぬこと。際限なく苦しんで生きるのも、それはそれで人間らしくていい。(だから、反出生主義とかにはならない。)

 いま僕が重要視するのは心を放棄しなかったことであって、後ろ2つに大した違いはない。ひとは、生存のために生きるのではなく、幸福のため(だけ)に生きるのでもなく、いくつかの信念のために生きる、または死ぬ。肝要なのは生命ではなく心だ。ひとの本質は生き死にそれ自体ではない。


正気の死は反抗の生と並んで浮かぶ責任ある自己表現となって、そういった自らの生き様が、誰にも侵害されない純粋個人の美術館を彩っていく。

重要なことは、

正気の自殺も存在する事。

これを無批判に受け取って自分の思想だと思い込まない事。


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