見出し画像

ぼくと、音

 ミソフォニア(英語: misophonia, literally "hatred of sound")、音嫌悪症(おとけんおしょう)とは、まれに診断される医学的な障害である。音の恐怖症とは区別される。原因は神経学的だと思われ、特定の音に対して否定的な感情(怒り、逃避反応、憎悪、嫌悪)が起こされる。音の大小とは無関係。

(中略)

 極めて強い不安と回避行動に発展することが多く、社交性の低下につながる可能性もある。見た、聞いたことを真似する衝動に駆られる患者もおり、真似することは無意識的で社交的な現象である。患者が自身の苦痛を和らげるために行うことがある。真似する行為により、思いや共感などを引き出すことで敵意や対抗意識、反感などを弱めたりすることができるという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%8B%E3%82%A2?

 クソ狭く無駄に曲がりくねった意味のわからない異郷の夜道を進むと、思いがけず、日の光が暖かく照らす、決して広くはないもののよく整備された、いい感じの通りに出た。そんな印象を受けた。というのも、生まれてからの十数年間ずっと悩まされてきた、脳内を掻き回す激キモ毒虫(かなり長めのロイコクロリディウムに毒の塗布された金属の棘が生えまくったみたいなのを想像して欲しい)に名前が、病名がついていたのだ。この類の経験は2度目だったが、前回とは違う視界の開放を伴っていた。

 その「前回」にあたる  不思議の国のアリス症候群  の判明では、それが最後に発症してからある程度の時間を経ていたし、それも精神に支障をきたすレベルの特に甚だしいものは体調の悪い時にしか起こらなかったなどの理由で、当時ではもうその症状に煩わされることが殆ど無くなっていたのだ、衝撃的ではあったものの、既に過去の話にすぎなかった。たしか、仰天ニュースの再現映像をみてウケただけだ。ぼくの五感はもっとぐにゃぐにゃで曖昧で、ぐるぐる回転してたよ……ちょうど、少し前のAI生成の映像がなかなかそれらしい様相かもしれない。

 僕は常々、音や反復運動、落ち着きのない動作などに、拒否感や嫌悪感では足りないような、強い殺意を抱くことがあった。いま思い返せるなかでの最も古いその種の記憶は、小学校低学年あたりから、息を殺してゆっくりとフェードインしてきていた。

 その衝動が萌すのはたいてい、睡眠を試みているときだった。近くで寝ているだれかのいびきが鳴っているとき、時計の針が一秒毎に空気を歪めるとき、両親が喧嘩しているとき。そういうときなどに、脳内を引っ掻き回されていた。僕はそのだれかの鼻を摘んで音(と呼吸)の発生を妨げたり、数字を数えたり(3600秒を過ぎたあたりで諦めた)して対処したりもしていたが、いまと比べるとかなり軽い症状だったからか、往々にして、暫くすると慣れ、次に起きたときには、昨日の夜のことなどはもうすっかり忘れているのだった。

 小学生としてどちらかというと後半にあたるほうの時期では、とうとう僕の記憶に両親の会話として喧嘩以外の音が刻まれることはなく両親は離婚した(マジで対話を見たことがない)し、運の良いことに僕が出会った大半の時計は無駄な音を立てなかったし、じぶん以外の人間と同じ場所で寝る機会も少なかった。生活の中でまれにみる雑音や、修学旅行の集団睡眠などの営みのなかで多少苦しんだとはいえ、たぶん、病的ではなかった。

 その症状が本格的に悪化していったのは恐らく中学校に入って以降だ。なにがそうさせたのか、以前は機会が少なかったからか、アレルギーの文脈でよく聞くように、これも曝露によって悪化するのか……それとも他の原因があるのか、ただの偶然か?……そんなのは知ったことじゃないけど、とにかく!僕のそれは悪化し始めたのだ。

 授業中、テスト中、受験中、その他ふつうに会話しているとき、生きているときなど、テキトーなタイミングで貧乏揺すりなどをする迷惑極まりない人間が、この世には存在する。いやまあ実際のところ、より病的なのはそのひとではなく僕なのかもしれないけど、とにかく!そういう人間が存在してしまっているのだ。それが視界に入ってしまったとき、僕は僕としての全てのリソースを①それへの殺意とその抑圧、②視界からの排除、③関連の音の排除、みたいなものたちへと注ぐことになる。その結果、授業中などでは、僕の机には視界を塞ぐ為のすばらしげな要塞が出来上がったり、耳を強く塞いで震えて泣きながら伏せたり、トイレなどに逃げて時間を潰したりすることになる。殺意は大袈裟な表現ではなく、「コイツを殺してぼくも死のう」くらいなら余裕で思えるレベルだ。実際に彼らを殺していないのはかなりの努力だ。人生で唯一レベルの努力だ。当然、だれも褒めてくれはしないが。

 貧乏揺すりでなくともそうだ。鼻をすする音、咳払い、嚔、わらい声、はなし声、足音、咀嚼音、鼻息、指先の叩き音、タイピング音、口笛、鼻唄、独り言、その他騒音、からだを揺らす姿とか色々な反復運動とか、落ち着きのない動作とそういう音など、などなど、などなどなど、枚挙に暇が無い。最近の特筆すべき地獄でいえば、隣人、それも横だけでなく上もだ、それらの熱唱と上の階の工事音が挙げられるだろう。耳栓をして、ヘッドホンをつけて、最大音量でホワイトノイズと正弦波を流して、上から布団を被っても、まだ足りない!まだ足りない……どんな天気でもどんな時間でも、ひとり暮らしのはずなのに、現在進行形で誰かに躾をされているわけでもないのに、僕は家の中から外へと追い出されてしまった。(今となってはありがたいことにどっちも引っ越してくれたし、無事に工事も終わり、少なくとも家の中において音のせいで精神が破綻することはかなり減った。よかった。)

 病名と、同じ悩みをもつ人間の存在、これを知ったときに、現実はなにも変わらなかった。人生に倦んで致死量の数倍の頭痛薬を飲んで生き延びたときに紹介された精神科にいったとき、そこでなにかを話したとき、結論は処方箋の中に封するらしかった。僕の予想とは違い、少なくとも僕のときでは、あれは原因を解決する場所ではなかった。会話もくだらなかった。診察料が高い。

 なにかしらの病名がつくより前に、僕はさっさと通院をやめた。なんの病気でもないということになった。幸福にも冒されていないプレーンな人間だ。

 これはきっと僕が色々なものへ不信と嫌悪と無関心を抱くのに一役か一役弱買っている。人やものとの関わりを明らかに妨げているし、それは明らかに他人のせいではない。そもそも依然として人生改善への努力がみられていない。これは環境や運のせいではないんじゃないのか?幼少期に成功体験を親から与えられたものだけが努力をできるのか?まあどっちにしろ、こうなってしまったのには変わりない。こんなものを肯定してしまうわけにはいかない。それはたぶん一石二鳥だ。まあミソフォニアがなくても思索の導く結論は変わらないんだろうけど。それがコスパ最強でしょ?なら、やっぱりぼくは自己中心的なんじゃないか。
あ〜、そういや、自分語りはやればできるのね。
はあ〜〜、マジでおもんね〜〜〜〜
人生、きめ〜〜〜〜〜〜

 そんなこんなで、ミソフォニアは名前こそマイナーかもしれませんが、症状に苦しんでいるひと自体は僕以外にもかなりたくさんいるみたいです。どうか貧乏揺すりをやめてあげてください。静かにしてあげてください。きっと対価はなんにもあげられませんが、人助けだと思って、ね?

 ぼくは手話を学んで耳を切り落として自画像を描くことにしようとおもいます。では、またこんど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?