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【禅 ZEN】「無我」

 「私は」「ぼくは」の「我」を捨てる

 「我」の強い人の思い違い

 般若経典の一つ、『金剛経(こんごうきょう)』は、
すべての存在は空(くう)であり無我であると説いた、
禅宗の重要な経典です。
そのなかにある「無我」ということば、
これは「われ」、「わがもの」という観念、
そのとらわれから離れること、
つまり、
「我」でないものを「我」とみなしてはならない
という意味です。
ふだんよく使うことばに
「無我の境地」とか「無我夢中」などがあります。
しかし、
自分の口からしょっちゅう飛び出していることばなのに、
さて、「無我」とはどういう意味なのか、
ということになると、
わかっているようでもわかっていません。
こがそして、ここで「無我とはこうですよ」と説明して、
みなさんに納得してもら
れでよいかというと、そのことで私が「ほつ」とすれば、
もういのですから、うっかり説明などはできないのです。
 例えば、「あの人は我が強い」とよくいうけれど、
いっている本人は自分の「我」に気がついていません。
「我」がいわせているということにも気がついていないのです。
「あれは私がやった」
「私がいなければどうにもならなかった」
「私はうそをっくことが嫌いだ」
「私は信じない」
「私にいわせてほしい」
などなど、
「私、私」とったり聞いたりするのですが、
この「私」って、
いったい何なのかとれば、
うやむやに答えるしかありません。
「おれはこう思う」と、
いつでもおれを出さないと承知できない男もいますが、
その「おれ」も何者かといわれると、
答えに窮(きゅう)してしまうのです。
もともと「私」なんてものはないのです。
はるかな過去の世界からやって来て、
見たり聞いたり、飲んだり食べたりしながら、
だんだん育てあげられて来た「私」があるだけです。
だから、「私の心」「私の考え」といっても、
そのとき、仮にそうあるだけであって、
胸のなかから取り出して「これが私です」と、
人に見せられるような私はどこにも存在しないのです。
それを存在しているものと思い違いをしている人が
「我の強い人」なのです。

 自分を卑下(ひげ)するのも「我」の強さから

 その「我」には四つあって、これを
「四我(じが)」
といいます。

一、我痴(がち)

 知識の「知」は
「事物を認識判断すること」という意味を持ちます。
その知が病気にかかると「痴」になります。
「人間とは何だろう」「私って何だろう」
ということを考えようともしない、
いっても聞かない、聞いてもわからない、
それが我痴です。
『禅を語る』(澤木興道(さわきこうどう)講演集・大法輪閣)
という本のなかで、澤木老師はこうおっしゃっています。
「"おまえは何だ"といわれて、
何だかわからん、何やらわからん。
無茶苦茶なんや。
偉そうな顔して周りにいうて聞かせているけれども⋯⋯。
周りにいうて聞かせておる婆ちゃんでも、
下役に怒っとる重役さんでも、
自分がわからん。
 わからんというのは、
自己の仏性(ぶつしよう)がわからん。
仏さんとちっとも違わんということが、はっきりわからん」
 若いとき、坐禅中にも老師から何度も聞いたお話です。
仏さんと一緒、
ということだけわかればいいとおっしゃるのだけれども、
それがちっともわらないのです。
もっとも青二才にわかるはずもありませんが。
 偉そうな顔をして
「私は」「ぼくは」
などと力まないことが大事なのでしようね。

二、我見(がけん)

 自分本位にものを考え、押し通すことです。
みなさんの周りにそういう人はいませんか。
いたら、これも「我の強い人」です。
 何かを食べようとすると、
これがいいと決めてしまう人。
旅行のときも、会議のときも、
まっ先に意見を出してほかの意見は聞かない人。
そして人生の話になると、
「私の人生観」を押し出して引かない人。
 そういう人が世には多過ぎて困ります。
 正しい方向のようでも、
空から見ればそのヨットは
とんでもない方角へ向かっているかもしれません。
それでも自分を通す人、やっぱり我の強い人なのです。

三、我慢(がまん)

 ふつう「我慢」というと、耐え忍ぶこと、
じっと耐えることをいうのですが、
ここでの我慢は
「自慢すること」つまり「慢心」のことをいいます。
 自分は他人よりも優れていると思い込み、
他人に対して誇りたがる
心の奢(おご)りが慢心なのです。
 慢心は仏教の教えのなかで九種類もありますが、
ここでは二つあげておきます。
 一つは「増上慢(ぞうじょうまん)」。
高ぶること、思い上がることです。
他人と比較して自分を高く評価する心をいいます。
 まだ悟りを得ていない人が、
得ていない自分に気がつかないで高ぶること、
これを増上優愚(ぞうじょうまんぐ)といいます。
 もう一つは、「卑下慢(ひげまん)」です。
私はだめ、私なんかはとてもとても、
といって自分を卑下してばかりいる人、
これも慢心のなかに入ります。

四、我愛(があい)

 他人が蜂に刺されても何ともないが、
自分が刺されたら、大変な騒ぎです。
結局、自分が一番大事で可愛いのです。

 我痴・我見・我慢・我愛、
これらをしっかり抱いて離さない人を
「我の強い人」といい、
これらを持たないのを「無我」といいます。
「無我の境地」なんて、うっかりいえないですね。


こちらの内容は、

『気持ちがホッとする禅のことば』

発行所 株式会社静山社
著者 酒井大岳
2010年1月5日 第1刷発行

を引用させて頂いています。



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