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【禅 ZEN】心(こころ)②

―洗心(せんしん)―

書=鈴木 不倒 20×40cm

 「洗心」とは、坐禅をして心を無にしていくこと。
つまり、己の中にある本心を見抜き、
心の中を無にする「無生心」、
心がどこにでも行ける「無住心」の境地を目指す。
静かに坐り、身体・呼吸・心を整えて、
同時に精神を統一する。
坐禅とは本来の清らかな心の自分自身を自覚する方法
なのである。

洗心(せんしん)

「無生心」

――気持ちをリフレッシュしよう

 出典不明。
「時時に勤めて払拭して、
塵埃を惹からしむること勿れ」
は五祖下・神秀の偶。
無生心は本来無一物だが、
煩悩や妄想などの塵・埃が知らぬ間に付着する。
山岡鉄舟は「坐禅は心の石鹸」
として坐禅に洗心の効用があると説く。

 心を洗う。
これは、禅の言葉では「無生心」になること、
つまりは坐禅を行い、心を無にすることを意味します。
幕末に活躍した山岡鉄舟は、
文武をおさめるだけでなく、禅にも精通していました。
「坐禅は心の石鹸」とし、
鉄舟のもとを訪れた知人が、
途中で坐禅をやめると一喝したといいます。
 また、こんな話があります。
一人の僧が趙州和尚を訪ね、
何をしたらよいか指示を与えて欲しいと頼みました。
すると趙州和尚は
「お前朝ご飯を食べたか?」
と問い、僧が
「はい」
と答えると
「では、持(茶碗)を洗っておきなさい」
といいました。
これは、茶碗を洗うことは
心を洗うことにも通じるのを示しています。
 疲れきった心を抱えたときには、
一日のうちに10分でもいいから
「無」になる時間を作ってみるのはどうでしょうか。
簡単な言葉でいってしまえば、
ボーッとする時間です。
いかに何もしない10分が長いか、
そして常にいろんなことを考えているかがわかるはずです。
何も考えず、何も意識しない。
それだけで少し心が軽くなるような気がしませんか?
坐禅を毎日行うのは難しく、
なかなか鉄舟の境地にはなれませんが、
これなら誰にでもできそうですね。

そうだ、坐禅としてみよう!

坐禅を組む目的は、最終的には
「無生心」「無住心」を獲得すること
にあります。
無の境地に辿り着くために、
修行僧たちは日々坐禅に取り組みます。
それはとても長い道のりです。
私たちは、まず一歩として、
日々の迷い事をうち消し、平穏な心を保てること
を目標として坐禅を組むのがよいでしょう。

念(ねん)

「無生心」

――大切なことは、一瞬の中に隠されている

 『観音経』より。
今この刹那の心。
一念すら生じないのが本来の無生心である。
仏教語大辞典には
「心のはたらきという意味と、
一瞬という二つの意味が重なっている語である」
とある。
過去の心でも未来の心でも現在の心でもない、
敢えていえば刹那の心だ。

 「無念」というと、
「残念だ」という意味合いで使われることが多いですが、
本来「意識の無い心」という意味です。
 自隠禅師は「無念の念を念として」といます。
念が現れない、それが仏心仏性の姿だというのです。
 心を無にするということは、邪念の無い、
生まれたばかりの赤ん坊のような姿になること。
余計なことをあれこれ考えず、
たまには無心になることも人生の中で大切なことです。
 念にとらわれないこと。
浮かんでは消えてゆく念にしがみつかないこと。
念をなくしてしまうこと。
念を消してしまうこと。
これらが、坐禅をしているときの状態なのです。
 良いことも悪いことも、
日常のなかで感じた様々な思いを、
坐禅のときに消し去って無生心になるのです。
いろいろな思いをめぐらす前に、
頭で考えずに、そういうありさまで実際に坐ってみませんか。
意識の無い心を感じてみましょう。

―平常心(へいじょうしん)ー

書=加藤 有鄰 111×34cm

 つくろったりしない、ありのままの姿を意味する。
本来の私たちの心は我欲や自我のない、
何も生じない心である。
しかし、日々の生活の中で生じるできごとによって
妄想を抱くようになり、心の変化がおこる。
そんな時は己を見つめる平常心に戻ることである。

平常心(へいじょうしん)

「無生心」

――ありのままの自分が輝きを放つ

 ありのままの心。
馬祖道一禅師の『平常心是道』より。
たとえば花は無生心そのもの。
そのものとは、ありのままで形容したものではない。
形容したものではないということは、
平常心である。
臨済禅師は「平常無事」といったが、
同じ意味である。

 平常心(普段の心)がすべてということ。
日々の暮らしのこまごましたことの中に仏の心はある、
また日常からそれを感じ取ることが大事ということです。
「屙屎送尿、著衣喫飯、困じ来たればすなわち臥す」
という言葉があります。
「大小便をし、服を着て食事し、眠くなれば寝る」
という意味です。
 これは、悟りを開いた人ならば自由自在の生活をしても良いけれど、
悟りを開かない人に勧めているものではないのです。
修行をし終えた後、道理に通じたら
自由自在に生きて良いということを臨済禅師が示しているのです。
皆さんは日頃からいろいろな欲望をめぐらせてはいませんか?
様々な計算に頭を翻弄されているのではないでしょうか?
そんな心におこる陳腐なものを放り出して、
本性のままありのままに暮らすこと。
これが本来の平常心です。
 そして、修行僧と師のこんなやりとりがあります。
「仏道の道とは何ですか?」
「平常心が道だ」
「では、平常心を目標として努力すれば良いのですね」
「いや、目標とすればそれは違う」。
努力を目標とした途端に、
平常心ではなくなることを師は修行僧に諭しているのです。

老婆心(ろうばしん)

「無生心」

――忘れていませんか、誰かに向ける心

 『臨済録』より。
無生心の導き。
臨済禅師は黄檗禅師の下で同じ問答で三回打たれる。
そのことを大愚禅師に告にげると、
大愚は「老婆の如く親切な導き方だ」という。
途端に臨済禅師ははっと気づき無生心になった。

 あれもこれも何もかも、かゆいところどころか、
かゆくないところまで心を配るのが老婆心といえます。
誰かに指摘をするときに、
「老婆心で言わせて貰うけど⋯⋯」という前置きをして、
注意や忠告などをすることがよくあります。
これは、孫を可愛がり先回りして世話をやくお婆さんのように、
相手を大切に思うゆえの行動なのです。
自分の経験から、あらかじめ伝えておいた方が
相手のためになるのではないかという気持ちからおこる行為です。
 そんな親切心も、行き過ぎるとおせっかいだと思われてしまいます。
しかし、あなたのことが心配だったり、気にかけているからこそ、
ついつい世話をやきたくなってしまうのです。
 大切なのは、相手の愛情に気づき、ありがたく受け止めること。
気づいたところから「おせっかい」は「愛情」に変わります。
 誰かに向ける心のあり方。
つまり、老婆心とは禅的な考えで解釈すると、
親切や優しさという道徳心からおこるものではなく、
無の心である無生心で行う行為ということになるのです。

一愛心(あいしん)一

書=金敷 駸房 26×53cm

 執着する心を表す。
無生心、すなわち心に邪念や妄念の生じない世界には、
憎愛心などない。
愛心を無くすこと、愛心を断つことにより、
心が何ものにも染まらない、
自分の価値観にとらわれない無染心になれるのである。

愛心(あいしん)

「無生心」

――執着する思いを捨ててみよう

 無生心は憎愛心(ぞうあいしん)無し。
執着する心。
『頓悟要門』には
「一切処に無心なりとは憎愛心無き是なり。
〈中略〉愛無くんば即ち
無染心(分別に染まらない心)と名づく」
とある。

 愛する心は良いもののように思えるのですが、
禅の考えでは執着を消さなければ
ブッダのさとりを見抜けないので、
愛心すら否定します。
ここがみなさんの考える
道徳と禅の教えとの違いなのです。
 一般に心はきれい、善である
というのは道徳であり、性善説です。
しかし、禅では何も生じていない空気のような心を
仏心仏性として尊ぶのです。
性善説は文字で説明することはできますが、
空気のような仏心仏性というものはセンスですので、
文字では説けずに、感じていくことしかありません。
この点が禅の難しいところです。
 白鳥は 哀しからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ
歌人の若山牧水のこの歌は、
空の色にも海の色にも染まらず、飛んでいる白鳥の姿に、
自由な心のあり方をみたのです。
何にも染まらない、
あれこれ思いめぐらして考えすぎない無染心こそ、
何かに執着する愛心を取り去った状態です。
 実は白鳥の歌を詠んだ当時、牧水は恋に焦がれていました。
若かった牧水は
自分に比べてなにものにも染まっていない白鳥に
憧れていたのでしょう。

―以心伝心(いしんでんしん)ー

書=塚原 秀巌 66×33cm

 言葉ではなく、相手に伝える。
心から心へ思いを伝える。
禅宗では、悟りの内容は文字や言葉では伝えられるものではない
とする。これを不立文字という。
仏の教えは、師から弟子へ、
心から心へ直接伝えられることから生まれた言葉。

以心伝心(いしんでんしん)

「無住心」

――言葉に出さなくても伝わる気持ち

無生心から無住心へというのは、
禅の伝承形態である。
師の無生心と弟子の無生心が一つになり、
自由自在(一処にとどまらない)の無住心となること。
宗旦居士は
「茶の湯とは心に伝え眼に伝え耳に伝えて一筆もなし」
といい、茶道の伝承形態を禅に習った。

 北原白秋の代表的な歌に「落葉松(からまつ)」というのがあります。
   からまつの林を過ぎて、
   からまつをしみじみと見き。
   からまつはさびしかりけり、
   たびゆくはさびしかりけり
 この詩には、言葉に出さなくとも伝わる気持ちを、
自然の摂理で表現しています。
そして、白秋はこの歌に関して次のように述べています。
「落葉松の幽かなる、その風のこまかにさびしくものあわれなる、
ただ心より心へと伝うべし。また知らん、
その風はそのささやきはまたわが心のささやきなるを」
「これはこのまま香を香とし、響きを響きとし、
気品を気品として心から心へ伝うべきものです」。
 情緒溢れる自然の繊細さに触れ、
その感動を心から心へ伝えることの大切さを物語っているのでしょう。
 言葉にならない、
言葉に表れない心のメッセージがわかるようになるためには、
まわりの人や物事をしっかりと見つめ、深く知ることが大事なのです。

一天然(てんねん)一

書=田中 豪元 64×32cm

 ありのままであること。
あるがまま、そのままであること。
まわりに良く見せようとつくろったり人為的になることなく、
余計な思いのない、とらわれのない自由な心。
本来、誰にでも備わっている
清らかな心を持つ自分自身のこと。

天然(てんねん)

「無生心」

――あるがままの美しさに気づいてみませんか

 『碧眼錄』第七十六則
「丹霞喫飯也未」評唱より。
天然とは人為ならざるもの(あるがまま、そのまま)
だから無生心である。
また、丹霞禅師は、ある時禅堂の本尊にまたがった。
それを見た馬大師は
「我が子天然」と丹霞を認めた。
以来、丹霞自ら「天然」と称したという。

 現代では、「天然」というと、
どこかとぼけた言動をする人のことをいいますが、
禅の世界では「天然」の意味合いは
「あるがままの姿」を指します。
 かの有名な良寛和尚のこんなエピソードがあります。
ある日の夕暮れ、子供たちと隠れん坊をしていたときに、
自分が隠れる番になり田んぼに上手く隠れました。
日も沈み、子供達は良寛を探しきれず、
帰ってしまったそうです。
次の日に隠れたままの良寛を見つけた農夫が驚いて声をかけたところ、
「静かに!  子供達に見つかってしまうではないか」
と答えたそうです。
 何とも正直で純粋な、良寛の人柄の良さを写し出す話ですね。
偉くなっても飾らない、庶民的なところが彼の人気の理由でした。
 大切なことは、あなたの素の部分です。
禅の世界では、坐禅を組むことによって、
心を無にし、無生心や無住心を獲得することによって、
「本来の自分」を見つめ、高めていきます。
私たちは日常的に坐禅を組み、修行に励むことは難しいですが、
その心を意識して生活することはできます。
本来のあなたをもう一度見つめ直し、
自信をもって生きていきましょう。


こちらの内容は、

『こころの深呼吸 すっと気持ちが楽になる 禅語』

発行所 株式会社長岡書店
監修 松原哲明
書監修 石飛博光
2008年5月5日 発行

を引用させて頂いています。


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