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【禅 ZEN】「歩歩是道場」「行住坐臥」「平常心是道」

歩歩是道場(ほほこれどうじょう)

素直な心さえあればどこでも学びの場

修行は道場だけでするものではなく、
日々の暮らし、言動のすべてが
道場であり修行であるとする。
『維摩経』のことばからきたもの(『趙州録』)。

 会社勤めをしながら、
行き帰りの通勤電車内の勉強で司法試験に合格した人がいました。
携帯電話のメール機能だけを使って小説を書き上げ、
新人賞を取った人がいました。
 夢を持っていても、
場所や環境などいろいろな条件が自分に不利だからと言って
(またはそれを言い訳にして)あきらめてしまう人が多いものです。
 この禅語のもとの話はこうです。
あるとき、閑静な修行の場を探していた修行僧が、
街に向かおうとやってきた継摩居士に出会い、
「あなたはどこから来たのですか」と訊くと、
「道場から来たのだ」と返ってきました。
「えっ、その道場はどこにあるのですか」と訊きかけると、
維摩居士はすかさず「直心是道場」と答えました。
「まっすぐ素直な心を持っていれば、
どんなところでも道場、すなわち修行の場である」と。
 修行の場はそれぞれの心の内にあるのだから、場所など関係ない、
そのすることなすことの一歩一歩が仏法修行なのだということです。
雑念を払い無心に打ち込めば、
どんな条件にあっても自分を磨いたり夢に近づくことができるはずです。

行住坐臥(ぎょうじゅうざが)

日常の立ち居振る舞いが心を育てる


行く、住まう、坐る、寝るという
日常の行動を四つの威儀という。
禅宗では日常生活のすべてが修行であり、
とくに規律と作法に則った行動を重んじる。
「威儀即仏法」も同様の意味。

 電車の中や公共の場での若者の行儀の悪さがよく取りざたされます。
脚を広げて二人分の座席を占領したり、
路上にタバコの吸い殻やお菓子の袋をポイポイ捨てたり⋯⋯。
大人もまた、ふだんの行動に恥じることのない人は少ないでしょう。
「行住坐臥」とは、行き来、起き伏しの日常のふるまいのこと。
この行・住・坐・臥を四つの「威儀」といいます。
このことばを禅で尊重するのは、
日常生活の立ち居振る舞い、
すべての行動に規律と作法を忘れるなということなのです。
 禅宗では、起きて顔を洗うこと、食事をいただくこと、
歩くこと、坐ること、日常生活のすべてが修行であり、
日常生活の中にのみ仏法は存在していると考えます。
非日常的な荒行や難行から仏の道が開けるわけではないのです。
 日常のことばにもなっている「威儀を正す」とは、
自分の言動を振り返り、
礼儀や作法にかなった立ち居振る舞いや行動をすることです。
 これは言いかえれば、「美しい生き方をしなさい」ということ。
 行儀の悪い、だらしない日常生活からは、
けっして美しい人生は手に入りません。
ときには自分の「行住坐臥」を振り返り、威儀を正す努力も必要です。

平常心是道(びょうじょうしんこれどう)

特別なことより、まずふだんの心がけ


唐代の名僧、趙州が修行中に
師の南泉普願と交わした問答に由来する。
禅の本質を端的にあらわしたもので、
もとは南泉の師の馬祖道一のことばという
(『無門関』)。

 趙州が師の南泉和尚に
「如何是道(道とはどんなものでしょうか)」
とたずねたときの答えが、
「平常心是道(ふだんの心こそ道である)」です。
 趙州は重ねて問います。
「そのふだんの心を、つかみ取る目標に据えればいいでしょうか」。
南泉の答えは「目指そうとすると、すぐにそれてしまうぞ」。
 趙州、さらに
「目指さないのなら、
どうしてそれが道であると知ることができるのでしょうか」と問うと、
南泉は答えました。
「道は知るとか知らぬとかいう知識に属するものではない。
真に疑いようのない道に達してみれば、
それは虚空のようにからりとしたものだ。
ああだこうだと説明しようもない」。
 ここでいう「平常心」は、
一般につかう「ふだんどおりの心の状態」の意味ではなく、
「日常の小さな行いもおろそかにしない心」を示しています。
ふだんの生満での心がけが、
すなわち「仏の道」にほかならないと言っているのです。
私たちも、"ふだんの日"を怠惰に過ごして無駄にせず、
まず当たり前のことを当たり前に行う心を大切にしたいもの。
たとえば、だれに対しても真心で接することを
あなたの「平常心」にしてみませんか?


こちらの内容は、

『ふっと心がかるくなる 禅の言葉』

発行所 株式会社永岡書店
監修 永井政之
書監修 石飛博光
2014年1月10日 発行

を引用させて頂いています。



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