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「空気」の研究

「空気の研究」という題を付けたが、別に地球温暖化対策としてのCO2 削減の話をしようというのではない。ここでいう「空気」は、いわゆる「KY=空気が読めない」の空気である。

言論の自由が保障されている現代、誰でも他人の名誉や権利を侵害しない限りは自由にものをいうことができるはずである。しかし、実際の社会での会話や議論では、誰もが感じていながら、あるいは全員がそうであると認識していながら、それを口に出してはいけないこと、まして否定することなどは許されないことがある。そこにある見えない呪縛が、ここでいう「空気」である。

それに触れることはタブーであり、あえて触れると、批判され軽蔑され、最悪の場合には仲間はずれにされる。そのようなみえない呪縛を理解できず、口にしてはいけないことを口にすると「KY」として批判されるのである。

このような議論における暗黙の呪縛を最初に「空気」と名付けたのは、山本七平氏であろう。氏の『「空気」の研究』では、戦艦大和の出撃の決定に関わった専門家が皆、無謀であって勝ち目はないと思っていたにもかかわらず、反対できなかった様子が、「空気」の支配の典型例として描かれている。(*1)

丸山真男氏も、われわれの社会に存在するこうした現象を、第二次世界大戦へ日本を向かわせたリーダーたちの無責任な姿勢と政治における決定の特質をみごとに分析してみせた「軍国支配者の精神形態」において、以下のように指摘している。

「彼等はみな、何者か見えざる力に駆り立てられ、失敗の恐ろしさにわななきながら目をつぶって突き進んだのである。彼等は戦争を欲したかといえば然りであり、彼等は戦争を避けようとしたかといえばこれまた然りということになる。・・・」
             丸山真男「軍国支配者の精神形態」(*2)

この皆を駆り立てる「何者か見えざる力」こそ、ここで「空気」と呼ぶものにほかならない。他愛のない日常会話での空気の支配はともかく、国の運命がかかる重要な意思決定の場面で、あるいは国の進路に関わる世論の形成において、こうした空気が支配することは、冷静で客観的な議論と的確な判断を困難にしかねない。言論の自由が謳歌されている今の時代においても、こうした空気がわれわれの理性を狂わせ、合理的な政策決定を妨げることが少なからずあるのではないか。

今学期、私は、学部のゼミで、学生諸君と、新聞や雑誌の記事を素材として、現在のわが国の議論にみられる「空気」の分析を試みている。政権交代の話や地方分権、公務員批判、年金制度、防衛のあり方を巡る議論を分析してみると、確かに議論の基底には、暗黙の前提とされている考え方──「空気」──が存在しており、それを正面から問い直すことを、世論を代表しているというメディアはしようとはしないし、それと異なるものの見方が存在することも、読者に知らせようとしていないようである。

ときにそうした「空気」の存在を示し、問題点を指摘するような見解も掲載されるが、そのような山本七平氏のいう「水を差す」発言は、格好の批判の対象として、むしろその場の「空気」を強化するために使われることが多いといってよいだろう。山本氏は、こうした空気に反する発言をした者は「抗空気罪」によって断罪されると述べているが、実際には、メディアも読者も、そうした糾弾を恐れ、その場の空気によって呪縛されてしまうのである。

しかし、多くの人たちがこのような空気に支配された思考を免れることができず、それに呪縛されたまま意志決定を行うと、それこそ誰もが回避したいと思った戦争に皆が賛成し突入していった愚を繰り返すことになりかねない。それを避けるためには、政治のあり方を見直すことが重要であるが(*3)、それとともに、否、それよりも前に、「空気」を可視化して、その存在を認識し、その性質を客観的、批判的に明らかにすることが必要である。

たしか「人は自分の見たいものを見ようとし、聞きたいことを聞こうとする」といったのはジュリアス・シーザーだったと思うが、そうした人間の性向に逆らって、あえてものごとを客観的にみることが必要である。だが、これは「自分を客観的にみること」とともに、実際には容易ではない。(*4)

現在の日本では、「日本の諸悪の根源は官僚であり、公務員は悪い人である」、「北朝鮮は人権を無視した悪い国である」、あるいは「地方へ権限も税源も多く移譲すればするほど、日本は繁栄する」という主張に対しては、反対意見を述べにくい。それはここでいう「空気」の支配によるものである。官僚の弁護や北朝鮮の弁護を少しでもしようものなら、また地方分権を批判するならば、厳しい糾弾を受けかねないのである。

なお、断っておくが、ここでは官僚が悪者であることを否定しようとしているのでも、北朝鮮をよい国だといおうとしているのでも、地方分権が日本の繁栄に結びつかないといいたいのでも、もちろんない。われわれが歴史的に経験してきたように、一面的、一方的な空気に支配された決定が、誰もが意図もせず望みもしない方向へ進むことを阻止できない危険があることから、空気の支配に対して水を差すことによって、異なる観点から評価を試み、それによって、バランスのとれた分析と、多角的な観点からの議論を行い、誰もが納得できる合理的な決定に少しでも近づくようにすべきである、といいたいのである。

ところで、参加者の思考を支配し議論の方向を規定する「空気」は、見えない存在であることから、それ自体論理的に整合的であるとは限らない。内部に矛盾をはらむ主張であることもありうる。矛盾を解いてより望ましい解決策を見いだすためには、矛盾する要素のどれかを変更するか放棄しなければならないはずであるが、それをすることが「空気」に反することになり、あえてすれば、「抗空気罪」で断罪されることもありうる。

敵国が憎いので戦争をしたいが、勝ち目はない。ここで冷静に戦力を分析して、戦争を回避するなり、開戦しても上手な負け方を工夫すれば合理的な行動といえるが、矛盾を承知の上で戦争を全力で遂行するとなると、思考ないし議論において矛盾を解き自身を納得させるための説明が必要になる。果してこのような説明は可能なのか。多くの場合、それは、「最後は「神風」が吹いて我が国が勝利する」という、ほとんどの人が信じていない妄説以外にはない。

このように述べてくると、過去の出来事のように思う人もいるかもしれないが、ここで述べたいのは、現在の日本でも同じような空気が多分に支配しているのではないか、ということである。

今の日本、少子高齢化、人口減少、さらに財政難で年金、医療を始め、将来の社会保障の維持が困難になるのではないかと不安感が漂っている。安心・安全がいわれるが、その策が講じられたとしても、それは現在ないし近未来の高齢者にとっての安心ではあっても、現在の若者にとってはむしろ不安の増加にほかならない。

それならば、消費税等を増税して、財源を増やせばいいではないかというのが筋論だが、それに対しては当然抵抗は強い。政党もメディアも、したがって、増税せずに社会保障の充実を図るといわざるをえない雰囲気である。これも「空気」の支配であって、増税の必要性は条件付きで少しいわれるようになってきたものの、財源がないから社会保障サービスの削減はやむをえない、という主張は封じられているに等しい。この閉塞状態を突破するために、しばしば、そして執拗に出てくるのが、「行政改革論」と「産業育成論」である。

前者は、行政には無駄が多い。それを減らせば、財源は充分に捻出できるという主張であり、無駄の元凶としてやり玉に挙がるのが、官僚であり、お役所である。日本の政府は大きすぎる。公務員も多すぎる。もっと減らせば財源は何とかなるはずだ。さらに、悪しき官僚が既得利益にしがみつき、埋蔵金を隠している。これを掘り出せば、必要な財源は充分にまかなえるはずだ。

後者の議論は、日本の潜在的技術力、国際的競争力はまだまだ高い。もっと研究開発に投資をして技術力を高め、経済を成長させれば、税収を増やせる。落ち込んでいる地域経済も、観光を始め新しい産業を興して、企業を誘致すれば、どの地域でも活性化できる。そのために政府は支出を惜しんではならない。財政支出、投資こそが成長を生むのだ、というものである。

これら両主張が間違っているというつもりはない。しかし、将来の社会保障負担の大きさと不足額を考えるとき、これらの策は果たして現実的な解決策といいうるのか。それについての検証は充分にされていないし、そもそも増税とサービスのカットの両方を選択肢として提示するところがほとんどないのはなぜなのか。

政党もメディアも、ある党は増税なし、その代わり福祉サービスの削減。他の党はサービス維持、しかし増税。新聞も同様に、それぞれが異なる選択肢を提示すれば、分かりやすく有権者も考えて選択するが、現実は、政党もメディアも、もっともらしく「社会保障サービスを削減するな、増税は充分な行政改革によって無駄がゼロになってから初めて実施すべきである。」あるいは「イノベーションが税収増をもたらすまで辛抱すれば、問題は解決するはずだ。」という。だが、果たして実際にそのようなことは起こるのか。

私には、どうも矛盾する内容をもった「空気」の呪縛から抜け出すことができず、どんどん蓄積する借金の山を前にして、苦し紛れに「最後には、きっと神風が吹く」と主張しているように聞こえる。誰かが批判を恐れず「水を差し」、まともな議論をしなければ、誰もが、「私はそうは望まなかったのに、こうなってしまった」という事態に陥るのではないだろうか。


*1: 山本七平『「空気」の研究』文藝春秋(山本七平ライブラリー①)、1997、11頁以下。
*2: この部分は2009年に出版された佐々木毅『政治の精神』岩波新書でも引用されている。
*3: 佐々木毅『政治の精神』参照。
*4: 自分を客観的に見るということについては、唐突に辞任した福田康夫元首相が、辞任の記者会見で、新聞記者から「総理の会見は国民にとって人ごとであるという感想が多かったです。今もそうです。」と批判されたのに対し、「人ごとのようにとあなたはおっしゃったが、私は自分自身は客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです!」といった発言が有名になった。

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この記事は、2009年7月21日に、東京大学政策ビジョン研究センター(現東京大学未来ビジョン研究センター)のホームページのコラムに寄稿したものである。現在でも価値のあるメッセージと思われるので、再掲する。

https://pari.ifi.u-tokyo.ac.jp/column/column17.html