【美醜】

美醜という言葉がある。
その文字の示すまま、美しいことと醜いことという意味がある。

人間の持つ相対的評価を示す言葉として、これ以上ないくらいピッタリなものだと感じている。
醜さによって美しさが引き立ち、美しさを評価するために醜さが指標となるからだ。

美しさはなにも外見によるものだけとは限らない。
例えば、心の美しさとか自然の美しさとかたくさんあるが、それらは全て何かしらの醜さとの対比でしか成り立たない。
俗に言われるブサイクやブスに対するイケメンや美女であったり、他よりも優位でありたいと願う心に対して全てを救おうとする博愛さだとか、人間の作り出した建築物に対する自然の造形美であったりと様々に比較が存在する。

人は美しさを求める一方で醜さを享受できない。
それは絶対的な評価というものが存在しないからだ。
一人ひとりの個人の中には絶対評価に近い感情や感覚といったものが存在しているが、それらが全人類に共通することはない。

今よりも便利な生活を追い求める人がいて、限りある資源に注目して浪費を抑える人がいる。
整形してでも美しいとされる顔や体形を欲する人がいて、他者からは醜いと評価されるコンプレックスさえも受け入れる人がいる。
他者を支配したいと願う人がいて、他人と協力して生きたいと願う人がいる。

なぜ、人は絶対的な評価を持てないのだろうか?
それはきっと、人類にとって共同生活が生き残る術になっているからだろう。
たった一人の個人で生きることができる人間は世界の中に少人数なら存在できるかもしれない。
しかし、私を含めほとんどの人類は一人では生きていけない。
私自身で考えてみても、まず食料の確保ができない、衣服を縫うことはできるかもしれないが、衣服の原材料である布を作成することはできない。
針も糸も作ることができない。さらに家を建てる技術もない。

多分、多くの人は私と同じではなかろうかと予想する。だからこそ様々な技術や知識、直観的な閃きを持った他者と共存するしかないのだ。
しかし、すぐ近くにいる人の能力を完全に把握することはできない。だからこそ比較するのであろう。
本来の比較の在り方は自分に何ができて、何ができないかと確認するだけでよかったのではないかと思う。
そして、自分のできることで社会に貢献する一方でできないことを社会から受け取る。それだけで良かったはずなのだ。
そうすれば、他者と自分の外見や能力の上下を比較する必要などなく、自分を知ることができたはずだと思う。

今の世の中は余計な比較が多すぎる。
醜いと思うもの全てを廃棄した世界に美しさは残るのだろうか?

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