アドルノにブチギレている話

マルクスの唯物論は確かに芸術の興りの時点では説明可能な言説だと思う。しかし、この考えは芸術が興った時点で成熟した下部構造がある前提の下に展開されており、現在では経済と芸術が相互に刺激しあっていくという場面を容易に想像できるため、多少違和感を感じてしまう。例えば、1990年代のニューヨークの中部地域に若手芸術家達が集住したことでアバンギャルドなニューヨーク・アートが巨大な経済市場圏を作り出したことはこの説を反証する証左では無かろうか。

前置きが長くなったが、私が主張したいことは、上部構造の上に下部構造がある体系も存在しており、絶えず唯物論とその構造が循環しているため、その運動が文明の成長を促しているということである。

上記の唯物論とは違う体系は既に80年前にアドルノが文化産業を批判したことで確立されており、私は彼の意見を一部擁護したことになる。

しかし、この文化産業批判はアメリカ大量生産時代を文化の観点からブランドを陳腐化させているといった趣旨である。その中には、ジャズが一般的に商品化されることで大衆に啓蒙が行き渡り全体主義へと誘う道具に成りかねないとまで述べているのだ。

この論は詭弁だ!と頭ごなしに否定したい所であるが、論説の構造上、部分的に彼の意見を擁護してしまっているという事実が誠に悔しい。何か自分の今注力している行為に泥を塗られた気がどうしてもしてしまう。(筆者は音楽に命を燃やしています)

ジャズが大衆啓蒙の一部であって何が悪いのか、それがナチズムの敷衍に本当に関わったのだろうか。
今のポップカルチャーはそれを理解した上で巨大な市場を作り上げているではないか。何故人類の絶対悪とアートを結び付けてしまうのか。音楽が大衆扇動を行いかねないというレッテルを貼られてしまったことがとても悲しい。

とにかく私は文化産業批判にブチギレている。ただ、それだけのことだ。

時代錯誤でしかないが、アドルノの言説は現代からすれば間違っているが合っている。
そんな気持ち悪さがとても嫌いだ。

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