今の心境
※地震・津波関連の内容です。気分を害してしまう恐れがありますが何卒ご理解願います。
この記事をご覧いただきましてありがとうございます。
また、明けましておめでとうございます🎍
…
と、言いたいところですが、大変なお正月になりましたね。
かくいう私も、故郷である新潟県で数年ぶりに年を越したというのに散々な目に遭い、落ち着かない年始となってしまいました。
おかげさまで交通機関は早急に復旧し、あれだけの大地震の2日後にもかかわらず、北陸地方を経由して無事に尾道へ戻ってくることができました。
とはいえ、ずっと複雑な心境であり、なんだか落ち着きません。
ここに書くことで何か解決するわけでも浄化されるとも思っていませんが、とりあえず、書かせてください。
また、決して自分の体験を美化するわけでもなく、恐怖を煽るものでもありません。ほぼ殴り書きなので、多少の誤字脱字やおかしな文体等はご容赦くださいませ。
2024年1月1日、私は数年ぶりに故郷である新潟県柏崎市の実家で年を越し、新年を迎えました。
それまではコロナ禍であったりタイミング悪く大雪が降ったりで、ここしばらくは当時住んでいた仙台市でそのまま年を越していましたので、久々に故郷での年越しでした。
とはいえ、そこまで特別感もなく、その日も何をするでもなく実家の2階の部屋でラジオを聴きながら本を読んで過ごしていました。
そのとき、グラっと少しだけ揺れる感覚がありました。
私の実家は地盤が緩く、前の道路に大型車が通るだけでも少し揺れるほどだったのですが、その時の揺れがそれではないことはすぐに分かりました。
最初の揺れは小さくすぐに収まったものの、1階にいた両親や帰省していた姉家族がどうも騒々しく、念の為テレビをつけました。
NHKにチャンネルを変えると、どうやら石川県でやや強い地震があった様子。画面には輪島市の中継映像。
その直後、テレビ画面から緊急地震速報。対象地域の新潟県の文字を認識した瞬間に再びグラッと揺れ始め、すぐに1階へ降りました。
2回目の揺れが只事でないと瞬時に察したのは、緊急地震速報が流れた時にテレビで輪島市の中継映像が揺れで激しく乱れ、建物が倒壊したのか街中から土煙が上がってく様子がリアルタイムで見えてしまったのです。
その映像があまりにおぞましく、未だに引きずってしまっています。
1階のリビングに着いた途端に揺れが大きくなり、立っているのがやっとの状態でした。
家が音を立てて大きく揺れ、電気が消えたり点いたり、食器が落ちて割れる音まで。
まだ小さい姪っ子と甥っ子は姉に抱えられながら泣いていました。
そりゃ怖いよな。俺も怖いもん。
大きな揺れの中でも、変に冷静な頭がそんなことを思っていました。
というのも、慣れとは恐ろしいもので、仙台で大きな地震に何度も遭遇していたこともあり、自分自身はその時の揺れでパニックになることはありませんでした。
それ以前にも、私の故郷は2007年に新潟県中越沖地震で被災した経験があり、私のみならず家族全員がいたって冷静であったように感じました。
ようやく揺れが収まり、幸い停電にはならず電気やテレビは点いたままです。
その後すぐの震度速報で、石川県で震度7を観測したことと実家の地域は震度5強であったことが分かり、なんだかとんでもないことが起きてしまったと。
すると、テレビから「大津波警報です!逃げてください!」という怒鳴りにも近い女性アナウンサーの声が聞こえ、画面に大きく映る日本地図を見ると、私がいた新潟県にも津波警報が出ていました。
私の家族一同もすぐに避難しようということになり、少し離れた高台にある親戚宅に向けて急いで避難の準備を始めました。
*
ただ、私の親父は市の職員であり市役所に自動的に出動する必要が出てきましたが、その日は元旦で昼から酒を飲んでいたという始末…
「なら、俺が運転して市役所まで送る。前職柄、俺なら役所でもできることがあるかもしれないし。」
と、とっさに私は親父に提案しました。
しかし親父は、市役所まで歩いていくから大丈夫とのこと。幸いその日は天気が良く、確かに歩いていける距離ではある。
そのやり取りの中でも、私は頭の中で色々なことを考えていました。
実家は海岸に近いわけではないが、津波に巻き込まれる可能性が十分ある立地であること。
市役所に向かう途中もしくは市役所自体が被災するかもしれない。
そう考えさせられた要因は、すべて東日本大震災であり、仙台や東北で過ごしてきた経験からです。
海岸からすごく離れているのに、この距離までこの高さまで津波が押し寄せたのかという、実際に現地の震災遺構で見てきた光景。
一面真っ平らで何もない広い平地が、元々は市街地だったのが全て津波で流されてしまったという衝撃の事実。
津波からの避難を促してきた役所の職員が、建物ごと巻き込まれて殉職してしまったこと。
それらの全てが頭の中を駆け巡った時、私は本気で死の恐怖を感じてしまいました。
そして、あれこれ悩む暇もなく、親父の返答を呑み、私は家族と共に親戚宅へ避難することにしました。
*
貴重品等最低限の荷物を急いでバッグに詰め、車に乗り込んで出発しました。本当はこういう荷物を詰め込むような時間も命取りになるのだろうけど。
やはり考えることはみんな同じで、避難の道中は渋滞していました。渋滞はよろしくないけど、みんながこうして逃げようとするのは過去の教訓が生かされていてとてもいいことだと。
途中で食料を買っていこうということになり、コンビニに寄りました。
幸いにも営業していたものの、中に入ると棚から商品が落ち、酒やワインの瓶が割れて床に散乱し、天井からは水が漏れて店員が必死にモップで掃除をしていました。本当にご苦労様です。
とはいえこちらも必死なので、あれこれ考えずに食料をつめて購入し、コンビニを後にしました。
*
余談ですが、コンビニで車を停めていた時に、一緒に避難していた姉家族の車が別の車の(ぱっと見)熟年夫婦から何やら話しかけられているようでした。
気になって私もすぐに近づくと、その夫婦からは今一体何が起きているんだと聞かれていたようでした。
どうやら、地震が起きたことや津波警報が出ていることを一切把握していないようでした。
私もその夫婦の車中をチラッとみると、カーナビは付いていないようでした。そうか、運転中なら最悪揺れにも気付かないし、オーディオを切っていたりケータイの設定次第では情報も入ってこないかと。
過去の経験から災害速報の手段や技術は大いに発展しているとはいえ、まだまだ穴があるんだなと思うと同時に、それがなんだか他人事のようで少し申し訳ない気持ちになりました。
*
親戚宅に到着して家の中に入れていただき、リビングで大人数でテレビを観ながら時間を過ごしていました。
本来なら親戚同士新年のご挨拶と言いたいところですが、それどころではありません。
とはいえ、ひとまず避難できた安心感と私自身も久々に親戚と顔を合わせられたこともあり、全員が終始リラックスしたような雰囲気でした。
街の様子が気になって時折外に出てみましたが、夕方5時ですっかり暗くなり、避難していると思われる車のライトや街の灯りが目立ち始め、遠くでは津波警報のサイレンがずっと流れていました。
外に出るたびに街の様子が変わっていないことにホッとしながらも、まだまだ心の中は落ち着きません。
夜になり、親父からの連絡で今のところ津波の被害はないことと親父自身も自宅待機の指示で引き返したことが分かり、親戚宅に居座り続けるのも申し訳ないということから、津波警報が継続中であるものの、自宅へ引き返しました。
決して専門家ではないけれど、地震発生の時間と震源からの距離、過去の震災からの知見等を踏まえて、自宅に迫るような大津波はもうこないだろうという判断になりました。
自宅に戻り、リビングに散乱した荷物をサクッと片付け、ひとまず夕食をとり、安全のため一晩はリビングで過ごしました。
テレビを観ながら被害の大きさに心が痛む中、一方で子供達は無邪気なもので、姪っ子と甥っ子は家中を駆け巡って遊んでいました。
私も途中からテレビを観るのをやめて、姪っ子と一緒にゲーム「マリオパーティ」を楽しみました。
久々の「マリオパーティー」が純粋に懐かしく楽しかったのと同時に、少しでも現実から目を離してくれた子供達の無邪気さに心を救われたひとときでした。
*
一晩を過ごし翌日になり、幸い故郷では大きな余震もなく津波警報から注意報に切り替わり、少し落ち着きを取り戻したように感じました。
その後は姉家族も帰宅し、私は実家に置かせてもらっていた私物の片付けを始めました。
というのも、地震によってこんな始末です⇩⇩
この私物棚、大晦日に整理整頓したばかりなんですよ。嫌がらせとしか思えません😭
とはいえ、こんなに薄いのに本を上積みしてたら倒れるわなという自責の念を感じながら、コツコツと片付けました。
なんとか片付けも完了し津波注意報も解除されたので、気分転換に久々に地元の温泉に行ったこともあり少しずつ心の落ち着きを取り戻しました。
一方でテレビを観ると、被害の全容が少しづつ明らかになり、地元新潟県でもあちこちで被害が出ているようでした。
そんなテレビの内容に心が痛む中ではありましたが、その時の私の1番の心配は、翌日に無事に尾道に戻れるかどうかでした。
というのも、私の帰宅ルートはいつも北陸地方を経由しているので、地震により鉄道がごぞって運休しているという情報を見て、命の危機が薄まった次は帰宅可否の点に心配事がシフトしていきました。
その後はインフラ関係者の尽力もあり、私が帰宅する時点では利用するルートが全て運転を再開し、余震による多少の遅延が発生したものの、無事に尾道に戻ってくることができました。本当に感謝しかありません。
途中金沢駅で乗り換えがあるため、せめて何か金を落としてこようと考えていましたが、遅延により乗り換え時間がキツキツになってしまい、その余裕がありませんでした。
またタイミングをみて、リベンジしたいと思います。
途中の京都駅や新大阪駅では大変な混雑でした。Uターンラッシュと同時に羽田空港での出来事もあり新幹線の利用が増えたのでしょうね。いやはや、大変な新年の幕開けになってしまいました。
今もこうして無事に尾道に戻ってくることができて、記事を書いているわけなのですが、相変わらず心境は複雑です。
地元の方が大変なのに、ここに居ていいのかと。
能登地方はこれまでにソフトテニスの大会で何度も訪れたことがあり、思い出の場所やお世話になった宿、テニスを通じて仲良くなった友達もいます。
今のところはSNS等で無事が確認できたりして、私が知っている範囲で不幸な話は聞いていないので安心していますが、なんとも言えない複雑な気持ちになっています。
とりあえずは募金に協力したり金沢駅で買い物をしたりと、できる範囲で尽力しているつもりですが、本当ならすぐにでも現地に行って何でもいいから力になりたいと思っています。
一方で、地元新潟県でも各地で被害が出ているようで、大変に心が痛いです。
新潟県はこれまで何度も大きな地震に見舞われては復興してきた過去があるので、今回もきっと乗り越えてくれるはずですが、気持ちだけが膨らんで何も協力できない自分に少し腹がたっているのも事実です。
というのも、私の前職はまさにインフラ関係であり、こういった災害時には真っ先に出社し復旧のために全力を注ぎます。
その感覚がまだ抜けていないのもあり、今回の災害において何もできない無力さをひしひしと感じました。
無力さのあまり、前職の上司に連絡をしたほどです。もしマンパワーが必要であれば私も動けると。上司からは感謝の旨の返答がきました。そんなつもりではなかったのですが。
とはいえ、上述の通り死の恐怖を感じたのも事実。仮にまだ前職で働いていたとしても真っ先に職場に向かうことができたのか。
結果として津波の被害はなかったものの、自分の行動は果たして正しかったのか、どうすればよかったのか、未だに分かりません。
普段はなんとかオチや結論を出したい性分なのですが、今回は難しそうです。というか、したくもありません。
*
本記事はあくまで自分の立場で書いているものですが、もちろん石川県や北陸地方の方が被害が甚大であり大変な思いをされていると存じますし、被害がない地域の方でも報道を観て心を痛めている方もいるでしょう。本記事でその点を差別しているつもりは一切ありません。
状況は違えど、私も過去に被災したことがある人間の一人です。大きな揺れの恐怖や避難所生活の大変さを少しは理解できるつもりです。
どうか、負けないでください。
今の私には、そう祈ることしかできません。
乱筆にて
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