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出張記

空色というよりは水色に近い群青色の空は、半分だけ赤く染めて僕をこの街から送り出した。もくもくと、わたがしのような雲を描いていた頃から二十年以上が経過した。今の僕の目には彼らがわたがしのようには映らない。もやっと縁がガスががった、それでいて赤子のようなどっしりとした形のものもあれば、竜のような、しゃれこうべのような。食べ物ではなく生き物のように見えた。

夕焼け小焼けの「小焼け」はただの語呂合わせだったという話を聞いたことがある。ただ、夕焼けと名付けたのは誰かという話は気になって何度も調べたはずだが答えが見つかった記憶はない。紅々とした姿を焼けていると表現したくなる気持ちはわかるが、僕には彼らが染まっているだけのように見えた。

窓から見える景色

この辺りの特徴なのか、行き来する電車から見える木々は幹が細いものが多い。これがどうにも儚げで、時期的に葉が一枚もついていないことも相まって寂しく見えてしまう。悲しいときには悲しい曲をというのと一緒で、この景色が染みるのは寂しさというものを少しだけ自覚し始めたからなのかもしれない。

大人は寂しさにたどり着くのが難しい。色んなものを見聞きして、色んなことを知ってしまったが故に、より細かいカテゴリ分けができてしまう。今の感情は悲しい、今は虚しい。これは切ない。じゃあこれは…となると、今この状態こそが寂しいのだとたどり着くのは難しい。感情という曖昧なものに対し、自分で正解を作るというのはなかなかに勇気がいる。どれだけの言葉を尽くして表現しようと全く同じ感情を得られるのは自分自身だけだ。わかったような気になっても生まれや育ちの背景が違えば、それは決して同一とはならない。

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