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恐れと自由

私たちは小さい頃からいつも「恐れ」で動かされてきたのかもしれない。「早く寝ないとお化け来るよ。」「言うこと聞かないと置いてくよ。」「そんなことするとみんなにいじめられるよ。」「その大学じゃいい就職できないよ。」

これらは真実だったろうか?真実かどうか自分で確かめもせずに、恐れに駆られて行動したことが今までどれくらいあったのだろう。

政府(もしくがその背後の黒幕)が国民を動かす時もまた同様に恐れを使うこともある。一番楽に統制が取れるからだ。それでも言うことを聞かない人たちには、グループを対立させて、一方が他方に怒りを発したり責めたりするように仕向ける。そしてメディアや専門家の意見などで追い討ちをかけ、「頑迷な人たち」が屈服するまで圧力をかける。

だから意見や見解が対立する時に、問題はお互いなのではなくて、背後に対立させようとしている力が働いていることを認識する事が大切だと思う。だからといって口をつぐんでしまうわけでは無いのだけれど、敵対しているのはお互いにではないことを気づくことは大きいと思う。

恐れに屈服するなら、真理が見えにくくなる。逆に恐れから解放されることで真実が確信と共に見えてくるはず。実効力のある解決策や方向性も見えてくる。

恐れがあると、保身に走ってしまい、本当の愛を実践することができない。聖書に「完全な愛は恐れを締め出す」とある。本当の愛を知る時に、恐れから解放される。逆に言えば、自己中心な生き方は恐れを引き寄せてしまう。

恐れに屈服するなら自由を失う。「恐れ」の対義語は「自由」とも言える。「神の霊があるところには自由がある。」とも書いてある。

散歩する時、買い物に出かけ、職場へ行く時、常に「自由!自由!」と心臓を鼓動させていたい。こうやって生きてていいんだ。

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