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複数国籍問題について考える

複数国籍についての記事を読んだので感想を短めに。

議論の切り口として2種類ある。

  1. 国家戦略として

  2. 個人の生き方として

この辺を詳しく考えてみよう。

国家戦略としての複数国籍問題

先進国では人口減少に伴う労働人口不足に直面している。
また優秀な人材の獲得競争もされている。

つまり、「人材確保」あるいは、「高度人材の獲得」という観点で、複数国籍問題は国家戦略の話題となっているのだ。

出生率の向上を半ば諦めた国が複数国籍を認めて人材獲得に乗り出す例がある。
それが韓国だ。
韓国は移民政策の一家として、2011年から出身国の国籍を維持したまま韓国籍を取得できるようになった。外国出身者の帰化によって人数を増やす方向性に転換したのだ。

個人の生き方として

出身国以外での就労や国際結婚が珍しくなくなった現状。
色々な意味でグローバル化した世界では、個人の生き方として「どこの国で生きていくか」を選択できる時代になった。

社会人類学者のアーネスト・ゲルなーは著書「民族とナショナリズム」の中で、『国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体(imagined political community)である』としている。
例えば、14億人が住む中国は、実際にはさまざまな潜在的な民族が存在するが、そこに住む人々は「中国人」と呼ばれている。政治を行う単位として国家が存在して、想像の政治共同体として中国人という国民になるわけだ。

ナショナリズムがという概念が先行することで国民という概念が起きる。その逆ではないことが重要だ。
対外的に一つの国としてまとまらなければならず、ナショナリズムが高揚した時に、国民という概念が起こるのだ。戦時などでナショナリズムが高まることで、国民の国民としての意識が高まる。
サッカーのワールドカップの時にこそ、「ニッポン!」と声を出すように、ナショナリズムが起きることで日本人としての意識が高まるのだ。

それでは、帝国主義の時代が終わり、グローバル化した世界において、国民はナショナリズムを感じることが減ってきた。
そのような社会では、人は国民としての意識が薄くなる。
より自由に生きるために複数国籍を取得することを望むケースが出てくる。

ドイツの緑の党のラムヤ・カドラ連邦議会議員は、
「多くの人がハイブリットなアイデンティティを持っている。祖国は一つしかないという考えは時代遅れだ」と説明する。

複数国籍に対してネガティブな反応を示さないようにしよう

ここまで整理して、今の僕が取るべき態度は
「複数国籍に対してネガティブな反応を示さないようにしよう」
ということ。

国家戦略としての視点はこれから学んで是非を考えるべきだが、
個人として複数国籍を取得することは別問題だ。
一人一人の生き方を尊重するのなら、複数国籍を持つ人をリスペクトしたいものだ。また、これは特殊な問題ではないことも、特殊な国に住む日本人は自覚すべきだ。

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