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/(スラント)~クライフの空間詩学~(4)

本号から「クライフの空間詩学」はかなり駆け足になる。
考えを十分に整理しきれないままキーワードの抽出とそこから生まれる勢いのままに紡いだ未完成の文章だからだ。
のっけから言い訳ですいません。が、「若書き」の生のままの断章というか雑文にもそれなりの価値があるかもしれない。
恥を忍んで。
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4.集散の理論、サッキの空間

密集のなかで抜群のスキルを誇るバルセロナのサッカー。
現代サッカーの特徴のひとつであるコンパクトネス=「密集」。ではこの「密集」という流れをサッカーに組み込んだのは誰であろう。ボールホルダーに選手が寄せる=集まる状況を意図的に作り出した人物の名は自ずと浮かび上がる。アリゴ・サッキである。サッキがACミランの監督時代に導入した「ゾーン・ディフェンス」とセットで導入した「プレッシング」が、現代のコンパクトなサッカーの源流であることはだれもが認める事実であろう。この戦法はACミランの輝かしい実績とともにサッキが自分の言葉できちんと体系化したこともあり、またたくまに現代サッカーの標準的な戦法として全世界に波及した。サッカーの戦術史におけるこの一大画期に対するために生まれたのがバルセロナ・サッカーである。よって、バルセロナ・サッカーやスペインの隆盛は、ゾーン・ディフェンスへの優位性の証明である、と言えよう。

体系化された集散理論 ラグビー

 現代サッカー、特にサッキ以降のサッカーに意識的に焦点をあてられた密集でのプレイの体系化がもし筆者の探す現代サッカーの新しい見方に通じるのであれば、ラグビーの理論に触れておくことの意味は大きい。なによりプレーヤーの密集状態を常に意識してプレイするスポーツであり、人の集散、密集の共通イメージがコーチにもプレーヤーにも観戦者にも刷り込まれているから。

体系化された現代ラグビーの集散理論は、スポーツの違いはあるが、サッキのサッカーの集散理論を分析する手段として援用できないだろうか。

  連続=展開=集散
  数的優位と集散

発生するオートマティズム

サッカーの集散に戻る。
サッキの密度、収縮された空間、
コンパクト 縦に短い空間の創生
サッキのゾーンディフェンスとプレッシングサッカーはなぜ生まれたのか。

クライフ
  サッキのゾーンディフェンスとプレッシング、テレサンターナのバグンサ・オルガニザータの前段階
  クライフ トータル・サッカー
  クライフの切断、サッキの収縮、テレ・サンターナの非対称 ブラジルとカテナチオの非対称
  クライフとミケルスのオフサイドトラップはなぜ生まれたか
  ミケルス・オランダの源流
  空間を切断するオフサイド・トラップがすべての起点ではなかったか。
卑怯な作戦を排するためのこのルールを戦術に利用したのが、1974年のオランダ代表である。オフサイド・トラップと名付けられたこの戦術の生みの親が当時のオランダ代表監督ミケルスとキャプテン、ヨハン・クライフ、というのはもはやサッカー界の常識となっている。
コペルニクス的転回であるオフサイド・トラップはどのようにして生まれたのか。

5.オフサイド

 ここでいう「密集」は「密度」と同義である。よって「密度」はプレーヤーの人数とスペースの広さで決まる。プレーヤーの人数は1チーム、11人でルール決められている。ピッチの広さもFIFAルールで国際試合のサイズは決められている。だが、そもそもスペースはピッチの広さと同義なのだろうか。ここでいうスペースはプレーが有効な空間であると考えるとき、実はサッカーの「スペース」は可変であると理解しなければならない。オフサイドというルールがあるからだ。
オフサイドとは、
なぜオフサイドというルールがあるのか、

ちなみにラグビーのオフサイドとは、サッカーのオフサイドとは同じか異なるのか、
なぜオフサイド・ルールが生まれたのか、

密集を理論化、体系化した先駆としてラグビーに触れたが、ラグビーとサッカーの共通点はまさにこのオフサイド、という空間に仮想的にひかれた境界線の設定であろう。人はサッカーの進化系をバスケットボールに求めることが多いし、クライフやロシアのロバノフスキーも積極的にバスケット戦術を取り入れたのも事実である。が敢えて言えば、やはりサッカーという競技の本質はラグビー同様オフサイドというルールによって発生した空間内の密集競技であると指摘しておきたい。

6.戦術のイデオロギー 〜批評理論の援用(フォルマリズムと脱=構築)

サッカー戦術史はオフサイドというルールが起点。
しかしオフサイド・ルールを逆に戦術の一要素に捉え直したのがミケルスであり、クライフであった。
フットボールを人の集散、あるいはその陰画としての「空間」の歴史として見直したとき、あらためて、「サッカーにおける空間史はクライフから始まった」と断言できよう。
  1970年代、クライフが動いて引いた仮想のラインが、プレー空間=ピッチを水平方向に切断し、ピッチの縦方向を可変にした。空間を戦術的に切断したのだ。さらにクライフはポジションを流動化することで、局所的に人の集散、スペースをつくり、チームとしてボールをダイナミックに動かすことに成功した。
1980年代、テレ・サンターナはピッチを非対称に使うことで、さらに意図的にオープンスペースをつくり攻撃に活用した。1990年代、サッキはクライフが切断した空間をさらに横方向にも圧縮し、攻守の最適化をおこなった。サッキのゾーンディフェンスとプレッシングは、その有効性と体系化ゆえ全世界のサッカーのスタンダードになった。2000年代、バルセロナは縦横にコンパクトな空間内でパスをつなぐサッカーを展開して、現代サッカーの頂点に立った。

 プレーヤーの共通語としてのシステム論 
 システム論の陥せい 
 ゲーム中に流動するシステム
 2014 ワールドカップ ブラジル大会 ドイツ優勝
 2015 グアルディオラ バルセロナ、バイエルンのリーグ優勝
 もはやフォルマリズムによるシステム表記は不可

 グローバリズムの言語=フォルマリズム、単なる電話番号から共通言語へ

  新たな提言、空間と集散の論理
  クライフ 斜線と接続の体現  vs ドイツ=ビルドアップサッカー
  フォルマリズムの破壊者       フォルマリズムの体現者 

  ※サウジアラビアで会ったFIFA公認のコーチ曰く…

 しかし、もともとサッカーはどう観戦されていたのだろう。
 電話番号がない頃の時代。
 人々はボールと選手の軌跡を追うことから始まったはずだ。
野球のように定量的データで測れないサッカーという競技をより体系的に理解するために、布陣、選手のポジション、という考え方が生まれたことは想像可能だ。その後フットボールの歴史は長い時間をかけて、システム論と呼ばれる体系化された理論にまで昇華されたのではなかったろうか。
であれば、本論考で論じた、空間と選手の集散に焦点をあてた、サッカーの見方は時代を逆行したものかもしれない。せっかく体系化した理論を白紙に戻す程度のものでしかないのか。
用語を援用したロシアの批評理論「ロシアフォルマリズム」も批評の転回点といわれるほどの画期であったのだ。システム論自体、生まれた時はサッカーの見方の画期であったかもしれない。
そう自省しつつ、なおかつ現代サッカーの戦術論の表記法が壁にぶつかった今、敢えて本論考を世に問うものである。

サッカーを観戦するという行為においては、サッカーは次のように三層構造となっていると言えよう。
1)プレーヤーの目線
2)監督・指導者の目線
3)観戦者の目線
このうち1)と2)はリアルな構造であるが、3)はこのリアルに被せられたフィクションであると言えまいか。観戦者は目の前に展開されている試合を常に理解しようとする。観戦者はボールの軌跡と選手の動きを追いつつ、プレーヤーの意図、監督の意図、を推測しながら、一見カオス状態に見える試合をなんとか分析しようとするのだ。その場合、観戦者のイメージはまったくの虚構である。
極論を言えば、システム論と呼ばれる、数字で表される布陣図も観戦者の虚構なのだ。「システム論の数字は単なる電話番号」とペップは言い切った。が、しかしその数字は、指導者と選手の間で通用する最低限の共通言語でもある。つまりフィクションがリアルに影響を与えているのだ。蓮見重彦の言う「テクストの現実」である。
あるいはベンヤミンの言う「ヴァリエーションは歴史によって解釈される」。
歴史はひとつではない。事実はひとつでも歴史は多義的に解釈される立場を本論考ではとる。
サッカーそのものはリアルだが、戦術論や戦術史はフィクション。この考え方がどこまで受け入れられるかわからないが、さらに論を進めれば、現在広く流布している戦術論そのものを見直した上虚構としての「別の戦術論、戦術史」を構築することも可能だろう。それがリアルにどこまで影響を与えるかどうかは別にしても、サッカーの見方を示唆してくれるかもしれない。

虚構としての「新たなサッカー戦術論」の分析・構築・体系化にはフィクション=芸術や文学、の手法は有効のはずである。

以下次号


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