リレー小説 合宿2024(仮題) vol.6

先日の春合宿の際に、会員八名によるリレー小説を作成しました。3/28から4/4にわたっての八日間での連載を予定しています。

「……え?」
 僕はしばし言葉を失った。
 扉の先には誰もいなかった。廊下に出て、双方向を見渡す。左は廊下の突き当たり、右は複数の扉が並んですぐ、廊下はさらに右側に折れ曲がっている。年月を感じさせる木の扉と、表面がくすんで剝がれかけたクリーム色の壁。そのどこにも人の姿は見当たらない。
 ピンポンダッシュ? 自分で思い浮かべた可能性に、自分で疑問符を打つ。そもそも今日、この旅館には僕しか泊まっていないはずだ。では亭主の悪戯? 彼とは先刻少し言葉を交わしただけだが、生真面目な性格だという印象を受けた。とてもそんなことをするような人には思えない。
 誰もまたも自分の妄想だったのだろうか。やれやれ、最近は変なことばかり考えてばかりだ——ため息をついた瞬間、自分の向こう側から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「あ! お客様!ご無事でしたか」
 折れた廊下の向こう側から現れたのは、当の亭主だった。自室の前で立ち尽くす僕を見るなり、安堵したように表情が緩んだ。肩で息をしているところを見るに、長い距離を走ってきたのだろうか。
「ご無事で、ってなんかあったんですか」
「ええと、その、私も自分が見たものが信じられないのですが......」
 亭主は少し言い淀んだあと、意を決したように告げた。
「し、死んでいたんです。怪獣が」
「——は?」
 思わず間抜けな声が漏れてしまう。「懐柔」「晦渋」......カイジュウが脳内で「怪獣」と変換されるまでにたっぷり五秒はかかった。
「怪獣って、その、ゴジラみたいな」
「はあ、私も怪獣なんて映画の中でしか見たことがないのですが、それ以外の言葉で言い表すことができないような見た目でして」
 リアルの怪獣が未経験なのは誰だってそうだろう。
 そう突っ込みたくなったが、混乱しきった亭主の様子を見て自重した。どうやら嘘や出鱈目を言っているわけではなさそうだ。にわかには信じがたいが、とにかく自分の目で確認しないことには始まらない。一緒に現場の状況を見に行くことにした。

「これは......」
「ね、怪獣としか言いようがないでしょう」
 人気のない荒れた道路を速足で歩いて五分。亭主に案内された堤防で眼下の砂浜を眺めながら、僕は唖然とした。
 砂浜の面積は広く、奥に見える海も雄大に広がっていた。連なるさざ波に昼過ぎの陽光が反射して、天の川のような輝きを放っている。普通であれば誰でも見とれてしまうような光景だった。
 そう、普通であれば。
 さわやかなはずの景観は、その中央に鎮座する異形の存在によって悉くぶち壊されていた。異変が起こっていることは、堤防から下りなくてもすぐに分かった。
 「それ」は、生き物に近い見た目をしていた。
 「それ」は、波打ち際のすぐ近くにその身を横たえていた。
 「それ」は、現代の常識ではおよそ考えられないほどの巨体を有していた。
 人智を越えた恐ろしい生物を怪獣と呼ぶのなら、「それ」はまさしく怪獣だった。
 しかも——
「一匹じゃない......?」
 呆然と発した言葉に、亭主が無言で頷いた。
 そう、怪獣は二匹(二体?)存在した。左手側には深海魚にカニの脚が生えたような生き物、右手側には太古の恐竜のような胴体から二岐の首が生えている生き物。双方の身体はともに横倒しになっており、見開かれた眼には生気が宿っていなかった。現実離れした外見も相まって、悪趣味な前衛芸術を見せられているような心地がした。
 異様なのはそれだけではなかった。
「これ、どこかに連絡しましたか?」
「いえ。自分の見たものが信じられなくて、もしかしたら悪夢でも見ているんじゃないか。って。とにかく他のどなたかに一緒に確認してもらうことしか頭にありませんでした」
「まあ......そりゃそうですよね」
 頬を思い切りつねってみる。じんじんとした痛みを感じてなお、脳が目の前の情報を受け入れることを拒否していた。
「自分で訊いといて何ですけど、この状況で連絡とか浮かばないですね」
「ええ。警察に伝えるしかないでしょうけど、『怪獣が死んでる』だなんて言ったら十中八九悪戯だと思われるでしょうし——え?」
 困り果てたような苦笑が一変、再び驚愕の色に染められる。思ったよりこの人、表情が豊かだ。「生真面目な性格」という分析に再考を加える必要があるかもしれない。
 ......まあ、それはともかく。僕は彼の視線の先を追いかけた。
「どうかしたんですか」
「人がいます」
「え」
「怪獣のすぐ隣に、人がいるんです! まだ生きているかもしれない。助けにいかないと!」
「あ、ちょっと!」
 言うなり、制止する間もなく傍にある石段を駆け下りていった。
慌てて後を追いつつよくよく目を凝らしてみると、たしかに人間らしき姿が恐竜型怪獣の影から仰向けの状態で覗いていた。
 しかし、どこか違和感があった。倒れているにしては身体の位置がおかしい。
 あれは倒れているというより、まるで宙に浮いているような——。
 疑問はすぐに氷解することになる。
 ぐったりと横たわる怪獣におそるおそる近づく。亭主の足音が向こう側——カニ脚怪獣の辺りで聞こえた。となると、彼が見たのは僕が見つけた人とは別人なのだろうか。
 そんな疑問をよそに、上からは影になって見えなかった地点に回った。その背中を見た瞬間、
「なにこれ?」
 本日何度目かの間抜けな声が口を突いて出た。
 無骨な背中の中で最も平たい部分。縦に二本走ったヒレの間に、ひとりの男が生えていた。我ながらあり得ない表現だと思うが、見たままを伝えているのだから仕方がない。
 思わずめまいがする。たしかに事件の発生を望みはしたが、こんな荒唐無稽な事態に巻き込まれるなんて思いもしなかった。
 男は腹部から下が怪獣の体内に埋まった状態で、突き出た上半身は黒いダウンコートを着ていた。この季節にふさわしくない厚着だ。加えて、全身(見えているのは上半身だけだけど)がずぶ濡れになっている。歳のころは四十代程度だろうか。普段は威厳のある顔つきなのだろうが、今やその頬は青ざめ、唇に至っては紫色に変色していた。じっと観察していると、身体が小刻みに痙攣しているのが分かった。
「まだ生きてます!助けましょう」
 声を張り上げて呼びかけると、困惑した声が返ってきた。
「そちらにもどなたかいらっしゃるんですか?」
「え......ええ、なんか身体から垂直に生えてます。もしかしてそっちも」
「同じような状況です。しかもこんなに寒そうに......」
 凍えているところまで一緒なのか。
 そう呟いたとき、目の前の怪獣が、ず......と動いた気がした。
 生き返った? 思わず後ずさったが、怪獣は相変わらずぐったりとしているように見える。
 しかし見間違いではなかった。それまで足跡ひとつなかった砂の上に、引きずられた痕跡が少しずつ刻まれていく。
「な、なんか動いてませんか!?」
 慌てたような亭主の言葉にも、適当に返すことしかできない。
 怪獣の身体は、砂を擦りながら海の方向へ移動していた。まるで見えない力に引きずられているかのように。
 このままでは、全て海に呑まれてしまう。怪獣も、その背に生えた男も。
 弾かれたように彼の傍に掛け寄った。もしかしたら得体の知れない怪獣が動き出して、襲われてしまうかもしれないという考えは完全に頭から抜け落ちていた。
 両脇に上から腕を回し、弛緩した胴体を抱きかかえる。そのまま堤防の方向へ踏み出して、逆を向いた綱引きのように全力で前傾姿勢を保つ。後ろを振り返らずとも、彼の腰が、腿が、少しずつ体内から引きずりだされていくのが分かった。なぜか懐かしい感触がした直後、僕は前につんのめった。男の身体は呆気ないほど軽く引き抜かれた。
 男の生存と周囲の安全を確認してから、亭主の方向を確認した。どうやら彼も無事救出に成功したらしかった。横たえた相手の傍に膝をついて、呼吸や心拍の確認をしている。
 怪獣の姿は、すでに三分の一ほどが水に浸かっていた。音もなく吸い込まれていく巨体をぼんやりと眺めていると、波の輝きがいっそう強くなったような気がした。
 いや——波だけではない。
 まるで透明な宝石を散らしたかのように、空中でいくつもの白い光が瞬いた。僕はその光に、どこかで出会ったことがあるような気がしてならなかった。
 二体の怪獣。防寒着。引き抜くときの感触。空中で反射する無数の光。
 糸。
 先輩。
 ふいに見知った無表情が頭をよぎって、防衛反応のように両目をきつく閉じた。何かを思い出してしまうのがたまらなく恐ろしかった。
 あれは出来の悪い夢だ。ぜんぶ夢だったんだ——頭を抱えてうずくまり、何度も自分に言い聞かせる。
 それから。
 目を開けると、驚くべき速度で怪獣の姿は遠ざかっていた。やがて全てが沖に呑み込まれ、後には海だけが、まるで最初から何も起きてなかったかのような顔つきで、解くべき謎などどこにもないような顔つきで、傾き始めた太陽の光を白々しく反射していた。

(燦)

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