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望まないことをしてしまう自分を発見した時。

「わたしは自分のしていることがわからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。」
ローマ人への手紙 7:15

『ブラック校則』という言葉を最近耳にすることが増えています。これまでずっとあった理不尽な校則について、「理不尽だ」と声が上がるようになってきています。こんな例を見ました。

女子の下着の色が白と指定されており、修学旅行の荷物検査で一部分が白でない下着を持っていた生徒が没収され、そのまま2泊3日をノーブラで過ごさせたとのこと。学校からの報告等は一切なく、保護者会での質問で明らかになった。学校側は「シャツ・ベスト・ブレザーを着ており、外からはノーブラだとわからないので問題ない」とのこと。
(プレジデント・オンラインより https://president.jp/articles/-/25835?page=2)

外からわからない、と説明してるのに、それを規制する意味はさらにさっぱり分かりません。この教員は下着を没収したくて教員になったのではないだろうと思いますが、一体何を守ろうとしたのでしょうか。
ルールが決められた時には何らかの意図・目的があったと考えられますが、それが今も必要な指導であるのかどうか、見直し、アップデートしてほしいものです。

しかし、わたしたちも、けっこうこれと同じようなことをしているかも知れません。
相手に望むこと、達成したい目的や目標はあるけれど、必要で適切でない方法をとってしまうことがあります。叱りたいわけじゃないのに叱ってしまうったり、ケンカしたいわけじゃないのにケンカしてしまったりするのは、「自分の望むことは行わず、憎むことをしている」のではないでしょうか。

気をつけましょう?
気をつけて避けられるものなら、もうできてるでしょ!

パウロはこれについて、
「この事をしているのは、わたしの内に宿っている罪です。」
「わたしはなんとみじめな人間なのでしょう。」
と言っています。

ところが、このパウロは、
「滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている。」(ローマ8:21)
とも言っています。

望まないことをしてしまっている自分、罪に支配されているみじめな自分、そんな自分を発見した時、それは神様につながる望みを発見できる時でもあるのです。