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夢で電話をかける


縁側に干された生乾きの洗濯物を見ると、憂鬱になり長梅雨に辟易した。小学1年の長男は、元気が有り余っていた。廊下の左右の壁に片手をそれぞれ置き、足も同じように置いて、大の字のような格好でヒョイヒョイと上へ登る遊びをしていた。
ある日、玩具の取り合いで喧嘩をしていた時「こらー、いい加減にしなさい。2人共、押入れに閉じ込めるよ」と雨音に負けじと怒鳴った。
反省を促し2人を押し入れに閉じ込めたが、簡単に開けられるので効果はあまり期待出来なかった。しかし、意外と静かにしていたので、様子を見ようと押し入れを開けると、2人で襖の裏側をそっと破って遊んでいた。押し入れ反省作戦は、最初で最後になった。そんなこんなで、毎日の子育てに疲れていた。

梅雨の合間の晴れた土曜日に、家族で1泊の小旅行に出かけた。息子たちは、途中の牧場で馬を見てはしゃぎ走り回っていた。道中、車の後部座席の次男は「もー、お兄ちゃん狭いよ」長男は「お前も側に来るな」といつも通りの喧嘩でうるさかった。ついに「2人共、降ろすぞ」父親の声が飛んだ。

森の中の古い温泉宿に着くと、遠くに見える雄大な山々に癒され、ストレス解消には持ってこいだった。夕食は、優しそうな中年らしき中居さんに部屋まで運んでもらい、ご馳走に舌鼓を打った。

温泉の硫黄の香りと開放感でリラックスし、心地よい眠りに付いていると、夜中に「いたーい」と突然、次男の泣き声がトイレから聞こえた。私が飛び置きてそこへ行くと、右足のスリッパを脱ぎ捨てて大声で泣いていた「どうしたの、足が痛いの?」

脱ぎ捨てられたスリッパの中を覗くと、5㎝くらいの百足がモゾモゾと動いていた。昨日までの雨続きで、湿気があったのだろう。
酔っ払って寝ていた夫も流石に目が覚めて、すぐさま百足をお陀仏にした。私は、息子を寝床へ連れて行き「お父さん!冷蔵庫の飲み残しの焼酎瓶を持って来て、早く!」慌てて夫が持って来た。
「それからお風呂の洗面器も早く!」

私は、息子が痛がっている右足の小指の付け根に口を付け、毒を吸い出そうと考えた。無我夢中で吸うと、口の中がヒリヒリした。その直後に焼酎を口に含み洗面器にペッと吐きだし、何度もそれを繰り返した。誰に習った訳でも無く、我が子を守る為の本能だった。夫は、私の鬼気迫る表情に狼狽していた。痛みが取れたのか、4歳児は何事も無かったように大人しく眠った。
私は紙に包んだ百足の死骸を出入り口の角に置き、ホッと溜息をついた。

それからは、百足の事と天井裏の小さな音が気になり寝付けずにいた。鼠が天井裏で走り回っているのかも知れない。鼠のそんな行動は、死神が近くに来ている。という迷信を思い出し益々眠れなくなり、眠ろうとすればする程、胸騒ぎがした。

こんな事もあるだろう。と開き直ると、いつの間にか眠り夢をみた。白い着物姿の長い黒髪の女性が、暗闇の空に浮かんで死んでいるように見えた。ハッと目が覚めると、心臓の鼓動に気づいた。「フゥー、変な夢」と呟いて目を閉じた。
また続きの夢をみた。見ず知らずの女性が、自殺をしているのかも‥
そして、また目が覚めた。
天井を見回し誰か空中にいないかと確認をすると、淡い電気の灯りでは特に何も見えず安堵した。
3度目の夢では、あの人はもう死んでいる。と思った。

その後も、短い夢の続きを繰り返し見ては目が覚めた。最後の夢は「大変です。誰かが死んでいます」と私が警察に電話をする場面で終わった。カーテンの隙間から朝日が差し込んで、晴天を知らせたが心は曇天だった。

百足事件は事なきを得て、次男がすっかり元気になっていたので「私って凄いわ」と自画自賛をし乍も、頭は重く睡眠不足は否めなかった。

百足と怖い夢で温泉効果が半減したような気もしたが、無事で何よりと思い直した。中居さんが布団を片付けた後、美味しいそうな朝食が部屋へ運ばれてきた。全員に配膳を終えた中居さんが部屋を出ようとした時、フラフラと柱に寄りかかり、お盆を落とし、うずくまった。

夫が「大丈夫ですか、大丈夫ですか」と何度も声をかけたが返事がなかった。私は、慌ててフロントに電話をした。
大変です。中居さんの意識がありません。早く、救急車を呼んでください」
「はい、分かりました。有難うございます」

救急車が到着するまでの時間を長く感じた。私はその間、ふと夢の事を思い出していた。夢で警察に電話をする自分と、実際にフロントに電話をした自分が重なり恐怖心に駆られた。

救急車の音が宿に鳴り響き、他の客も何人か玄関まで出てきた。私は、担架に乗せられるその人に向かって、手を合わせて無事を祈った。
思わぬ出来事に動揺し、百足の事を宿に告げる事をすっかり忘れていた。

その中居さんは暫く入院し、回復されたと、後日、本人からお礼の電話を頂き一安心した。またもや、百足の事を言い忘れた。まぁいいか。その死骸はきっと、ただのゴミとしてポイと捨てられただろう。

             完


事実を元にした創作です。



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