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長谷観音と日露戦争の立役者名馬轟號

令和3年11月21日、前回記事の大園橋(めがね橋)を後に、他の参加者と次の研修地へ歩きながら向かった。

国道504号を横切ると、左手には田んぼが広がり、暫く歩くと井堰が現れた。小さな滝のように流れる様を見ていると、水の音や澄んだ空気が心地良く来て良かったと思った。
この井堰は固定されているが、転倒井堰に改修し大洪水の時に水位を下げ、水害に対処する案があるようだった。
右手に続く山は鬱蒼としていたが、幾つかの樹木が紅葉し彩りを添え晩秋の風情だった。
数分も歩くと、長谷観音・長谷城跡中世石塔群のある場所に着いた。
役員の方から、長谷観音の説明や都からやって来た炭焼き五郎治と、地元の裕福な娘の恋物語を聞いた。

結婚を娘の父親に反対されたが、ようやく許された後、山中の土の中から青銅を見つけ、都に持ち帰り大金持ちになり長谷観音の御影を写し、この地に持ち帰り安置した。という物語だった。

これは、旧大窪村に語り継がれてきたらしい。地元で知っている人がどれだけいるだろうか、初めて聞いた『お話し』を大切にしたいと思った。
似たような物語は、青森から沖縄まで十数箇所あると民族学者の柳田國男の全集に記されている。

1211年この地に住み着き、長谷氏を名乗り田地開発を行った一族の逆修供養塔がある。
高さ1メートル前後の苔むす6輪塔が10基以上存在していた。
「ここの逆修供養塔は6輪塔で全国的にも珍しい」と参加者の男性に教えてもらった。

長谷観音の登り口階段の横にある、名馬轟號之記念碑の側で、史談会の会長さんの説明を聞いた。
この地域は日露戦争の時、優秀な軍馬を育て国に貢献していた。
それは、北海道の七重牧場から種馬としてやって来た轟號の功績でもある。その轟號の仔馬たちは千余頭、東京競馬で優勝したり種馬や強い軍馬として活躍し、偉大な功績を残している。
それにしても、千余頭の仔馬の父親とは驚嘆した。驚くという漢字は、馬の上に敬うが乗っている。

この辺りは米所でもあり、薩摩藩に最も多くの年貢米を納めていた地域であり、分限者が多かった。そのお陰で軍馬を育てる余力があったのだろうと推測した。
戦争と言えば、誰もが眉をひそめるが、当時は仕方のない出来事だった。その事実を地元の子供たちにも、身近な歴史として教えてほしいものだ。


名馬轟號之記念碑

会長さんが説明されている時、記念碑の裏側の文字を除き込むと、そこには多くの名前が刻まれていた。その中には、祖父の名前もあり驚いた。

身体を屈めて祖父の名前に見入っていると、史談会役員のKさんに声をかけられたので、そのことを伝えた。それから会長さんに、何やら耳打ちをされた。
すると、会長さんが参加者の皆さんに私を紹介してくださった。
「この方は、組合員の末裔の方です」
『そんな大袈裟な、末裔なんて』と恐縮し頭を下げた。
しかし光栄なことで、その後の気分は秋晴れそのもの。

明治32年12月に町が轟號を購入し、組合が組織され50名が組合員となった。当時の祖父は18歳位の年齢で組合員になるには若過ぎる気がした。父親(私にとって曽祖父)が38歳で病死しているため、祖父は若くで家督を継いだのだろう。
しかし、20歳の時、母校の小学校教師の辞令を受けているので、実際は住み込みで働いている人が馬の面倒を見ていたのかも知れない。
「あなたのお祖父さんは、頭の良い人で、あなたのお父さんのレベルじゃなかったらしいよ」と知人に聞いたことがある。
いつだったか、祖父がしんみりと「漫画家になりたかった」と言ったことがある。
咄嗟にジャングル大帝 レオ、鉄腕アトム、魔法使いサリーちゃんが思い浮かび面食らった。今にして思えば、鳥獣戯画のような漫画を描きたかったのかもしれない。それはそれは写実の上手い人だった。

実家近くの川の井堰が、コンクリートに改修された時の記念碑に、代表者として祖父の名前が刻まれている。
「近頃は、私とすれ違っても誰も頭を下げる人がいない」と祖父が晩年に寂しそうに呟いたことがある。
もしかすると働き盛りの頃は、一目置かれていたのかも知れない。
祖父の自慢話を子供や孫に少し記しておきたいと思った。

その他に親戚らしき2人の名前も見つけた。曽祖父(平吉)の年代は、一族の男子の名前に平の字を使ったらしい。2人の親戚らしき名前には平の文字があり、それと苗字で曽祖父の兄弟だと確信した。
祖先は藤原と平家の血統があるらしい。一族の名前が全て書かれた巻物は、空襲により焼失しているが、藤原の名前のある銅鏡は残っている。江戸時代初期の先祖の五輪塔は、風化で氏名が読みづらい、現在の苗字は地名から取っているようだ。
若くで病死した曽祖父は、三男で病弱だったようで、兵役逃れのため苗字を買い別姓の長男になっている。複雑なご先祖様たちだ。

声をかけてくださったKさんは、大分県出身の女優さんと同じ苗字だったので直ぐに覚えた。ご先祖がやはり大分県出身らしかった。
「昔の人は戦争で苦労されましたよね、私の父も軍人で皇居の任務に就いていました」と私が話した。
「そうですか、近衛兵ですね」
「ご存知ですか」
「私の父もそうでした」
「奇遇ですね、そういう方に初めて出会いました」
「上官殿、だったかも」
「いえ、まさか」
「私の父は終戦近くに近衛兵になりましたから、若かったんで」Kさんから笑みがこぼれた。
短い会話だったが、親同士は知り合いだったかもしれない、と不思議なご縁を感じた。

県道から外れているため、滅多に通らない道の側に、全く知らない歴史があった。
古きを温ね新しきを知り、精進し感謝して生きて行こうと思った。
次の目的地は、瀬戸山神社だ、なんだか面白くなってきた。

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