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パンを踏んだ娘

読書が大好きになるきっかけになった本は3冊ある。

一冊目は、題名は忘れてしまったけど、トロイ戦争について書かれた本。
小学校2年生で入院した折、父が「暇だろう」と買って差し入れてくれた。
父がなぜその本をチョイスしたのか、もう確かめることはできないけど、小2の娘に買い与えるにしてはものものしい話だ。
でも、私は木馬からギリシャ軍の兵士が続々と吐き出される場面に大興奮し、すっかり物語のとりこになった。

次が、モーリス・ルブランの「虎の牙」

ミステリ初心者が最初にコナン・ドイルに出会わないのが、いかにもひねくれの私、って感じ。
でも、その後のミステリ小説好きの人生がここで確定した。
殺された被害者の手に、虎の牙の歯形のついたチョコレート、って今見ても魅力的な謎だ。

最後がアンデルセン童話の「パンを踏んだ娘」

私が持っていたアンデルセン童話にはお話が五つくらい入っていて、一番最初が「みにくいあひるのこ」、次に「赤い靴」、一番最後が「パンを踏んだ娘」だったように記憶している。

「赤い靴」もかなり残酷な話で私は大好きなのだけど、「赤い靴」の主人公は因果応報がひたすら自分に返ってくるのに対し、パンを踏むという行為の大胆さとその代償が他人をも巻き込む点で、「パンを踏んだ娘」のほうが救いがないように感じる。

職場に、残酷な童話を子どもに見せない、というひとがいる。
なんとまぁ極端な、と思うけど、本人は真剣だ。
いわく、昔は社会が残酷さを容認していたので残酷な物語を子どもに与えてもなんとも思われなかった。いまは時代が違う。子どもは残酷な物語から守られるべき、というのがその主張。

私はただただ黙って聞いていた。
言いたいことはわからなくはない。
子どもの周りから有害なものを排除したいという気持ちも、まぁわからないでもない。

私は本に関しては早熟で、小学生のころからいろんな本を読んできた。
当たり前のことだけど、松本清張を読んだからといって時刻表をつぶさに見て完全犯罪を企てたり、横溝正史を読んだからといって菊人形の頭を生首に挿げ替えたりはしない。
フローベールを読んだからといって密通に身を持ち崩したりはしないし、ヤプーを読んだってあれが現実のものだとは思わない。

私は早くにイプセンの「人形の家」に出会えて本当に良かったと思っている。自立という言葉はずっと私の中にあって、絶えず人生の行く先を照らし続けてくれた。
一方で、本来子どもが普通に読むであろう児童文学には一冊も触れなかったので、それは大変に惜しく残念な気持ちだ。児童文学だけは限られた時期にしか摂取できない栄養だからだ。

でも、いつどの本に出会うべきで、出会うべきではないか、親が選ぶのは不遜では?と私は思う。
放っておいても、ちゃんとその子にあった時期に、その子に合った本に出会える。
親がその機会を摘んでしまうことだってあるだろう。

「パンを踏んだ娘」は宗教色の強いお話だ。
アンデルセン童話は訓話でもある。
私は本から教訓を読み取らせるのも大きなお世話だと思う。
どんな本も好きに読めばいいのだ。
たくさんの本を好きに読めばいいのだ。


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