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自分を傷つけるもの

何でもないひと言にいつまでもくよくよしがちだ。

そのひと言は話の肝ではなかった。
というのは、後になって思い返して「それは肝ではなかった」と気づいたのだが、その言葉はいつまでもショックだった。

何気なく出てきた言葉だからこそ本音だったろう。
その言葉の意味するところも、それが本音だったろうことも、繰り返し繰り返し心の奥から取り出しては確かめる。
しばらくその時の気持ちがうまく言葉に置き換わらなかった。
ショックはショックなのだけど、ただ衝撃を受けただけではない。

最初に「驚き」があった。
自分の振る舞いがそういうふうに受け取られることがあるなんて、という。
その言葉が選択されたことにも驚きがあった。
ネガティブな評価でしか使われない言葉だ。
それを真っ先に言ってしまうんだという。

次に、恥ずかしいという気持ちがきた。
仮にも自分はそれがいいと思ってしたことだ。
それをストレートに言われて、笑われたような気がした。
相手にその気持ちがあったかどうかは知らない。
自分が受け取ったニュアンスとしてはそうだった。

次には、困惑。
その言葉を使われるほどのことなのかという。
何が良くて何が悪いのか、どうしてそう受け取られるのか。
いまいちよくわからない。

最後に、痛み。
ネガティブな言葉をぶつけられたことに対する辛さ。

自分でも神経質すぎると思っている。
人が聞いたら、なぜその程度で?ということだ。
そもそも話の肝ではないのだから、拘る必要がない。
いつまでも考えてしまうのは、自分の心にケリをつけるのに時間がかかるからだ。
繰り返し取り出しているうちに、最初に感じた感情とは全く別の「恨み」の気持ちが立ち上がってくる。
こんなに困惑させられていることへの。
何気ない一言に翻弄されていることへの。

こんな時、いつも思い出す言葉がある。

「自分を傷つけることができるのは自分だけ」

「全ては単なる事象でしかない。解釈によってそれらを喜怒哀楽に分けている」というような意味に聞いた。
簡単に言えば「ものは考えよう」


言葉自体にはネガティブなニュアンスしかなかった。
傷ついた気持ちになった。
でも、その言葉は私自身を評価したものではない。
私の振る舞いの行き過ぎを諫めただけかもしれない。
そうではなかった可能性を考えても仕方ない。
そうである、ということを自分で決めるだけだ。

言葉はただ発せられただけ。
どういうふうに受け取っても、それは私の自由。
私を傷つけるのは私だけ。



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