見出し画像

すみだ今昔さんぽ 第4回(連載に昇格!)

めでたく企画続行の運びと相成りました「すみだ今昔さんぽ」。
ご好評、ご声援を賜り厚く御礼申し上げます。さて今回は我々演奏家と切っても切れない“音“に纏わるお話し。最後までお付き合い頂ければ幸いです。

前回は、新日本フィル打楽器奏者の腰野真那さんと共に両国駅をスタートして、墨田区千歳一丁目にある江島杉山神社を訪問、最後に本拠地すみだトリフォニーホールにいる”関ネコ”ちゃんを紹介させていただきました。

後日お客様から「実際に行ってみました」なんてお声掛けをいただき案内人冥利に尽きるのですが、これからやって参ります暑〜い季節、炎天下の中のお散歩というのはちょっと気が乗りません。
そこで、すみだトリフォニーホールからそう遠くない場所で何か面白い発見はないかと地図を眺めておりますと…

画像1

何やら櫓のような挿絵を見つけました。
はてこれは火の見櫓かな?「火事と喧嘩は江戸の華」と言うくらい、当時は火事が多かったですからねえ。

しかしその横に、何でしょう「時ノカ子」という文字がございます。
人の名前?
いえいえ、この「子」というのは「子・丑・寅・卯…」の「ね」に違いありません。

「ときのかね」

そうです、時代劇や落語の中に必ずと言って良いほど出て参りますあの「ゴ〜〜〜ン」という音が、ここ本所にも鳴り響いていたのでございます。

本所横川時の鐘
その昔、江戸府内には時の鐘、つまり時報が9ケ所存在したと言われている。本所界隈に時を知らせていたこの鐘は、はじめ隅田川沿いにあった材木置場で働く職人たちの為に置かれた。その後、一旦時報は中断されるが、2人の町人の申し出により鐘楼が建設され、再び鐘の音がこの地に響き渡る次第となった。

誰がために時報は鳴る?

最初の鐘は、大横川北中之橋付近(すみだトリフォニーホールから徒歩30秒!)にあったようです。材木置場と大横川北中之橋を確認してみましょう。

画像2

いちばん見やすい安政期の地図を採用したため、材木置場は御竹蔵という名称になっております。江戸時代、腕時計はおろかラジオなんてものもありませんから、川沿いで働く職人たちはこの約1.5km先から鳴る鐘の音を頼りにしていたんでございましょう。

実はこの材木置場に置かれておりましたのは単なる材木ではなく、畏れ多くも下野は日光御霊屋、徳川御霊廟に使われるありがた~い材木でした。その名も寛永の大造替(1634)、所謂お上の直轄事業というものです。

それだけではございません。
松平陸奥守が、職人たちの為にわざわざ新たな鐘の鋳造までお銘じになられたとのことで、鐘までありがた~いのです。

地図をご覧になって、墨田区の歴史にお詳しい方ならピンときたでしょう。そう、材木置場は、現在の江戸東京博物館国技館が建っている土地にありました。

画像3


あの鐘を 鳴らすのは どなた?

事業がひと段落すると、雇われていた職人たちは解散となります。
いくら鐘を撞いたところで職人たちもおりません…

時の鐘、すでにこの時点で町人たちにも時報として浸透していたと思われます。誰かが鐘を撞き続けなければ皆が困ってしまいます。

さあどうする。

ここに現れますは中村源兵衛という一人の町人です。本所の鐘撞役として個人の名前が記録されるのはこの御仁が初めてゆえ、これを持って本所の時の鐘の起源とする学者先生もいらっしゃるとか。

この源兵衛、御武家様に始まり寺社や町方など鐘の音が聞こえる範囲に住む人皆から鐘撞料を頂戴していたそうです。特に御武家様に関しては、その御家の石高に応じて頂く金額を変えていたそうで、まあなんともきっちりしたもんです。

その後、前述のように移転、鐘の破損により時報は中断されてしまいます。延宝三(1675)年頃のことだと言われております。

「弱っちまうなあ。誰かが鐘撞いてくんねえと、だらけちまっていけねえ。今何どきだかさっぱり分からねえじゃねえか。」

なんて町人たちの声が聞こえて来そうです。そりゃそうです。鐘の音が聞こえなきゃ、蕎麦屋で勘定を誤魔化したり(ダメ絶対)、亡くなってから三年目に亭主の枕元に現れる事ができません。

さあどうするどうする。

時は流れて元禄元(1688)年勘右衛門長右衛門という町人兄弟が鐘撞役の請負願を役所に提出します。めでたく受理され、翌元禄二(1689)年、大横川北辻橋付近に土地を拝領し鐘楼を新設、十数年の時を経て本所の時の鐘は復活します。
この兄弟、私財を投じて鐘楼の建設費に当てたんだから大したもんです。当然ながら、鐘撞料はきっちり頂きます。

享保十(1725)年の覚書に、鐘楼銭申請候場所の記述があります。当時、鐘の音が聞こえていたおおよその範囲を判断する、最適なデータと言えるでしょう。それがこちら。

西は両国橋川通り
北は牛嶋源兵衛橋川通り
東は天神裏川通り
南は深川御番所より深川河岸南向ふ六ツ目通りまで

地図上でその範囲を確認してみましょう。

画像4

両国橋亀戸天神については、ご説明するまでもないかと存じます。
牛嶋源兵衛橋とはおそらく現在の墨田区役所横の枕橋を指しており、深川御番所は、おとなり江東区の船番所跡が該当すると見て間違いないでしょう。
しかし、深川河岸南向ふ六ツ目通りというのはいったいどこを指しているのでしょう。どなたか歴史と地理を愛する同志の方、ご教示を賜れば恐悦至極に存じます。

鐘の音 向かうは上野か? 浅草か?

ここまで書いておいてなんですが、当の私が鐘の音を実際に知らないってのはどうもきまりが悪いもんです。

残念ながら本所の鐘は現存しておりません。しかし!!どうしても現役の鐘の音を聴いてみたい…!!

墨田区内でなんか面白い所、見つけといて下さ~い」という腰野さんの声が頭の中で反響するなか、すみだ今昔さんぽは第4回目にして早々に隅田川を対岸へ渡ります。

職場から気軽に会いに行ける時の鐘は、上野の寛永寺か浅草の浅草寺の二択。今も現役の時の鐘であります。素晴らしい。その鐘が撞かれる時刻は、浅草寺が毎朝6時の1度、に対して寛永寺は毎朝夕6時と正午の計3度撞かれるとの事であります。

朝6時か…朝は…お天道様を拝んだ後にヨガ、ランニング、ロングトーン、その日に新日本フィルで弾く曲の勉強などを夢の中で行うという大事なお勤めがありますゆえ勘弁して頂きとうございます…
という訳でやって参りました、お昼の上野恩賜公園

カメラを構えて待っておりますと、鐘撞役の方が現れます。捨て鐘を3回撞きます。「これから時報がなりますよ」という注意喚起の為です。

さあいよいよです!
長い撞木(しゅもく)を構えます。体ごと、一定の速度で数回揺らします。
そして次の瞬間、後ろに大きく振ると、

ゴ〜〜〜ン

実際に聴いた鐘の音は想像よりずっとまろやかで、耳と言うよりも体に直接入ってくるような、優しい音色でした。この「ゴ〜ン」をコントラバスの演奏にも生かしたい所存であります。

寛永寺浅草寺の時の鐘は、なんと松尾芭蕉の俳句の中にも登場します。正確にはどちらか一方なのですが、決めつけるのも野暮なもんです。

「花の雲 鐘は上野か 浅草か」

現在の江東区、芭蕉が深川に居を構えていた時の句です。貞亨四(1687)年の作品とされており、遠くから鳴る鐘の音や対岸の上野の山が色付いている様子が表現されています。

台東区で発せられた音が隅田川を越えて江東区まで聞こえていたとは、現代に生きる我々からすると「本当に聞こえたの?!」と疑ってしまいそうです。それもまた野暮なもんです。

地図上で確認してみましょう。緑色が寛永寺、青色が浅草寺を、赤い点が芭蕉庵を表しています。それぞれの起点から、芭蕉庵を含む大きさに円を設定しました。

画像5

地図上で見ると、改めて鐘の音が届いていた範囲の広さに驚かされます。しかし何か引っかかりませんか?そう、今回の主役である本所の時の鐘は、2つの寺院よりもっと近い場所に存在していたはずです。

画像6

それもそのはず、勘右衛門長右衛門兄弟が請負願を提出したのが元禄元(1688)年ですから、もし芭蕉の句が史実の通り貞亨四(1687)年の作であるならば、彼が耳にしたのは本所の時の鐘であるはずがありません。時報が中断されていたことが、奇しくも芭蕉の傑作を生み出すきっかけとなったのでしょうか。

いま、本所に響くのは

前述の通り本所横川時の鐘、残念ながら現存こそしておりませんが、こんな可愛らしいモニュメントが建っています。

画像7

この場所に架かっていた大横川北辻橋は鐘楼にちなんで、のちに撞木橋(しゅもくばし)となりました。屈んで覗いてみると、ちっちゃな鐘の向こうにスカイツリーが見えます。私が今立っているのは、江戸時代に大横川が流れていた場所で、現在は大横川親水公園として地域住民に活用されています。

モニュメントの隣には公園があります。マスクをつけて息苦しいだろうに、こども達が楽しそうに遊んでいる様子を見て、胸がいっぱいになりました。時の鐘はその役目を終えてしまいましたが、その代わりにこども達の元気な声がこの地には響き渡っておりました。

「さて、そろそろ帰るか。 おや? 何か音楽が聞こえる…」

時計を見ると夕方17時半です。「夕焼け小焼け」が聞こえます。しかしただの電子音源ではございません。なんとここ墨田区では、新日本フィルハーモニー交響楽団の素晴らしいメンバーによる演奏が流れるのです。これは…時の鐘?時のオケ?まあいいか。とりあえず羨ましいぞ!墨田区民!

現代に於いて街中で、静寂のなか鐘の音に耳を傾けることなど、不可能と言っても良いでしょう。私も、これを読んでいるあなたも、絶え間ない都市機能の恩恵にあずかっているのですから。でも、もし静寂に身を委ねたくなったら是非、コンサートホールにいらして下さい。演奏が終わった後のわずかな余韻、実はこれもホールの醍醐味のひとつなんです。

おまけ

画像8

鐘の音の波形です。あまりに美しかったので… あと、午の刻(正午)だから9回鳴ったのかと思ったけれど、よく見返してみると12進法だったんですね。

(記事内の地図は、地理院地図を用いて作成しました)

ライター紹介♪
原田遼太郎
(はらだりょうたろう/コントラバス奏者)
福岡県福岡市出身。12歳よりコントラバスを始める。東京藝術大学音楽学部器楽科及び同大学院音楽研究科を修了。大学院修了後さらなる研鑽を積むべく渡独、ヴュルツブルク音楽大学にて学ぶ。在学中、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の研修生としてドイツ各地で行われた公演及び録音に参加。これまでにソリストとして、ロベルト・HP・プラッツ指揮ヴュルツブルク音楽大学オーケストラ、井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル・金沢及び飯森範親指揮九州交響楽団と共演。これまでにコントラバスを吉浦勝喜、永島義男及び文屋充徳の各氏に師事。また、室内楽を小林道夫及びヴォルフガング・ニュスラインの両氏に師事。2021年より新日本フィルハーモニー交響楽団コントラバス奏者。

#楽員名鑑
#連載
#墨田区
#古地図
#ブラハラダ
#今昔さんぽ


最後までお読みいただきありがとうございます! 「スキ」または「シェア」で応援いただけるととても嬉しいです!  ※でもnote班にコーヒーを奢ってくれる方も大歓迎です!