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すみだ今昔さんぽ 第5回

今月も始まりました「すみだ今昔さんぽ」
8月も半ばに差し掛かり、うだるような暑さに少々バテ気味という方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。夕涼みのお供に、サッとお目通し頂ければ幸いです。

前回は、江戸時代に時報の役割を担っていた時の鐘を取り上げました。

同じ時報でも、鐘の音というのはなかなか良いもんですな。よくよく考えてみたら撞かれる回数が毎回違うわけで、その度に様々なドラマがあったんだろうと想像するのもまた一興であります。「鐘がXX回鳴り終わるまでに△△しないと◇◇が!!」なんてのは童話の世界だけではなくて、江戸の日常でも起こっていたのかもしれません。

さて、いつものすみだ今昔さんぽならば、ここらで地図に描かれているものをご紹介しているわけですが、今回は趣向をガラリと変えて「墨田区にまつわる夏の風物詩」を皆様と一緒に辿って参りたいと思います。決してネタが尽きた訳ではございませんのでご安心を。

Open the 〇〇 その1

早速ですが、夏と言えば?

・・・ふむふむ。なるほど。ほー、そうですか。皆々様それぞれにご自身の夏の楽しみ方というものがあるようで。
私なんかは普段コンサートホールにこもりっきりでございますんで、休みとなると自然に触れたくてうずうずしてしまいます。ちなみに、私は山派です。音楽家だから山派(やまは)ってわけじゃあないですよ。

自然で思い出しましたが、山でも海でも、果ては小学校のプールに至るまで、夏になると何でもかんでも開くんですな。開くということは、それまでは閉じられている。こりゃ当たり前だ。元来山や海というものは、人々に恵みをもたらしもすれば命を奪いもする、いつでも近くに存在するけれど迂闊に近寄ってはいけない、そんな神聖な場所でございます。

前述の通り山派の私は、この季節になると夏山開きのニュースを見ては嬉しくなります。やはり今も昔も富士山の存在には敵いませんが、相模の国、現在の神奈川県伊勢原市にある大山(おおやま、標高1,252m)も古くから山岳信仰の地として崇められ、重要な存在だったようです。

江戸時代には、落語でも有名な「大山詣」が大流行します。人々は「講」と呼ばれるグループを結成し、夏山開きの旧暦6月27日から7月17日までの限られた期間、大山を目指しました。

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「登」ではなく「詣」という字から分かるように、霊験あらたかな山に登る為にはそれ相応の準備が必要となります。その代表的なものが、参詣の様子を描いた絵で必ず見られる、納太刀(おさめだち)と呼ばれる巨大な木太刀です。大きいものだと3mほどもあったとか。これを担いで登山して奉納するんですから、並大抵の覚悟じゃありません。

そして準備が必要なのは何もモノだけではなく、中身、そう、精神の方も清らかでなくてはなりません。水垢離と呼ばれる、冷水で体を清める儀式を行います。滝の下や冬の海岸を想像される方が多いのでは無いでしょうか?実は、江戸の市民が向かった先はではございませんでした。

「大山詣の前の水垢離は隅田川で行うという習わしがあったのでございます。なんとも誇らしい話じゃありませんか。

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現地に赴きましたが、すぐ後ろは駐車場。視線を上にやると首都高の上を車が絶え間無く往来しておりました。まさかここで水垢離が行われていたとは誰も思わんでしょうな。何より、今の隅田川に裸で入っていくのはちょっと...ムリかも...ごめんなさい!早々に退散!

現在、シーズンを問わず気軽に登山が出来るのは、登山道を整備してくださる方々や、参道にお住いの方々が温かく迎えてくださるからであります。感謝の気持ちを忘れずに、夏山を思いっきり楽しみたいですな。ただし、「大山詣り」熊公みたいに暴れるのはダメですよ!

Open the 〇〇 その2

昨年は、様々な催し物が中止となりました。「今年こそは」と迎えた2021年ではございましたが、残念ながら現在でも厳しい状況が続いています。
ここ墨田区を代表する夏の風物詩と言えば皆さまご存知「隅田川花火大会」ですが、こちらも今年6月に大会の中止が発表されました。

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現在でこそ全国区となっております「隅田川花火大会」ですが、この名称となったのは昭和53(1978)年のことで、昭和36(1961)年から20年近くに渡る中断を経て、名前も新たに復活したという経緯があったのでございます。

では、昭和36年以前、中止されるまではなんと呼ばれていたのでしょう?ヒント。私、前項で申し上げました。夏は山も海もプールも、なんでも開くのですよと。昭和中期までは、両国川開きという名称だったのです。

両国川開き 旧暦5月28日から8月28日の間、両国広小路(火除け地)には夜店や屋台の出店が許された。また、川沿いの船宿や料亭も桟敷席を組んだり多くの納涼船の類が隅田川に漕ぎ出したりと、大変な賑わいであった。川開きはその初日を指し、江戸に夏の到来を告げる風物詩であった。

享保十八(1733)年5月28日、時の将軍徳川吉宗は前年の大飢饉と疫病による死者供養悪疫退散を祈念して花火を打ち上げたと言われており、これが伝統ある花火大会の起源だと言われております。

近年ではこのエピソードの真偽を疑問視する声も上がっております。私個人的には結構気に入ってるんですがね。もちろん悪意のある改ざんや捏造には断固反対、出来るだけ正確な情報をお伝えしたいと心がけちゃいるんですが、このエピソードばかりは、なんていうか人情味みたいなのが感じられてグッときちゃうんですな。

時は下って明治三十八(1905)年菊池貫一郎著の「江戸府内絵本風俗往来」に当時の夏の隅田川の様子が細かく書かれております。

五月二十八日は両国川開きとて、鍵屋の花火を打ち揚ぐ。(中略) 当日数日前より船宿の船は、皆売り切れとなる。その夜日暮れ前より、花火見物の大小船、川筋より漕ぎよせ、両国川を船もて埋め、さしき広き大川を船から船に足を運び向岸へ歩して行く程なり。(中略) 川の両岸の点燈星の如く、三味線・笛・太鼓の音、雷の如くなる中に、煙花一発するや、玉や鍵屋の声は、山の崩るるに同じ。花火終わりて、遊び船の残らず引き揚ぐると同時に、明烏の声を聞く (中略) 川開きは花火にあらずして、その繁昌にあるというべし。

「花火にあらず」というのは少々言葉が強いですが、この本が書かれた明治の世は海外から新しい薬品が次々と輸入され、毎年のように新しい色の花火が開発されておりました。著者には、『華やかな花火だけに注目するのではなく、隅田川沿いの人々の活気にも今一度思いを馳せて欲しい』という意図があったのかもしれません。

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疫病の脅威に打ち勝ち、平穏な生活が戻ってきたら、大切な人や気の合う仲間と共に花火を見たいもんですな。再び夜空に大輪の花が咲くことを夢見て、もうしばらくの間、一緒に頑張りましょう。

Open the 〇〇 その3

さて、山開き、川開きとお話を進めて参りましたが、最後に開くのは目に見えない扉。

夏になると巷では怪談話ホラー番組を目にする機会が増えますな。私、子どもの時分は、ホラー番組が放送される際は絶対にリアルタイムでは見ませんでした。録画されたものを恐る恐る再生し、いざ「来るっっ!」と判断するやいなやすかさず停止ボタンを押し、せっかくの「メインディッシュ」をわざわざ薄目を開けて震えながらスロー再生で見るという怖がりっぷりでございました。懐かしいもんです。え?なに?今でも怖がり?

先に参りましょう。ここ墨田区には、「本所七不思議」という由緒正しき(?)怪談・奇談が語り継がれているのでございます。夏には、異世界との見えない扉も開くのでございます...ギギギ...

本所七不思議

置いてけ堀(おいてけぼり)
送り提灯(おくりちょうちん)
送り拍子木(おくりひょうしぎ)
燈無蕎麦(あかりなしそば)
または 消えずの行灯(きえずのあんどん)
足洗邸(あしあらいやしき)
片葉の葦(かたはのあし)
落葉なき椎(おちばなきしい)
狸囃子(たぬきばやし)
または 馬鹿囃子(ばかばやし)
津軽の太鼓(つがるのたいこ)
その他多数

お気付きでしょうか...本所七不思議...お話が7つ以上あるので...語る人によって八不思議九不思議になるのです...何とまあ語感が悪い...キャー!!!

この中で特に有名なのは、やはり「置いてけ堀」でしょう。江戸時代の本所・深川地区、現在の墨田区及び江東区には昔から無数の掘割が通っており、碁盤の目状の街並みからもその事が伺い知ることが出来ます。

明治四十二(1910)年の地図に突如「オイテケ堀」という表記が現れ、現在ではそこが公式の「置いてけ堀跡」とされております。確かに、釣り堀のような四角い池が見えます。突如と申しますのは、明治初期(1880-86)年の地図には記載がないからであります。不思議な事に、大正時代に入ると「オイテケ堀」はまたどこかに消えてしまうのです...

田んぼだった場所に↓

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いきなり現れて↓

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そしてまた消えて行く...↓ ヒュードロドロドロ...(古い?)

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この場所は現在の江東区亀戸一丁目にあたり、史跡として紹介されております。

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台東区時の鐘、江東区芭蕉庵跡に続き、またしてもお隣の区に助けて頂きました。が、このままではすみだ今昔さんぽの名が廃ります!

調べてみると、なんと墨田区にも『ここが「置いてけ堀」だ!』と紹介されている場所が両国駅のすぐ近くにございました。それがこちら。

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果たして真相は如何に。もしや新たな本所「七」不思議?いやダメだ!また数が増えちまう!

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「堀」という字からは、それが水路を指しているのか、または釣り堀のような大きな池を指しているのかわかりませんな。史跡の場所を巡って墨田区江東区がバチバチやっている訳ではございませんので悪しからず。常に「OPEN」な心で参りましょう。

おまけ

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新日本フィルチェロ奏者飯島哲蔵くんと、大山山頂にて。シンニチ山岳部、次回大山に登る時は夏の隅田川水垢離でもやりますか!

画像提供:歌川貞房 「東海道五十三次細見図会 程ケ谷」及び歌川広重「東都両国夕凉之図」©︎国立国会図書館 
東京時層地図©︎一般財団法人日本地図センター 
記事内の地図は地理院地図を用いて作成、写真の掲載については墨田区及び江東区より許可を頂きました。心より御礼申し上げます。

ライター紹介♪
原田遼太郎
(はらだりょうたろう/コントラバス奏者)
福岡県福岡市出身。12歳よりコントラバスを始める。東京藝術大学音楽学部器楽科及び同大学院音楽研究科を修了。大学院修了後さらなる研鑽を積むべく渡独、ヴュルツブルク音楽大学にて学ぶ。在学中、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の研修生としてドイツ各地で行われた公演及び録音に参加。これまでにソリストとして、ロベルト・HP・プラッツ指揮ヴュルツブルク音楽大学オーケストラ、井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル・金沢及び飯森範親指揮九州交響楽団と共演。これまでにコントラバスを吉浦勝喜、永島義男及び文屋充徳の各氏に師事。また、室内楽を小林道夫及びヴォルフガング・ニュスラインの両氏に師事。2021年より新日本フィルハーモニー交響楽団コントラバス奏者。

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