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楽聖ベートーヴェンと文学の巨人ゲーテ

《たまに指揮者》の岡田友弘が新日本フィルの定期に絡めたり絡めなかったりしながら「広く浅い内容・読み応えだけを追求」をモットーにお送りする「岡田友弘《オトの楽園》」。初回はコロナ禍のオーケストラにとっては演奏機会が増しているベートーヴェンについて取り上げます。

ドイツ音楽の巨匠で「楽聖」と呼ばれるルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンと ドイツ文学の巨人ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテ。

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神の悪戯か粋な計らいかはわからないが、その巨人たちがほぼ同時期に生きていたことをご存知だろうか。それどころか二人は1812年に現在のチェコ共和国の温泉保養地で実際に会って交流をしていたのである。偶然同じ土地に滞在していた二人、散歩中のベートーヴェンをゲーテが呼び止めて挨拶を交わしたのが交流の発端だったそうである。いきなり街で話しかけられたのが、尊敬してやまない超有名人のゲーテだったベートーヴェンの心中はどのようなものだっただろう。

ものすごく憧れている対象に実際会って話をしてみると、自分が思っているような素晴らしい人物ではなかった・・・そのようなことは現代の我々でも多く体験する。この歴史上の天才たちもまた、お互いの才能は認めつつも共感を持って分かり合えたというわけではなかったようである。光が強ければ影も強くなる。また大きなエネルギー同士がぶつかればそこには大きな摩擦力が生じるのもまた、自然の摂理だったのかもしれない。

1812年といえばフランスの皇帝ナポレオンによるロシア遠征の大失敗の年。かつてベートーヴェンはそのナポレオンを讃える交響曲を作曲した。《交響曲第3番》である。

そのシンフォニーは当初「ボナパルト」(ナポレオンの名前)と名付けられたが、のちにベートーヴェンはそのタイトルを破棄し《英雄》と改名した。自筆譜には「ボナパルト」というタイトルをペンで荒々しく消した跡が残されている。ベートーヴェンの怒りの発端は、将軍としてフランス絶対王権の圧政からフランス市民を解放するために戦ったナポレオンが、のちに自ら「皇帝」に即位したことであった。王侯貴族などの特権階級の支配する時代から市民中心の新しい時代への転換に期待を抱いていたベートーヴェンは、当初はナポレオンの登場と活躍に熱狂していた。しかし、自らの英雄であったナポレオンも結局は旧態依然とした支配者になりたかったのか!と怒りと失望を抱いたのである。

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その後ベートーヴェンはフランス軍に対抗する者たちを讃える楽曲を作曲した。最も有名なのは《戦争交響曲「ウェリントンの勝利」》だ。この作品は1813年のイギリスのウェリントン侯爵指揮するイギリス軍の勝利を音楽にしたもので「ルール・ブリタニア」や英国国歌「神よ、我らの王(女王)を守りたまえ」などの音楽が引用されている。実際の大砲や銃器なども使用する画期的な作品である。

ウイーンでの初演は大成功だったらしい。ちなみに、この演奏会では代表作の一つ《交響曲第7番》も初演されている。

それから約90年後、ロシアの作曲家チャイコフスキーは1812年のロシアとナポレオン軍の戦いをオーケストラ作品にした。有名な荘厳序曲《1812年》だ。ベートーヴェン同様両国の音楽を使用し、戦いの場面を描写して、最後は勝利した国(ロシア帝国)の国歌を高らかに歌い上げて大団円!という、ベートーヴェンが《ウェリントン》で企図したものと同じ構成の楽曲である。

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話題をゲーテに戻そう。

ベートーヴェンが熱狂し、その後強い憎悪の対象となったナポレオンに、ゲーテは実際に会ったことがある。1808年にナポレオンの号令によってヨーロッパの諸侯がドイツのエアフルトに集められた際、ゲーテは主君のアウグスト公とともに当地を訪れた。そこでナポレオンと歴史的対面を果たすのだが、その際に「若きウェルテルの悩み」の愛読者であったナポレオンは「ここに人あり!」と叫んだと言われている。ゲーテの人気作家ぶりとその認知度を窺い知ることができるエピソードだ。

現代の我々にとってゲーテは文学者のイメージが最も色濃いと思うが、彼はさまざまな「顔」を持っていた。

詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、法律家・・・。そのジャンルは多岐にわたる。親の希望もあり大学では法律を学ぶ。しかしゲーテが興味を示しのめり込んだのは文学や自然科学だった。何とか大学を出たものの親が目論んだ国家公務員にはなれず弁護士として開業した。もともと法学にも弁護士の仕事にも興味があまりなかったため、結局は文学にのめり込んでいく。そんな息子を心配した父は法学の研修のために当時最高裁判所があった小さな街にゲーテを送り出す。そこで法学者として頑張ってくれよという親の願いに反し、ますます文学にのめり込んでいったのである。今も昔も「親の心子知らず」である。

何だかんだと文学の世界で生きているうちに、自作「若きウェルテルの悩み」が大ヒット。一躍人気作家としてヨーロッパで名を馳せるようになる。

当時文学を嗜む層は「上流階級」や「裕福な市民」であった。そのようなハイソサエティな人たちの中で有名作家として名を馳せていたゲーテに、ドイツにある小国を治めている領主から自国へ招かれる。

その小国の名は、ヴァイマール。彼の地の領主アウグストに招かれたのだ。

そこでゲーテはヴァイマール公国の閣僚となった。最終的にその地位は「宰相」つまり今でいう総理大臣となり、神聖ローマ帝国皇帝の名の下に貴族に列せられたのである。結果的に法学よりも文学の道を選択したことで皮肉にも、父親たっての願いであった国家公務員、しかも特別職の「大臣」になったのである。閣僚として政務に励む傍ら、自然科学の分野にも強い関心を持つ。そんなゲーテが彼と並び立つドイツ文学の巨人シラーと再会し親交を深めるきっかけとなったのも植物学会の会場であったそうだ。ゲーテは植物のほか、鉱物や解剖学、光学などを研究していた。最も初期の研究の対象は「動物の骨」であったようだ。

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シラーは《ウィリアム・テル》などの作品で知られ、ベートーヴェンの《第九》の歌詞に彼の詩が使用されていることでも有名だ。シラーは年上のゲーテに「自然科学もいいけど、あなたは文学が一番よく似合う!」と諭したかどうかは定かではないが、シラーの苦言もあり再びゲーテは文学に注力する。その結果誕生するのがゲーテの代表作《ファウスト》である。

ゲーテは82歳という当時相当長寿であったその生涯を閉じるまで、旺盛な執筆と飽くなき探究心は衰えることがなかった。晩年は光学の研究に特に力を注いだゲーテの最後の言葉は「もっと光を!」であったことはよく知られている。詩的で哲学的なイメージのあるこのゲーテの言葉であるが、実際には「部屋の中が暗いから、明るくしてくれない?」という程度の意味だったという説もある。

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ゲーテの長寿の秘訣と言われている習慣の一つに「立ち机」での執筆、というものがある。かつて彼が住んでいた家には愛用の立ち机があり、ゲーテはそれを使用して書き物をしていたそうである。立ちながら書くことで足腰の衰えを最小限に抑えて健康を維持するという効果があったのかもしれない。同時に下半身の血行も良くなっていたのだろうか。また、立って仕事をしているとある程度の時間が経つと「疲れ」を感じる。その疲れを感じることで適切な休憩も取ることができたのかもしれない。椅子に座って執筆や読書をしていると、時を忘れて没頭する時もある。そのような行為は無意識に疲労を溜めてしまうだろう。ゲーテは立って執筆することで、作業の効率化や合理化も同時に実現していたのかもしれない。

指揮者の朝比奈隆先生は生前、「座って指揮するようならば引退だ!」と話されていたそうで、先生がアメリカのシカゴ交響楽団を指揮した際のドキュメンタリー番組の中で、ステージマネージャーに「椅子は使いますか?」と聞かれ、「いらない!立つことは自分の仕事である!」とおっしゃっていたのを見たことがある。やはり長寿の秘訣は「立ち仕事」なのかもしれない。

ゲーテの数多い作品の一つ《エグモント》は、オランダ独立の発端ともなったエグモント伯の活躍とその悲劇を描いた戯曲である。王の圧政に対して力強く叛旗を翻したことにより、死刑に処せられた男の自己犠牲と、とりわけその英雄的な高揚はベートーヴェンの心情と共鳴した。ナポレオンに対するベートーヴェンの当初の熱狂からうかがえるように、ベート―ヴェンはそのような「英雄ばなし」が大好きだったのかもしれない。それが劇音楽《エグモント》として昇華したのである。この戯曲の付随音楽を依頼したウイーンの劇場では《エグモント》と共に、シラーの戯曲《ウィリアム・テル》にも音楽をつける目論みを持っていて、シラーの方は別の作曲家に作曲を依頼したのだが、実はベートーヴェンは《ウィリアム・テル》の方に音楽をつけたかったとも言われている。どちらにせよ、ベートーヴェンがゲーテの戯曲のために作曲した作品は今でも我々の目と耳に触れ続ける名作となっている。

《エグモント》の音楽の中で特に有名で、頻繁に演奏されるのが《序曲》である。

10分もかからない中に、劇中の全ての要素や物語を凝縮している。エグモントを待つ悲劇への予感、闘争、処刑、そして精神的な勝利・・・。それが玉手箱のように詰まっている《序曲》を聴いただけでも物語への期待や高揚を持たずにはいられなくなるような作品だ。

そのため、指揮者はこの曲を避けては通れない。プロアマ問わず多くのオーケストラで頻繁に演奏されるからだ。しかも、この曲は指揮法のレッスンや試験、オーディションやコンクールでは「お馴染みの曲」なのである。僕も《エグモント》を振る時には、青春時代に味わった緊張感に押しつぶされ、涙した体験を今でも苦々しく思い出し、胃が痛くなる。

曲は劇的な内容で、変化に富んでいるため、異なった雰囲気やリズム、拍子の音楽が次から次へと我々の眼前に広がる。「変化に富んでいる」ということはさまざまなテンポや拍子の部分があるということで、それは短時間で技術や能力を見るのにはもってこいの題材なのである。フェルマータ(音を長く伸ばし保つこと)や3拍子を1つで振る指揮をする部分など、指揮法的にも特に難しいとされる箇所が連続する。

普段クラシック音楽をあまり聴かない人に「指揮者なんて、ただ前で手を振り回してるだけでしょ?」と良く言われるが、この曲はそんな誤魔化しが効かない曲なのである。

曲の後半、エグモントが処刑されるような描写の部分がある。そこからしばしの静寂・・・木管楽器が小さな音で徐々に重なっていき和音を演奏する。そしてテンポが加速して力強く強奏される最終部分に突入するが、それはあたかも雲の切れ間から徐々に太陽の光が刺してきて、明るさが広がっていく様をみるようで、曲中で僕の最も好きな部分である。

この部分を聴いたり、指揮したりするとき、僕はゲーテの最後の言葉である’’Mehr Lechit!(もっと光を!)“と心の中で呟くのである。

決して「部屋が暗いから、照明を明るく!」という意味ではなく・・・。

(文・岡田友弘(指揮者))


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岡田友弘
1974年秋田県由利本荘市出身。秋田県立本荘高等学校卒業後、中央大学文学部文学科ドイツ文学専攻卒業。その後色々あって桐朋学園大学において指揮を学び、渡欧。キジアーナ音楽院(イタリア)を研鑽の拠点とし、ヨーロッパ各地で研鑚を積む。これまでに、セントラル愛知交響楽団などをはじめ、各地の主要オーケストラと共演するほか、小学生からシルバー団体まで幅広く、全国各地のアマテュア・オーケストラや吹奏楽団の指導にも尽力。また、児童のための音楽イヴェントにも積極的に関わった。指揮者としてのレパートリーは古典から現代音楽まで多岐にわたり、ドイツ・オーストリア系の作曲家の管弦楽作品を主軸とし、ロシア音楽、北欧音楽の演奏にも定評がある。また近年では、イギリス音楽やフランス音楽、エストニア音楽などにもフォーカスを当て、研究を深めている。また、各ジャンルのソリストとの共演においても、その温かくユーモア溢れる人柄と音楽性によって多くの信頼を集めている。演奏会での軽妙なトークは特に中高年のファン層に人気があり、それを目的で演奏会に足を運ぶファンもいるとのこと。最近はクラシック音楽や指揮に関する執筆も行っている。日本リヒャルト・シュトラウス協会会員。英国レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ・ソサエティ会員。マルコム・アーノルドソサエティ会員。

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