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Sonny boy 感想

・Sonny boy 感想

1話目のラスト、真っ黒な世界からバッと広がった青空を見たときにとても心を奪われた。SonnyBoyの何よりも強い印象で、そこまでの緊迫感からの解放もあわせてとても好きなシーンだった。その後も毎週楽しみに見続けており、とうとう最終回を迎えてしまった。
中盤くらいから何かしらの感想を文章にまとめようと考えていた。その時は「居場所」ということをテーマをいろいろと考えていた。しかしながら最終回まで見終えるとテーマの印象が「居場所」ということから「可能性」「自己決断」に変わり、最後には「虚構と現実」というものに変わってきた。思い返せば第2話では「資本主義」がテーマでもあり、他にも「後悔」「生と死」など各話ごとに大き目なテーマが散りばめられており、その中で主人公、長良の成長譚が一貫してあった。
映像として抽象的でありながら、印象を重視した印象派であり、世界観は他の作品と比べられないほど独特であった。イメージボードの作成は困難したのではなかろうか。BGMに関しても各話ごとに印象的に使用されておりこの独特な世界観をより引き立てている。
抽象的な設定も多く、正直全てが全て理解できるわけではない。さらに言えば一つの捉え方をするようなものではなく、個々人が自分なりの解釈で感じたものを捉えていけばいいのだろう。この作品は恐らく人によって印象に残る話が別れてくるのだろう。個人的には8話の笑い犬がとても好きな話であった。
最終回を見た直後の率直な感想は、「そんなに辛くしないでよ…」という物だった。虚構と現実の対比で、漂流した世界で救世主のように扱われた長良は、女子たちとも仲良くなったりしていたりチヤホヤされたりしたが、現実では希とも仲良くなれないが、それでも自分の選んだ世界を、前向きに生きていく、という風に感じられた。シンエヴァなども似たようなテーマだったがSonnyBoyではとても悲しくなってしまった。
そもそも漂流した最初から希という美少女が、長良というクラスでも日陰者の男子に興味を持っているのかが不思議に思っていた。ふとよぎったのは漂流した世界は長良が作り出した虚構であり、長良が希と仲良くなった関係性も作り出した都合のいい虚構でしかなく、現実では仲良くなれないのではないか?そう思うととても悲しくなった。2人が付き合ってほしいとは言わないんですよ、朝風と付き合ってていいんですよ、長良と話をするくらいよくないですか?と考えてしまった。人と人が仲良くなるということは虚構でしかありえないほど難しいことなのだろうか?Why can’t we be friendsなんですよ。
長良は中学生3年生である。この思春期の人間は「無限の」可能性があると言われている。しかし実際は「無制限の」可能性であると考えている。この前、「アメリカン・ユートピア」を見たときの言葉で若者は可能性を潰して大人になっていく?うる覚えだがこんな感じの言葉があった。長良も希と仲良くなれる可能性を潰したことにより、大人になっていったのだろうか。
と、一度目を見たときはなかなか悲しい思いをしたのですが、配信で2回目を見たときには印象が変わっていた。一話目では希に引っ張られて動いていた長良だったが、最終話では長良が瑞穂を引っ張っていく。(あの2人並んで走っているシーンも素晴らしかったです。)誰かを引っ張っていけるくらい成長した長良にとってはもう希がいなくても大丈夫なのかなとも考えられた。希自身も長良がいなくても笑って生きていけるのだろう。死んでしまった可能性の無いつらい思いをしない世界よりも、つらい失敗する場合もある可能性のある生きている世界を選んだのだろう。(そして失敗して仲良くなれなかった)キザないいかたをすれば、希が笑っているのであればそれ以上はいいと長良は思ったのかなと感じた。足るを知る状態になったのかもなぁと。
自分で選べるようになり、その結果失敗したとしてもそれはいいものなのだろう。漂流した世界でいい結果にならなかったが自分の意志を貫いた希のように。
自分の意志で選択することは、成功失敗に関わらず重要なことである。作中では朝風があき先生のいうことにそそのかれて自分の意志で選ぶことをしなかった。(最終話で全て失い、最後に長良を助けるという選択が出来た。ぐぐぐっと何かしていたけど、これで長良に瑞穂の手を握らせたとしたなら朝風は本当にグッジョブと言わざるを得ない)
これだけ毎週楽しみに、ワクワクしたアニメというかドラマなどを含めてテレビ番組は久しぶりだったので本当になにかと窮屈なコロナ禍の中のささやかな癒しだった。アニメオリジナル作品でありながらSonny Boyのような攻めたものは本当に制作が難しいと感じるが本当に素敵な作品でした。こういったいろいろ考えさせられる作品が増えるといいですね。
あと瑞穂のようなズボラなキャラが大好きだったのでまたやってほしい。声優は悠木碧さんでしたが、可愛すぎない気だるい声がとても好きだったのであのトーンのアニメが増えてくれると見やすくていいなぁ。あと猫可愛い。特にさくら。キャラに関しても明星やエース、上海などどのクラスメイトでもいろいろ掘れそうなキャラ多かったので2クールアニメだったらもっと掘れてよかっただろうなぁと。短編のオムニバス小説みたいなのがあると読んでみたい。江口寿史さんのキャラデザも、エンディングに流れる銀杏ボーイズの「少年少女」も、本当によかった。青春の輝かしくもありながら、無謀ととれる残酷な可能性の結末としては、あのようなビターな結末がちょうどよかったのかも。あとキャラの名前って鉄道というか新幹線からとったの多いんですね、てっきり長良は英語でLong Good (bye)で誰かとのお別れをもじっていたんだと推察していました。
絵的なことは貧弱なボキャブラリーでは素晴らしかった以外で書き表しにくいですが、瞳のクロースショットが印象的にインサートされているのがとても良かったです。
SonnyBoyは本当に様々な見方が出来る、抽象的なでありながらも、本筋しては次は何が起こるかわからないただひたすらにワクワクする本当に素晴らしい作品でした。
自分で選択するということは、結果に関わらず本当に大事なことだと思います。「アメリカンユートピア」よろしく、ちゃんと投票に行こう!ということで締めさせていただきます。

・感想文を書きながらコロナ禍におけるフィクションに関して考えたこと

正直、Sonny Boyの最終回を飲み込むのに最初は辛かった。もう少し希望の持てる終わり方でもよかったのではと思った。現在、コロナ禍が長引き自分自身は影響の少ないほうだが、それでもストレスを多少なりとも感じているのがあるだろう。SonnyBoyに対して一番シンパシーを抱く中高生に関しては直接的に大きく失われたものがあるだろう。漂流したキャラクターなどと重ねると漂流世界に逃げ込むのではなくて、辛い現実を選択して前向きに生きようと受け取られる内容ではあるので、コロナ禍という大きな辛い現実に遭遇している状態であらためて言わなくてもいいのではないかと考えもした。企画自体コロナ禍以前より進んでいたであろうと推測されるから致し方ないのかもしれないが、コロナ禍の大きい辛い現実ではフィクションに逃げ込んでいいともっと前向きに伝えたほうがいいのではと考えた。
虚構に逃げるのは良くない現実と向きあおう、という作品は様々あるであろう。しかしながら本当にそうなのだろうか?辛すぎる現実を前に虚構に逃げ込むことはそんなに悪いことなのか。
このコロナ禍で映画館にあまり行かなくなってしまった。ほかにも音楽ライブや舞台など、いわゆる芸能に関わるものが制限されてなかなか辛い思いをした人が多いだろう。感動とは決して空腹を満たすものではないがよりよく生きるために必要なものであろう。感動とはスポーツや音楽など現実のものもあるが、映画やドラマ、アニメなどの虚構からも得られる物だろう。感動を奪われた状態が続く辛さとは多くの人々が体感している。その中で虚構に逃げ込むの良くないというとはなにか違うように感じる。
旧世代的な考え方ではアニメやゲームなどの虚構にひきこもって逃げ込むの良くないといった論調がある。これらは虚構に逃げ込むという行動と同時に、孤独になってしまうことを避けてほしいというものもあるのだろう。SonnyBoyでは虚構である漂流した世界では他の人たちとつながりが多かったのに、現実に戻ると孤独になってしまっていたので、結果的に現実を選択するということは孤独を好み、人との繋がりを減らしたことを選んだことになってしまったことに違和感があった。
長良としてもなにかバイト先での新しい出会いとかあるだろうけどもっと示唆されていてもよかったのではと考えてしまう。(妙に強調されていたバイト先の女の人がいたけどそういう示唆だったのかなぁ?)また、虚構に逃げるとは狭い自分だけの世界に閉じこもってしまうという意味も含まれており、現実の世界で他人と繋がり世界を広げていったほうがいいというものだろうが、漂流した世界ではひとりの人間で構成できるわけがない、なおかつ素晴らしく色彩豊かな世界が広がっていたため、作中の現実のほうが狭い世界になってしまっていたのも、現実から目をそむけないというのが弱くなってしまっていた。
辛い現実から目をそむけるなということを否定したいわけではない。しかしながら辛い現実を乗り越えるためにはそれなりの(教育よりも広義の)鍛錬が必要であろう。長良にとっての漂流生活はまさしく鍛錬で、教養小説のようなものとして捉えていた。鍛錬をしたことで、辛い現実を乗り越えることで一体なにが得られたのだろうか?長良は確実に成長し、独り立ちしたのではあるが、最終回の長良には何かを得られたように見られなかった。希と別れても前向きに生きているであろう長良を理解できなくなってしまったのだろう。
恐らく虚構を現実のように描き、それをそのまま現実にもあると錯覚させてしまう、「アオハル」的なものやインスタ映え的なことにたいしてのアンチテーゼでもあったのだろう。青春って実際は暗いじゃんといいたいことは理解出来るのではあるので難しい所でもある。
最終話を見終わってでいろいろ考えていたとき、ふと「もののけ姫」のラストを思い出していた。なんかいろいろあったけど共に生きようと言ってくれてたらなぁ、と考えていた。決して2人で手をつないでいなくても、それでもグッドエンドになっていたらと。ジブリ作品って、テーマ的にも重いもの扱っててもどの作品最後はハッピーエンドと言えなくても希望のある終わり方だなぁとふと思い、ジブリと宮崎駿の凄さを改めて考えていた。
このコロナ禍で辛い現実を見つめようということより、ジブリの「風立ちぬ」にのような辛い現実でもただ一所懸命に今できることをやるという姿勢を示すほうがいいのではないかと感じるようになった。というよりも宮崎駿がこの姿勢を示すことに関しての意義をコロナ禍になってようやく理解した。
虚構に逃げ込むの良くないという話はあるが、ある種の大御所たちは現実のクソさに辟易して現実というよりもよもや歴史的事実を虚構で塗り替えようという荒技をしてきている。堀越二郎を堀辰雄と混ぜてしまった「風立ちぬ」や、シャロンテートという実在した人物の事件を塗り替える「ワンスアポンアタイムインハリウッド」。才能豊かで人生の大先輩でもある人たちが気に食わない現実を虚構で塗り替えようとしている姿をみて、もう少し虚構というものを受け入れていいのではないだろうか。やっぱり現実ってなかなかうまくいかないし。

これだけつらつらと書くと、Sonny Boyの最終話がそうとう気に入らなかったと感じてしまうだろうが、2回目見たときに「希が笑っているんだからそれでいいか」と全て流してサラッと思えてしまったのが事実。あれやこれや考えたりと毎週楽しかった、本当に素晴らしいアニメでした。

・10/04追記

最終回からサニボロスを含めてもやもやしたものが残っていたけど少年少女のPVを改めて見たら泣きそうになってた。やっぱりいいアニメだ。


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