【自己紹介⑤】人生における柱となった教えを受けた授業と、ビル先生。
▼ 前回の自己紹介 ▼
LAからバークリーに戻る
LAでの1年を経てバークリーに戻りました。
【Berkleeの校舎】
バークリーに戻ってみると、バークリーの理論の授業が自分の中で以前にも増して楽しくなっていることに気づきました。
LAのMusicians Institute は主にプレイの学校だったので、理論に飢えていたのかもしれません。また「作曲家になる」と決めたからには、作曲の為に必要な理論は絶対習得したい!という思いが強くなったからだと思います。
嫌々受けていた授業ではなかったはずなのに、以前の自分には本当に学びたいという気持ちが少なかったんだと気づきました。
やはり具体的な目的や必要性を持たないと、本気の「やりたい!」にはならないという事ですね。
またバークリーに戻ってみて改めてわかった事としては、バークリーには幅広い年齢の生徒がいるという事でした。
LAのMusicians Instituteの生徒は、若い人がほとんどでしたが、バークリーでは自分の親のような年齢の人も珍しくはありませんでした。
聞けば、何十年もかけて授業を受けてる人も。
学費を貯める為に仕事し、学費が貯まったら復学して授業を受ける...ある意味ライフワークのように取り組んでいる人もいました。年齢や肩書きに捉われず、自分の信じる事に没頭する人の姿を見て、私も負けないように頑張ろうと強く思いました。
【Berkleeの校舎】
一方、LAに行くまでは感じていなかった疑問も持つようになりました。
一流のプロミュージシャンを養成するバークリー音楽大学に入学した当時、今まで知りえなかった素晴らしい理論や技術を教えて貰えて、凄く自分が成長したように思えたものでした。
でも、大学内を見渡せば、「自分の方が難しいことができる」「凄い技術を使っている」...などまるでライバルや同業者のために音楽をやっている人が多いことに気づき、これは誰のための理論なのか、技術なのか?と疑問を感じるようになったのです。
私自身は普通の人が喜んだり感動してくれる様な音楽を作りたい、と思ってバークリーに入ったのですが、バークリーで教えて貰う内容が、余りにも面白かったので、つい「勉強に励みすぎた」ところもありました。
余りにも専門的な価値観になってしまうと物事を俯瞰で見れないようになってしまう危険性もあるのではないかと、これやはりLAに行って音楽の楽しさを再確認できたから気づけたことだと思います。
「普通の感覚を忘れない」….これは今も大事にしている価値観、私の1番の才能だと思っています。
レコーディングの現場で役立った教え
そんな中、帰国後プロとしてのレコーディング現場で本当に役立った素晴らしい授業がありました。
クラス名は忘れてしまいましたが、レコーディング現場で必要なノウハウを教えてくれる授業だったと思います。
「私は無用なプレイバックを好まない」が口癖の先生の授業です。
どういうことかと言うと、例えばボーカリストの歌を録音しているとします。
1曲歌うとテープレコーダーを止めて、それをプレイバック(再生)して、うまく歌えたかどうかを確認する…というのが通常よく行われるレコーディングのプロセスなのですが、その先生の教えは「確認のためのプレイバックはいらない!するな!」なのです。
要するに、今歌っている人と同じかそれ以上の集中力を持って録音には臨めば、わざわざテープレコーダーを止めて聞き直す必要ない、ということです。
帰国後スタジオで、他の人のレコーディング現場を見学する機会があったのですが、ボーカリストが歌って録音している間、モニタールームではプロデューサー達は雑談、という光景を見た時に、これでは素晴らしい音楽が生まれるはずがない、と残念な気持ちになりました。
バークリーの先生の教えを守って不必要なプレイバックをしない私の現場は、レコーディング時間が短くスタジオ料金も安くなり、何よりもボーカリストの集中力を途切らせない...など現場では喜ばれました。
あの先生のおかげと感謝しています。
ギターの先生、ビル。
ボストン時代の思い出として、ギターのBill Bresnahan先生の家に住ませてもらった日々は外すことは出来ません。
Bill先生の家は、ボストンから車で1時間半ほどにあるPEABODYという町で、昔魔女狩りがあった町として有名なセイラムの隣になる町で、
東洋人はチャイニーズレストランを経営していた中国人と私、二人しかいませんでした。
【Peabody】
「あそこの家に日本人の子が住んでいる」…などとご近所で噂話になるような、まるで映画に出てくるような白人だらけの町でした。
Bill先生からはギターはもちろん、それの以外のことも沢山教えて貰いました。
その中のひとつのエピソードですが...
ある日、学校から帰ってきた私に先生は「今日は学校どうだった?」と聞かれました。
私は「楽しかったよ、でも….」と答え始めると、
先生は「お前の”BUT”(でも)がきらいだ。『楽しかった』と言うから私はハッピーな気持ちになったのに、おまえの”BUT”でがっかりだ。
だったら最初から”NO”と言え」と。
日本人的には、話の順序なんだから別にいいじゃない….となると思いますが、アメリカ人的には、結局ハッピーじゃなかったんだから、最初から「NOと言いなさい」なのだと思います。
日本人はよく何を考えているのかわかりにくい、回りくどい、優柔不断だと言われますが、こう言うことなのだと実感できました。
「郷に入れば郷に従え」…この国に住んでいるからには、まずはアメリカ人の心になってみよう、と思うようになりました。
【Bill先生と娘さん、ドーベルマンのサマンサ】
【Bill先生の娘さんとドーベルマンのサマンサと】
このことだけではありませんが、Bill先生からの教えは私の人生の柱の一つになりました。
国籍がどこであれ、住んでいるところがどこであれ、自分の考えを出来るだけ明確に相手に伝えることが大事だと思っています。
帰国後、台湾で仕事することもありましたが、その時も「あなたは本当に日本人ですか?考え方が日本人ぽくないんですが…」
と言われたこともあり、良くも悪くもBill先生との生活の中で培われたものが影響しているのだと思います。
あまりに多くのエピソードがあるので、別の機会にPEABODYのこと、Bill先生とのことは書かせて頂きたいと思います。
バークリーを卒業
そしていよいよ卒業。
よくアメリカの大学は入るより出るのが難しい、と言われますが、まさしくその通り。
他のアメリカの大学もそうかもしれませんが、バークリーの授業のスピードは物凄く早く1回の欠席だけでも付いていけず単位を落としかねなかったので、授業を欠席したことはなかったと思います。
「君がバークリーに行っても仕方ないんじゃない」とまで、東京の専門学校の先生に言われたところから
我ながら、よく卒業までこぎ着けたものだと、また卒業まで行かせてくれた家族に感謝です。
卒業式は、アカデミックドレスというらしいですが、映画やドラマでよく見る四角い帽子に長いガウンを着ての参加です。
当たり前のことですが、「あぁアメリカだ」と感激しました。
バークリーの卒業式には、毎年著名なアーティストやミュージシャンが卒業生に卒業証書をひとりづつ授与してくれますが
私の時は、Dave Grusin(デイヴ・グルーシン)でした。
彼の音楽は大好きでレコードやCDもいっぱい持っていましたが、グラミー賞やアカデミー賞も受賞したそんな素晴らしいミュージシャンから卒業証書を授与してもらえたので更に感激しました。
【Dave Grusinから卒業証書授与】
そして日本から両親が来てくれました。
「やりたいことをやれ!」と送りだしてくれた両親からしたら、自分たちの決断が間違ってなかった、と思って貰えた瞬間だったかもしれません。卒業というひとつのケジメ、少しは親孝行ができたのかと、今は亡き両親と撮った卒業式の写真を見て思います。
本当に感謝の言葉しかありません。
【両親と】
【ベーシストの納浩一さんと】
バークリーを卒業し、いよいよ帰国します。
また、少しづつ書いていきます。
ボストンの懐かしい写真を最後に。
【チャールズリバーからプルデンシャルセンターを臨む】
【私の会社名の元になった Newbury Street(ニューベリーストリート)】
【ダウンタウン】
【ジョン・ハンコックタワー】
小泉 誠司
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