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こんにちは。スタッフの松下です。

最近、『場の力』というものが確かに存在しているなと感じます。
目には見えません。いや、見えているのかもしれない。ただそれは小さな事柄の集合体として存在している、と感じるのです。端的に言うと、ほっとする場とついつい身体が固くなってしまう場とあるように思うのです。

通勤するために利用する線は無意識に肩に力が入り、重心は上がり、首は固まってしまいます。それは人との距離感によるものだと思っていたのですが、先日普段利用しない線に乗った時、妙にリラックスしている自分がいました。

それぞれの線の違いは何かと考えると、乗っている人々の様子であることがすぐにわかりました。よく使う線は公共の場であるにも関わらず、みな、声も身体もうるさいのです。ハリネズミのように針を逆立て、余裕のなさがうかがえます。かたや、もう一つの線は、ただ、乗っているのです。自分の身体の範囲内で過ごしている。

ノスタルジックな雰囲気も自分には合っていたのかもしれません。少し古い電車で、地上と同じ高さを走り、車内では疲れている現役世代がうとうとし、じっと座ってる老人がおり、黙々と携帯をいじる若者がいて、子供をあやす母がいて。
とても静かな時間が流れていました。
電車がこんなにもリラックスして乗れるのかと…

そしてそれは町にも影響しているようで、降り立った町は老人と主婦がもくもくと生活をし、地に足がついている感じがして、とても居心地が良かったです。僕の住んでいる町は、自分しかそこにいないかのような、自分の身体を1.5倍にして生きているような、そんなうるささがあります。
個人的なやっかみなのかもしれませんが…
ただ、電車にしろ、町にしろ、それらは集まった人によって形成され、特有の力を発するのだと改めて実感しました。池袋、新宿、渋谷、銀座とそれぞれに、らしさがあるように。

そんな『場の力』ですが、それは舞台上にも存在します。照明で照らして、音楽を流して、俳優が大きな声で話しているだけです。でも、その音響、照明、俳優の熱量を通して出来上がった場の力に対して、不用意に立っていたら簡単に弾き出されてしまう。相応の身体で存在していないと、見ている側からは不自然に映るし、白けてしまいます。また、俳優の身体も正直なもので、本番には本番の力(観客)が存在し、舞台に上がると、身体が勝手に、腹の力の入り具合を増したりするんです。

俳優 身体

そんなことを感じつつ、住んでる町にも利用している電車にも、はっきりと飽きていることを知った最近でした。

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