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おまえは『ぼっち・ざ・ろっく!』を見て猫背のまま虎になれ

よくきたな。おれはNeverAwakeManだ。おれはいつもすごい時間ゲームをしたり映画を観たりしているが、特に自慢にはならない。すべてを焼き尽くす夏が去り、憂いの秋がやってきた。季節は巡り、アニメも変わる。2022年秋アニメのリストを一通り確認したおれは、あるタイトルに目をつけた。『ぼっち・ざ・ろっく!』・・・略して"ぼざろ"だ。次に目に入ったのは、『4人でも、ひとり。』という、孤独と結束の両方を暗示するキャッチコピー。おれはこの時点でただならないMEXICOの気配を感じ取っていた。

そうしておれは第1話を見終わった・・・それから、自らの手が無意識に動いていることに気がついた。人差し指と小指を立てて他の指を折る、メロイック・サインだ。なぜおれの身体はひとりでにメロイックサインを形作ったのか?・・・・・・ぼざろのあまりのロック性におれのなかのロックが燃え上がり、暴走蒸気機関めいて身体を動かしたからだ。なんやかんやで3話まで見た今、体内で炎上するロックの音圧はいよいよヤバい領域に来ている。これを放っておくと脳ミソがディストーションするため、おれは急いでこの記事を書き始めたとゆうわけだ。

タイトルのひらがなだけ見たおまえはナメてかかるかもしれない。「どうせヤマもオチもない日常系なんでしょう」とか「どうせ皆でジャンプするんでしょう」とか「掲載誌がどれかわかりにくい」とか「令和のけいおん」とか勝手に決めつけて、ぼざろから逃げ出そうとする。「女子高生を描くアニメは性的に露骨でわいせつだからよくない」「もっとメッセージがあり政治的に正しいアニメを見ましょうね」などとさかしらなイチャモンをゆって、ひとりで悦に入っている・・・・・・これらはすべてスカム行為であることが完全に証明されており、アンプが轟かせる爆音に心身をLET'S ROCKしていない腰抜けのやることだ。そうゆうフェイク野郎はろくにメロイックサインをすることもなく、ロックの熱を感じることもなく、むなしく年老いて、そして・・・死ぬ。

だが、仮に今は腰抜けだったとしても、おまえは遅かれ早かれロックする。『ぼっち・ざ・ろっく!』を見ることでだ。

たしかに、このタイトルは一見ゆるくてふわふわだ。だが真の男の目はごまかせない。このタイトルは"Botch the Rock"・・・すなわち"でき損ないのロック"あるいは"不器用ロック"。ロックというジャンルが背負いし宿命──KARMA──であるところの弱者の反抗心が宿りし力強いタイトルだ。ぼっちとロックに共通するソウル。それを感じたからこそ、おれは決断的に視聴したのである。

ちなみに、第2話を見たあたりでわかったがこのタイトルの英題は"BOCCHI THE ROCK"であり、でき損ないとか不器用とかはとくに関係がなかった。しかし、だからといってぼざろが真のアニメであるという事実も変わらない。

後藤ひとり a.k.a. Botch

リードギター、後藤ひとり。きらら系アニメの主人公らしくピンク髪をしているが、性格はそんなに主人公らしくはない。インドア派でも輝けるから、チヤホヤされるからという承認欲求にまみれた理由でギターを始めた打算的な俗物であり、ギターの腕前は一級品だがぼっちだ。後藤は幼少期の人見知りをずるずる引きずってこじらせた結果、高校生になってさらに人付き合いが下手になった。虚無の暗黒に包まれた中学時代を送ったために、重度の青春コンプレックスを抱いている。ちょうど、そこのおまえのように。

そこのおまえのように

ぼざろは本気のアニメだ。きらら系だからといって、なまぬるく容赦するようなことは一切ない。いつだってマジであり、後藤がいかにぼっちかを過不足なく丁寧に描く。"好きなバンドのグッズをジャラジャラ着けて登校し、誰かに話しかけられるのをひたすら待つ"とか、"校内放送であえてマイナーな曲を流してダダ滑りする"とか、"誰かと演奏したことがないのでバンドでの演奏はヘタクソ"とか、後藤のぼっちエピソードはどれも生々しい質感があり、枚挙に暇がない。俺は確信しているが、きっとぼっちエビソードはこれからも増えていくことだろう・・・。

階段横の謎空間で弁当を食べる後藤

こうしたぼっち性の克明な描写は後藤の人間性にまことのリアリティをもたらし、このアニメに本物の風格を与える。そのこだわりが見ているおれの心を強く惹きつけ、そして深く・・・・・・深く、抉る。つけくわえると、アニメと連動したラジオ番組の第一回では後藤役の声優が目張りのされた閉鎖録音ブースに1人だけ放り込まれ、1時間近くしゃべり続けたりしている。おまえは自分以外誰もいない空間に放り込まれて1時間も話し続けたことがあるか?それは想像を絶するハードコアな行いであり、並の人間なら途中で奇声を上げて失神するだろう。このようにぼざろのぼっち性の追求はとどまることをしらず、徹底的にガチであり、つまり真のコンテンツだ。

公園でたそがれていたところをドラマーの伊地知虹夏によって高校生バンド『結束バンド』に誘われる後藤。変人のベーシスト山田リョウ、逃げたギターボーカルの喜多郁代と共に音楽活動を始めるが、ぼっちの前途は多難だ。ぼっちであるがゆえに。

音楽が完全にロックしており最強

このアニメの主題歌は当然ロックだ。劇伴もだいたいロックだ。オープニングもエンディングもギターがかき鳴らされ、ベースが太く低く響き渡り、ドラムが高らかに打ち鳴らされる。どれも一切奇をてらわない。それは王者アジカンをはじめとした正統派ギターロックの系譜であり、搦め手に頼らずグーパンで一直線に突き抜けるようなものすごいパワーが宿っている。「どうせよくあるポワポワしたキャラソンなんでしょう」とか知ったような口をきく連中がおまえの前に現れるかもしれないが、そんなうらなり野郎はこのたくましい音楽の力を鼓膜に叩きつけられた瞬間に爆発四散するので安心しろ。

・・・おれはとりわけ、このオープニング曲が好きだ。タイトルで薄々分かるだろうがこの曲の歌詞はおそらく後藤によって書かれており、だいぶ後ろ向きである。後ろ向きであるが、しかし、だからこそロックの本質を捉えている。もしここでおまえがロックならポジティブでパーティでハイテンションとか考えているのなら、それは10000%間違っていると言っておこう。ロックとはルーザーのルーザーによるルーザーのための音楽だ。やるせない現実に打ちひしがれた若者のすべてに手を差し伸べて奮い立たせる、気付けのジンである。ロックにおいては弱さこそが強さだ。だからロックは何度も死に、何度も生き返っている。青春コンプレックスにはそうゆう・・・泥だらけになった負け犬がそれでも立ってバウワウと吠え続けるような反骨精神がこめられているのだ。

私 うつむいてばかりだ
それでいい 猫背のまま 虎になりたいから

青春コンプレックス

大サビ前のこの部分は特にR.O.C.K.している。うつむいた自分、猫背、そして虎への変身願望。あまりにも強烈に、あまりにも鋭く尖った連想。この歌詞とメロディから湧き上がるエネルギッシュなネガティブさにおれの身体は瞬時にゼロ年代へとタイムスリップし、震えあがり・・・・・・めちゃくちゃにアツくなった。一度聴いて以来、おれはこの曲を毎日繰り返し聴いている。おまえも繰り返し聴き、厳しいフィンブルの冬にむけて体温を高めるがいい。わかったか。

ルードかつ直線的な映像力

世界観と音楽性が本物であるのと同様に、ぼざろの映像表現力もまた本物だ。作画、構図、カット割、カメラアングル・・・・・・あらゆる部分にプロフェッショナルの技が行き届いている。このテクはPROであるがゆえに決して出しゃばりすぎない。なんかちょっとマニアっぽい変なフラッシュバックをやったり謎めいた心象風景を雑に映したりして作品の方向性を迷わせるような、ナメた小賢しい真似は決してやらない。映像の連続性は合理的な意図にしたがってシームレスに保たれ、そのテンポは損なわれるどころか加速し、おまえを激しくエンターテインメントする。

奥のほうに後藤

ぼざろは陰キャのぼっちが主人公なので、華の女子高生が主人公とは思えないほど地に足のついた忠実なカメラワークが基本だ。アニメアニメしていないそれは、もはや実写映画的といってもいい。ちょっと不安になるくらい広い画角と、おそろしく細密に描かれた正確な背景。そうして遠近感が強調された空間に被写体をポツンと小さく映すカットが頻繁に現れる。たいていの場合、この被写体とは後藤のことである。おまえは後藤の感じる孤独や疎外、後藤を取り巻く客観的状況といったものをたった一目で理解でき、このカットに収められた情報量の多さと理路整然さに思わず腰を抜かすことだろう。

ポツンと後藤

この映像センスの極致が第1話、ライブハウスの楽屋のシーンだ。魚眼レンズじみた超広角のカメラで、天井から見下ろすように後藤、伊地知、山田の三人および楽屋の内部をまるごと映している。完熟マンゴーの段ボールにこもって画面奥側で豆粒のように小さく映っていた後藤が、おぼつかない足取りで手前の伊地知と山田のほうにノスノス歩み寄ってくる。ほんの数歩の間に後藤が画面に占める割合はみるみる大きくなり、ひどく遠く見えた距離が一気に縮まっていく。

後藤が振り絞った勇気、心理と物理両面における後藤の葛藤、後藤の存在格・・・・・・そうゆう諸々がワンカットでいっぺんに伝わるこの構図はとんでもなく挑戦的であると同時にまったく不自然でなく、正しくテクニカルだ。第1話からいきなり全力投球でカマしてきたぼざろの超絶技巧におれは深く恐れおののき、「すごいアニメだな」と思った。

ノスノス歩く後藤

背景に対しては写実的なアプローチを取る一方で、キャラクターの作画はグニャグニャに変わりまくる。立体的になったり平面的になったり大きくなったり小さくなったりやりたい放題だ。これが冷たく硬質な背景との奇妙なコントラストを生み出し、思春期の豊かな感受性と暴走する精神のありさまを見ている側に強く焼きつけてくる。特に後藤はメンタルの弱さゆえに気持ちが表に出やすく不定形のスライムのようにその形を変幻させるので、見ていて飽きない。

グルグル足で走る後藤
芋虫のようなスライムのような何かになる後藤

あるときはさりげなく、あるときは大胆に、キャラの内面と関係性を繊細に描き出す映像力。ハッキリ言ってぼざろは単体の映像作品として相当にヤバく、しかもそのヤバさは毎週最高値を更新し続けている。

一回限りのワンマンライブを見逃すな

BOCCHI THE ROCK・・・・・・このアニメはいわば伝説的なロックバンドによる一世一代のライブであり、一週間に一度、セットリストが1曲ずつ進んでゆく。当然ながらどれも比類ない名曲であり、セトリが進行するごとにぼざろを取り巻く熱狂は加速度的に高まる。

この熱狂は止められず、終わってから追体験することもできない。仮に今後作画がハウったりしてもラストに向けてハコのテンションは上がり続け、瞬間瞬間に燃えたぎる熱のすべてがぼっち・ざ・ろっく!という体験を形成する。これはツアーではない。一回こっきりのONE MAN LIVEだ。そうして、「サブスク入ってるから1クール終わったら一気見しますね」とかしょうもないことをほざくあほを音の彼方に置き去りにするのだ。

配信だろうが最新話を毎週見ることはできる。ならばおまえは今すぐ見なければならない。今見て、毎週見て、このアニメを真正面から受け止めろ。そしてメロイックサインを天に突き上げ・・・・・・ロックしろ。

ロックしろ。


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