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シンガー

泣いている理由を問われないから、ライブハウスが好きだ。
生きていると何もかもに理由を求められる。理由というか、説明を。
名前はなんですか。家はどこですか。学歴はどれくらいですか。バイトはなんですか。家族はいますか。好きになるのは男と女のどちらですか。
ずっと苦しかった。でもそのことに気づけなかった。この優しくて汚い場所にきて初めて、おれはずっと苦しかったんだとわかった。
目上の人と話すときはいつも泣きそうになる。部活の先輩も、採用面接官も、笑顔で圧をかけてくる。学校の職員室なんかに足を踏み入れた瞬間には涙腺スイッチが入ったものだった。恐れか、緊張か、わからない。ただ、相手の「立場」の強さに圧倒されていた。叱られるわけでもないのに、話しているだけで何かが込み上げてくる。相手はうえの立場。おれは下の立場。目が潤み始めた頃、相手から「どうして泣いているの」というNGワードが発せられてしまった瞬間にすべてが崩れる。ダムが決壊したように涙が流れだす。特定の状況で起こる発作のようなものだった。どうして泣いているのか、問われたって自分でもわからないからどうしようもない。説明ができない。自分のことなのに、説明ができないのだ。
ライブハウスは、それを許してくれた。だから好きだ。
立場に上も下もない。服がダサくても、太ってても、喋る時に吃っても、ライブがかっこいいやつが強いのだ。
おれは歌うとき涙が出てしまう。勿論ここは職員室ではないから、違う種類の涙だ。いつか対バンした人いわく「人間は感情的になると大きな声が出るんじゃなくて、大きな声を出すから感情的になるんだ。だから君も大きな声を出しているから涙が出てくるのかもしれないね」ということらしい。その人は死んでしまったし、結局この涙の理由だってハッキリ説明ができないままだ。だけど何かを問うてくる人はここには誰もいない。
滲んだ視界の端っこ、フロアでおれをみて泣いている人がいる。あなたと話がしたいと思う。だけどこちらから理由を問うことはできない。ここはそういう場所だからだ。
出番を終えて、ハンドタオルで汗と涙を乱暴に拭いてふらふらとフロアに戻る。まだ顔と体が熱い。ステージは次の出演者の準備をしている。ドリンクカウンターでビールを頼んで待っていると、声をかけられた。
「ライブすごくよかったです。物販とかCDって今日ありますか」
さっきの泣いていた人だった。
ありがとうございます。ごめんなさい、音源はまだ作っていないんです。でも今つくってます、できる予定です。
『ビールお待たせしました』
あざす。
「そうなんですね。あの、ライブ、本当によかったです。お名前、聞いてもいいですか。あ、何かフライヤーとかもしあればほしいです」
ああ、本当嬉しいですありがとうございます、本当すいません今日…物販なんも持ってきてなくて、えっと、片方の片に山、〇〇●って書いて〇〇〇〇●と申します。
「ありがとうございます。CD楽しみにしてますね」
次の出演者の演奏が始まった。爆音のバンドサウンドによっておれの「こちらこそありがとうございます」の声はかき消されてしまう。ただあなたの黒い瞳にはステージの色とりどりの照明がうつっている。輝いている。まだ涙が少し乾ききっていない。きれいだな、と思う。
おれはさっき口から出まかせだったCD制作について真剣に考えを巡らせ始める。
何かを残そう。そして、できたら、それを手渡したい。物販コーナーで。
もしいつか歌えなくなっても、きっとその理由は問われないだろう。だからおれはライブハウスのことをずっと好きだ。

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