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ありがとうのドラッグ


幸福の本質は感謝なのだった。


「出てこないですね」
出てくるわけないじゃん。
だって、"ほとんど"全部を捨てたのだから。
朝の8時半、家宅捜査には3人の人間がきた。いかにもなベテランと、こないだの直木賞作家に似ている男と、若手の見習いっぽい雰囲気の女。
家の中のすべてを漁られた。ゲーセンでとったキャラクターのぬいぐるみたちも、綺麗に並べてた稲垣足穂の全集も、まとめてあった積読の文庫本たちも、友達からの手紙も、解散した大好きなバンドのメジャーデビュー時のポスターの裏も、メルカリで発送するのに梱包作業してた洋服も、全部漁られた。
なんにも出てこないのに。


脱法ドラッグ「F」は、2026年、東京・福生を発祥とし、青梅線、中央線から西東京を経て日本全域に広まったと言われている。
その頃、私はスマートドラッグを違法売買する中で、ひょんなことからFの存在を知った。
立川駅を出て少し歩くと、薄暗い路地がある。そこで売人と手渡しで取引をする。知らない男だ。某SNSでコンタクトをとった後テレグラムでメッセージのやりとりをして、待ち合わせして現金と薬を交換する。10秒で終わる。
当時のFはまだマイナーなドラッグで、彼らのような本物の薬物ジャンキーたちにとっては駄菓子のような存在だったといい、安価で取引されていた。しかし、のちに"一般層"にその存在が知れ渡ってしまったことにより価格が高騰した。

『ガサが行くかも』
"知人"からたった一言のLINEがきたのが朝の5時半だった。私がすぐに既読をつけると、返信をする隙もなく「メッセージの送信を取り消しました」との表示が出た。電話をかけても繋がらない。何かがあったのだ。何かが。この日たまたま早起きをしていて命拾いしたが、このメッセージに気づかなかったら私はどうなっていただろう。知人に心の中で深く感謝した。
家宅捜査は朝イチで来るという話を聞いたことがあったから、すぐに判断をした。5時35分、家の中に隠してあったFをすべてブラジャーのパッドの隙間に詰め込んで、すぐに家を出た。外はまだ薄暗かった。夜と朝の隙間の時間帯で、みんなまだ眠っているようだった。それでも、パトカーに出会わないか気が気じゃなかった。
それから自転車を飛ばして、隣の隣の駅近くにある公園まで行って、汚い公衆トイレに捨てた。5回も水を流したからきっと出てくることはないだろう。
もったいないことしちゃったな、と一瞬だけ後悔した。
私みたいな派遣OLの仕事なんていつ切られるかわからないから、もしも金に困るタイミングがきたら、それを売って生活の足しにする予定だったのだ。今なら末端価格にして15万円ほどになる。だけどパクられるのは嫌だという理性、というか良心はまだ自分の中に残っていた。
元々この「F」を使うのはいわゆるヤク中や依存者ではないという話だ。サラリーマンや、公務員、医療従事者、アーティスト、主婦、大学生、高校生に至るまでさまざまな人が手を出す。彼らの多くは、普段は常識を持って、正気を保って、生活をしている。私だってそうだ。今の仕事をこんなクスリごときで切られてたまるかと思う程度の自制心はある。ある。
ある、つもり。
だけど私含め、みんなが、Fを使う。


家宅捜査が済んだあと、普段とは全く違う雰囲気の服装に着替えて、伊達メガネをして、家を出た。まだ心臓が落ち着かなかった。
たどり着いた例の公園の汚いトイレは、静かに汚れたままだった。逆流などは起きていないようだった。良かった。私の流した大量のFは無事に下水道まで至ったということだ。

少しだけ逡巡して、私はその個室に入って鍵をかけた。
それからパンツに手を入れた。指で探って、膣の中に押し込んであったパケを取り出した。今が生理じゃなくて本当に良かった。
ミニリュックの中から、一見なんの変哲もない赤マルボロの箱を取り出す。半分ほど残った本数の、その隙間に押し込まれたライターと、忍ばせたアルミホイルを素早く引っ張り出す。
これが最後に残しておいた1回分だった。
早く、早く、早くあの感覚がほしい。期待で心が破裂しそうなほど膨らむ。しかし至って冷静に、こぼさないよう丁寧に、ひろげたアルミホイルの上にFの粉末をのせる。ライターをカチリと点けて、アルミホイルの下から熱すると、美しくゆらめく煙がFから立ち上った。
無味無臭だ。でも、幸福の色をしている煙。

私はそれを思いっきり吸い込んだ。



日が傾き始めていた。せっかく仕事が休みだったのに、朝からバタバタした1日だ。
青空がきれいだ。誰もいない公園のベンチに腰かけた。喫煙をするか迷ったが、やめておいた。今は。
SNSを開く。オフの友人と繋がっている表アカウントから、薬の取引用アカウントに切り替える。
検索欄に「都内 手押し」と打ち込む。すると検索結果欄では夥しい数の売人がありとあらゆる薬物を売っている。手押しというのは手渡し売買の隠語だ。
例えば日雇いで現金1万円を得れば、その日のうちに大抵どんなドラッグだって手に入る。東京はそういう街だ。

ありがたい街だな。東京は。幸せだな。

ていうか、そもそも、ガサがきたところで、合法なんだから。私は何も悪いことをしていないんだから。人殺しもレイプも盗みもしていない。
ただちょっと人に迷惑をかけずに幸せになりたいだけ。

ちょっとだけ。幸せに。

幸せになりたい。
そう、幸せだ。幸福こそが人生の価値だ。

Fが効いてきたのを感じる。

夕日がとてもきれいだ。
タイムラインに有名なバンドの歌詞botの投稿が流れている。
【生まれたところや肌や目の色で一体この僕の何がわかるというのだろう】
本当にそうだ。歌ってくれてありがとう。
生まれたところ、肌や目の色、女という性別、恋人の有無、派遣で働いてること、コミュニケーションがちょっと下手なこと、頭が良くなる薬を飲んでること、住んでいる物件のグレード、ファッション、好きな作家、好きなバンド、
そういう属性なんか全部関係なくドラッグはすべての人に平等にキマる。
平等にやさしいのだ。
ありがとう。

ありがとう。
夕日がきれいだ。きれいだなあ。

夕日が。あまりにも美しくて。それを見ることができる、私は今生きていて。幸せで。幸せなんだ。


見知らぬ高齢者が近づいてきた。
「お嬢さん。どうしたんですか。大丈夫ですか。」
そう言ってポケットティッシュを差し出してくれた。




脱法ドラッグ「F」は、意識に大きな変容をもたらす。
その中でも、とりわけ強くわきあがる感情がある。
それは【感謝】だった。Fが広まった理由はそこにあった。



私は笑顔で大粒の涙をボロボロ落としていた。

「ありがとうございます。大丈夫です」

大丈夫です。私は。これは、嬉しくて泣いているのです。今は大丈夫ですし、これからもずっと大丈夫です。
空が青くて泣いている。ありがとうございます。夕日が美しくて泣いている。屋根のあるところで寝れるから泣いている。ありがとうございます。目が見えるから泣いている。読み書きができるから泣いている。言葉がわかるから泣いている。心臓が動いているから泣いている。ありがとう。
このクソッタレな人生にいつか終わりがあることが、嬉しくて仕方ない。ありがとうございます。だからこの世界のシステムに、この世界のすべてに、ありがとうございます。
ねえ知らないおじいちゃん、やさしくしてくれて本当にありがとう。でも大丈夫。私が泣いているのは、生きているからなの。いつか死ねるからなの。それって、それって、感謝すべき話じゃない?
人生の価値は幸福で、幸福の本質は感謝なのだ。
こんな気持ちは、絶対に何をしたって手に入らないのだと思った。私が月収40万円になっても、大好きな人と幸せなセックスをしてその果てに新しい命を授かっても、何か大きな夢を追いかけてそれを叶えても、だからなんだっていうの? 悲しいけど、全部私には贅沢の範疇を出ないよ。
Fをキメてるあいだは、そういう幸せを手に入れたやつらがチンケに思える。ドラッグやったからって、気が狂って犯罪だって起こすわけがない。だって私は、この世のすべてに感謝することができるんだから。そんなにやさしくて最強で尊いことって他にある? 感謝の気持ち。ありがとうの気持ち。世界を平和にする感情。私はこんなに、こんなにも幸せで、世界に生かされていて、恵まれていて、こんなにも、こんな幸せな気持ちは、何をしても絶対に感じることができない。絶対にそれだけは絶対だ。たぶんじゃなくて絶対なのだ。

生きてゆける。

だから私は、また立川駅の裏路地へ、取引に行くだろう。

いつか遠い昔に、涙で滲んだ同じ情景を保育園の砂場で見ていた。ありがとう、ありがとう、私も仲間に入れてくれて。

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