見出し画像

解題・晴眼者

風が。風が吹いた。風を感じますね、と伝える。
「そりゃ教えられなくてもわかるよ、風が見えないのは俺もアンタも同じだろがよ」
おかしくてたまらないというようにあなたは笑う。そうか。そうだな。
見えるものと見えないものの境界は案外曖昧なのかもしれない。
あなたが車椅子の高さから感じる風と、車椅子を押す僕の前髪を揺らす風。大差はないのだろう。

「しかしまあ、なんでまたサウナなんて行こうと思ったんですか…」
「今爆発的に流行ってるじゃねえか。整う、っていうの?メクラの俺だって楽しむ権利があるんじゃないかと思ってさ」
友人の介助の協力を得て、思う存分サウナを満喫したあなた。見えないからこそ、その他の知覚が研ぎ澄まされて、むしろ健常者よりサウナの恩恵を受けて「整いすぎた」のではないか。帰路についたあなたはとんでもない不幸に遭う。
「いやー、油断してたね。歩き慣れた道だから大丈夫かと思ったんだがなあ。酒飲んでたのが良くなかったね」
歩き慣れた道を通って一人で自宅まで帰る途中、そこそこデカめの用水路に落ちたのだ。さらに足の骨折。
「バカ、ですよね」
「とっさに家の鍵とスマホとアップルウォッチは死守した、酔ってたけど。でもお気に入りのサウナハットが…たぶん流されちゃったんだよなあ…あれ限定品だったんだぜ、海まで流されちゃったかもな」
「(サウナハットって何…?)わかりました、わかりました。当分はあなたはサウナ禁止です。あと飲酒徘徊も。飲むなら家で安全に飲んでください」
「へーへー」「それは自分の身体に関して知っておかなきゃダメなことですよ」
「もうさ、付き合い長いからね、見えない目と、この自分の身体と。知ってるつもりとてたまにやらかすんだよー。まー、このたびは命あって良かった良かった」

車椅子は、口ばっかりは元気なあなたを乗せて、お散歩コースを往く。

「僕、介護の仕事にくる前、日雇いバイトばっかり繰り返してたんです」
「タフじゃねえか」
「その日暮らしですよ。長期のバイトが続かないから。人とコミュニケーションを構築するのが辛いんです。何度もバックれ…逃げ出したこともあります」
苦々しい思い出だ。どうして今こうしてあなたに話す気になったのだろうか。
「今だから言える話ですけど、26歳で、死のうと思ってました。…好きな文豪がその歳で。早世ですよね」
「へー。俺でも知ってる有名な人?」
「…石川啄木、わかりますか」
「バカにすんなよ!知っとるわ!」またあなたはケラケラと笑う。
そんで、まあ、結局30まではとりあえず生きちゃってるんですけどね。
「…ある日、早朝から駆り出される日雇いバイトがあったんです。その時、都心の駅を使うんですけど、もう、だーれもいないんですよ。時間が早すぎて。そしたら僕、誰もいない舞台に見えてきちゃって、今からここで踊り出したい衝動に駆られちゃって。早朝ハイになってたんでしょうか。まあやめときましたけど」
朝は美しいのだということを、朝からの日雇いバイトで知った。誰もいない駅。夜と朝の隙間から、だんだん朝に移ろっていく空。1日を始める人々が闊歩する街。
「朝って、美しいんだなって。今でこそ、この仕事してたら、朝起きて夜寝るとか、まあイレギュラーもありますけど、やっぱり朝は美しいんですよね。日雇い時代は昼夜逆転してたから」
あなたはしばらく沈黙した。ふと、風が。風が吹いた。
「俺の足はボチボチ治るんだよな?」
「ええ、ただの骨折です。また歩けるようになりますよ」
「不安だけどな」
極めて明るい表情を作って、あなたは「不安」を口にした。確かに口にした。
「アンタは、不安か? 先の未来とか、いきなり不治の病にかかるとか、まあ、これから何が起こるかわからないとかさ」
言い淀む。
「そりゃ不安ですよ」
そうだよなあ。
あなたの目は遠くを見ている。いや、まだ見えた頃の、記憶の中の何かを見つめているのかもしれない。


「でも大丈夫だ。俺の目がもし見えたとて、未来は見えないんだぜ」


「うん。それは一緒。あなたと僕、お揃いの不安ですね」
「不安。でも全人類のお揃いの不安なんじゃねえの」

「●●さん。朝はいつでも来ます。朝は美しいです。毎日来ます。そんで、あなたが歩き出すときを、いつでも、毎日、ずっと、待っていてくれると思います」

見える僕。見えないあなた。さらに、歩けないあなた。
それでも、お揃いの不安。それだけで僕たちは繋がっていける。

それでも僕は、晴眼者だ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

風、わかる? 見えないのは同じよ
知りたいこと 知りたくないこと
知らないとダメなこと
世界の本当はわからないから
はじめて逃げ出した日のことは もういい
星あかり まだ見えてると
朝早いターミナルは大きな舞台みたい
でもニューバランスで踊り出すのは一人だけ
僕だけだろう と思った

26歳で死ねないなら文学以外は全部嘘
ありがちなよくある人生なんてやってらんないぜ
僕はただ 僕は今ただ 真っ白な未来が怖い

風、わかる 前髪が揺れたから
朝はいつでもはじめて歩く人を待っている
それだけだ

僕は今ただ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?