倍速・雨月物語

映画を倍速で見ることが流行っていて、それを疑問視することも流行っている。
どちらかというと自分は旧態依然とした人間なので、ひとさまの作品を倍速で観るなんて「けしからん」と言いたい側だ。

とはいえ、少なくとも一度くらいは倍速映画を経験すべきで、話はそれからだろう。
ちょうど、観たかったけど放置していた映画があったのだ。

生半可なブツではない。
世界クラスの傑作、溝口健二『雨月物語』だ。
これを倍速で観る。しかも初見だ。少々もったいないが心して再生ボタンを押す。


観た。


終わってみると、思いのほか「一本の映画を見た」という体感がしっかりある。
どうやら再生速度と「映画であることの実感」との相関は意外とないようだ。

カット内の動作による説明がとても流麗なことも幸いした。
たとえ倍速であっても、誰が、何のために、何をして、どうなったか。それがひとつひとつ簡潔明瞭にフィルムへと納められているので、思ったより不都合なく見ていられる。これは名匠所以ということか。
声の違和感についても、元々アフレコっぽさが濃厚だから、これも順当なものとして受け入れることができた。

ただ「倍速で観ている」という時間操作の事実を知っている以上、それを無視できないというのは、作品世界を味わう上でのノイズだった。しかしそれと引き換えに「時間の速さ」を常に念頭に置いた鑑賞となった。

映画にはそれぞれ独自のスピードがあって、それは作品の内側でのみ決定される。

それを表面化する技術は多岐にわたるが、こと雨月物語においては、たとえば朽木家の若狭と老婆が交互に喋る際、口調の格差はやり過ぎと思えるくらいに強調されている。その相対的な格差は映画内の世界でのみ比較されうるものだから、鑑賞者が鑑賞者の時間軸において、等速で見ようと倍速で見ようと、若狭と老婆の差が示す時間の幅は変わらない。

若狭が早口で喋るほど、老婆の喋りはのっぺりと粘り、
老婆の口調に念の粘りが増すほど、若狭の言葉は軽やかに跳ねる。

映画のスピードは映画の内側で流れていて、鑑賞者はそれに沿わざるを得ないのだと思い知らされる。それがたとえ、自分が操作したものであったとしても、「観ている」という時点で、かつて世界の速度をコントロールした鑑賞者は、それを忘れたかのように映画内の時間経過に従うのだ。
たぶん、これが映画の呪術性だ。

そもそも、フィルム時代の映写機だって、細かく見れば一台ごとに違うはずだ。
さらに言えば、DVDだろうが配信だろうが、データ化されているとはいえ、一回一回の再生が「厳密に同じ時間数」という証明はできないはずだ。細かく精査すればいずれ差異は出るだろうし、その点を追い求めれば限界はない。
結局、「ひとりひとり、その時々バラバラの個別体験である。」という言葉に収斂させるぐらいしか落とし所が見つからない。

にも関わらず、あるべき映画の速度というものはある。証明ができなくても、自分の中にもある。
作者の側には当然、「これくらいのスピード感」という感覚はあるはずだが、再生機器と映像を受け取る人間の曖昧さとの二重のフィルターによって、作者理想の速度が保たれているのかどうか、最終的には誰も分からない。

とはいえ、冒頭に述べた通り、登場人物の行動原理と動作が直結されているので、台詞の多くは聞き取れないものの、思ったより問題なく見られてしまう。台詞を細かく確認するために速度を落とすということは、結局一回もなかった。
そもそも昔の映像が何となく早回しであることに慣れている点も、受け入れる要因としてはあるかもしれない。

ただ、倍速鑑賞があちこちで批判されているように、感情の移り変わりについては、そのスピードに合わせるのがなかなか大変だった。
倍速鑑賞は「事実の突きつけ」→「逡巡」→「行動」のスピードが速く、ボーッと観ているとありのままをストレートに受信できない。
そんな時、どうやら脳はそれらの推移を一旦ひとつの圧縮ファイルとして受け取り、受け取ったこちらの脳で解凍し、自分のスピード感に落としてから理解しているようだ。

つまり、映画内における感情の推移を理解するためには、動作のラグが発生する。そこの齟齬が気持ち悪くなると、鑑賞する側は登場人物の逡巡を無視し始める。理解のスキップが始まる。

倍速の台詞は正確に聞き取ることが困難だが、フィルムの流れは映画内の整合性を保ちながら進行する。理解のスキップをしながら、その世界に振り落とされまいと、どうにかおぼつかない理解で追随する。

おそらくこれは、子供の感覚だ。
子供が、大人の世界を見上げながらついて歩く感覚だ。
わからずとも、かいつまみ、理解の範疇にスポットを当てる。
リアルタイムで判断つかないことは、未来の自分に向けて留保する。

驚いたのは、「倍速で映画作品を観るのは失礼である」という、自分が疑う余地はないと思っていた前提とは逆の現象が起きたことだ。
遅い自分にはついていけないことが、映画内ではすべて当然に進行している。
となれば、劣っているのはこちら側だ。

映画を早回しすればするほど、自分が遅くなる。
フィルムの呪術は、時間を相対的なものとして浮き上がらせる。
映画の中から、こちらはスローモーションの世界として見返されている。
相関関係の中で、時間はどんどん立体的に、豊穣に感じることができる。
観るほどに、ねじれた時間の別世界が、こちらとあちらの間に薄く現出する。

思ったよりもヤバイ体験だった。
そう遠くない先、速度そのものが存在しない映画が登場するかもしれない。
鑑賞者としての体験には、バリエーションが無限にあるのだから、たぶん、そこに未来はある。

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