4分33秒

農作業を初めた最初の年、作業の退屈さから逃れるために手に入れたのは、安いmp3プレーヤーとイヤホンだった。
音源データは大量に持っているし、なんならどこからでも手に入れられる。音楽・ラジオ・落語・講演などなど。かつてはゆっくり聴けなかった長時間のコンテンツだって聴き放題だ。農作業は至福の時間となった。

そのうち収入的に不安を感じてバイトを始めるのだけど、自分の条件は作業中にイヤホンをつけてもOKな仕事だった。これにより、一日10時間以上イヤホンをつけて生活をすることになった。
至福の時間は、「そうでなくてはならない」時間となった。イヤホンが壊れると次のものを即購入し、やがて数本のスペアを抱え、ワイヤレスイヤホンが登場すると、ちょくちょく無くしては新しいものを購入していた。貧乏人にとってはけっこうな出費だったが、自分にとっては必要経費だった。それがなくては作業できないのだから。

依存は、それが「切れた時」に自覚する。イヤホンを壊したり無くした時の「いや。それはないでしょ」と、考えるより先にリカバーに入る即断具合は、自分でもちょっと逸しているとは思っていた。
だが、中毒はそんな自省など秒速で乗り越える。なんだかんだで約10年、自分の昼間はイヤホンと共にあった。

一昨日、またワイヤレスイヤホンをなくした。

こないだも壊したばっかりなので、さすがに嫌気が差した。
もう、やめたらどうだ?

ひと晩考えて、翌日、イヤホンをせずに外へ出た。
そこは全く別の世界だった。
外界は、音が立体になって聞こえてくる。
イヤホン装着時は、外の音が聞こえないと困るので、いつも片耳づつ使用していた。そうなると、常に二つの音を同時に聴き続けることになるが、当然二つの音は、それぞれモノラルで処理される。奥行きは消え、頭の中では「二枚のレイヤー」という捉え方になる。
それが、イヤホンを外すことでレイヤーの概念が消え、「奥行きと広がりがあるひとつ世界」が現れた。
当たり前のことをバカみたいに書くが、世界はヤバいくらいの立体感と空間感に満ちていて、つくづくそれに驚いたのだ。屋外にいながら10年自閉していると、雑音だらけの外界がフルオーケストラに聞こえる。

いや、フルオーケストラという表現は少し語弊があった。
喩えるならそこから指揮者が消え、演奏者がてんでバラバラに勝手な音を出しているような感じだ。「もの」それぞれが、それぞれの時間を有しているのが当たり前で、そもそも「一定の時間」というルールは人間だけのものだったと気付かされるのだ。

というのも、録音物やラジオの音声コンテンツは、ひとつの時間の流れに固定されていて、そもそも自然という、時間軸がてんでバラバラの世界にいても、音声コンテンツを耳にしている時点で他者による「一定の時間の流れ」に同調してしまう。
それが10年続いた直後、ある日自分のメトロノームをひっぺがしたら、どこまでも続く乱雑なオーケストラがいきなり現れたのだ。
これを好きか嫌いかは好みが分かれるだろう。調律された世界も、それはそれで美しいのだから。
イヤホンというメトロノームは、自分にとってはまだ社会のルールに沿っていたいという「未練」だ。自然に身を投じる怖さは、消えたと思っても必ずどこかにまだ残っている。

しかし幸いにも自分の場合は乱雑な無秩序に、汲めども尽きぬものを感じ取ることができた。これは、ジョンケージの存在が大きい。

ジョンケージは、「音を音としてそのまま聴く」ということを極めきった人で、音が纏っているすべての「意味」をはぎとるためなら、タロットだって易だって使いまくる。

ケージの代表作「4分33秒」は、「あなたの周りの音を聴け」という音楽だ。そういう理屈は分かっていたが、それを体感しなおかつ感動するというのは、ちょっと自分の世界では考えられないことだった。おそらく、自分は鈍感だ。

その鈍感な人間が、「4分33秒」の言わんとしていることを情動をもって理解するためには、10年イヤホンを装着し続け、ある時それを外す、というバカみたいに回りくどい道を辿る必要があったのだ。

しかし「4分33秒」は、そんな理解のさらに上を行く。
タイトル通り、この曲には時間の区切りがある。楽章もある。つまり、「一定の時間の流れ」なのだ。メトロノーム的な、人為的な音楽なのだ。

たとえば作曲家が「まるで自然界のようにダイナミックな」ものを希求するのは正しい傾向だろう。しかしジョンケージは、音を音として聴き続けた挙げ句の果て、楽譜の中に「ホントのダイナミックな自然」を織り込んでしまったのだ。イミテーションでは太刀打ちできない。
氏はそれを楽曲の終章をもって締めた。自然が楽曲を超え、その自然を楽曲でさらに超えたのだ。

卵が先か、鶏が先か。
2年ほど前、まだ人前で音を出すことを面白がっていた頃だ。
コロナ渦の始まりに、半ば冗談で「4分33秒を無限リピート」というネタをやったことがある。要はかの曲を自宅にて無限リピートすることで、みんな元気に過ごしましょうねという、回りくどく自粛を促す内容だった。繰り返すが、半ば冗談だったのだ。

思ってもみなかった。それが今になって、我が身のこととして目の前で起こったのだ。
世界には本当に音が溢れていて、それはひとつ残らず感動に満ちたものだった。
困ったことに二年前、自分は「リピート」のボタンを既に押している。
トラックは終わらない。だから出られない。でも、それでいい。


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